古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

そして明日の世界よりーー 批評 ー満たすべき全てー (3319文字)

「追い込まれた人は醜い。きっと俺もあんな風に人を踏みつけにするようになる。

 自分の事しか、考えられないようになる」

恐ろしかった。

星そのものも恐ろしい。

しかし何よりも恐ろしいのは

恐怖に負けた時の自分だった。

 

ブランド:etude

シナリオ:健速

公式サイト:そして明日の世界よりー

 

オタクはみんな終末モノが好きだと思うんですが、まぁ一口に終末モノといっても結構種類は分かれるわけで。

例えば世界が終わる前なのか途中なのか、あるいは終わったあとなのか。

有名なところでは「渚にて」は途中だし、「少女終末旅行」や「人類は衰退しました」とかは終わったあとでしょう。こう考えるとやはり『穏やかな終末』と呼ばれるものは終わってしまったあとのものが指されるイメージです。唐突に突きつけられる終わりに対して、どうしてもパニックや悲しみを捨てきれないんですね。

 

そういう意味では本作は世界が終わる前の物語です。

約3ヶ月後に隕石は地球に落ちてくるけど、きっとその瞬間までは何も変わらない日常があるはずだった。けれど人がその存在を知ることで、世界はどんどんおかしくなっていく…。

悲劇と恐慌に満ちてしまった世界の中で、最後に残さなければと思ったものは一体何だったのでしょうか。

 

約15年前に投稿された『遠い空の向こうに―』という静止画MADに魅入られてからここまで来てしまいました。DEARDROPS同様、これは自分にとって"運命"の作品でした。

最近そんな感じで人生のまとめに入っていそうな自分ですが、これからも当たり前の日常のように細々とやっていきます……。いや、これ何の話?

 

それでは、以下ネタバレ注意で。

 

どこまでも

ついてくる夕陽。

横を走る青葉。

先で手を振る御波。

そんな俺達を見守る朝陽姉ちゃん。

他にも父さんや母さん、陽おじさんや八島じいちゃん。

島の全ての人達。

俺の世界はそういったもので出来ていた。

 

人というものは楽観的で、ありふれた日常がどこまでも続いていくのだと信じている。

自分や大切な人が、事故や病気でいなくなることなど考えない。あるいは考えたとしても一瞬で、万が一の備えくらいにしか認識していない。

けれど現実は優しく不条理に、聖者も悪人も関係なくその命を奪っていく。

 

昴に突きつけられたのは、隕石によってその日常が終わるという事実だ。

何よりもありふれた世界を愛していたからこそ、誰よりも世界が終わることに苦悩する。

 

ここでいう「世界」とは地球儀で表される世界ではなく、ましてや彼自身の生命でもない。彼にとっての「世界」とは皆がいる島であり、なんでもない一日なのだ。

だからこそ、それが崩れそれを取り戻すことがストーリーの根幹となる。失われかけていた日常を再確認する(ノーマル/御波END)、あるいは見つめ直した時(夕陽/朝陽/青葉END)に彼が取り戻したものが各ルートでは描かれている。

 

何をしても無駄。得るものなど無い。

きっとその通りだと思う。

新たに手に入れるものは無いかもしれない。

作り出すことも出来ないのかもしれない。

だが取り戻すことなら出来る。

―――昴

 

やがてくる隕石が壊した「世界」は2つある。

1つは3ヶ月間の『今』の世界。昴たちが愛して、必死に取り戻した日常の世界。

1つは3ヶ月後の『未来』の世界。誰もが築き上げるはずだった幸せなもしもの世界。

 

誰かと紡ぐはずだった幸せな日常は、しかし3ヶ月には無くなってしまう。たしかに世界が終わる前である『今』に、ありふれた日常を謳歌することは間違っていないだろう。

だけどそれはやがて形をなくしてしまうのだ。自分たちが残せるかもしれないものは、もしかたら何もなくて。シェルターがあったって人類は絶滅してしまうかもしれない。

『未来』が無いとしたら、『今』を楽しんだってなんの意味があるだろう?

全てが波にさらわれて消えてしまうのなら、砂浜に残した文字に価値などあるのだろうか?

 

いつまでも

俺たちはいつも探している。

同朋の痕跡を。

俺たちが一人ではないという証を。

……ここに生きていることが、無駄ではないという確信を。

俺達がただ滅びていくだけなのだと、認めるわけにはいかなかったから。

 

人類が生まれて約700万年。その歩みの最先端に私たちはいる。

一方でたとえ隕石が無くとも、いつかその歩みが止まることも皆知っているだろう。それは戦争なのか海面上昇なのかパンデミックなのか、はたまた宇宙の熱的死なのかはわからない。

ただひとつ確かなのは、私たちはいずれ何も残せなくなるということだ。

 

昴達が残した温泉の情報と写真は、25年という時を経てコロニーの彼らの手に渡った。

いくつものコロニーが生き延びられなかった中で、幸運な彼らは地上で昴達の足跡を知る。

 

だが、昴達が残したものが彼らに届かなったとしたらどうだろう?

島の人々は何も残せず、そこに誰かがいたということすら覚えてもらえない。だったら昴はコロニーに行くべきではなかったのか?しがらみも思い出もすべて持って、世界の全てと引き換えに伝え行くべきではなかったのか?

 

「今日の続きの明日、明日続きの明後日、その果てでもし必要なら

 俺はシェルターに行こうと思う。

 逆に残る必要があったらここに残ろうと思う」

俺にとってどちらに価値があるかは、これからの日々が決めてくれるだろう。

―――昴

 

確かに何も残せないのならば、大切だったものを少しでも存在させるために昴はシェルターに行くべきだったかもしれない。けれどよく考えてほしい。例えば人類がこの先(熱的死さえも克服して)永遠に続いていったとしよう。ならばここにいる私達の生きている意味とは、後に続く人たちのためだけにあるのだろうか?もしこの瞬間に私達が成し得るすべてのことが成されたのなら、私達が生きている意味など無くなってしまうのだろうか?

いや、そんなことはない。残すものがあってもなくても、結果のみが人の生きる意味ではないはずだ。

結果は私達が繰り返した日常の先にある。それが残るか残らないかはちょっとしたオマケに過ぎないのだ。結果が私達の生きる意味ではない。生きた先に結果が残ることがあるだけだろう。

 

遠い明日はその遠さが故に私達を眩ませてしまう。

けれど、どんな明日だって今日という日の続きにあるに過ぎない。今日という日常が、抱いた想いが、満たすべき全てが、どこまでもいつまでも、ただただ続いているだけなのだ。

だから生きる意味なんてものは、今日を楽しく過ごすだけで良い。今日がないまま明日が来ることなんて無いのだから。

 

そして明日の世界から、今日の世界が何よりも幸せなものだったと知ってもらえますように。

それこそが、葦野昴が最後に選んだことではないだろうか。

 

明日という日が、どうか今日という日の続きでありますように。

……いや、

いつだって明日は今日の続きだ。

そうだろう?みんな

 

所感

今回はちょっと例外的に、作品で語られた外の話をメインでしてみました。

「あすせか」のメインといえば「日常」であって、それは重ねた年月や人同士の思いやり、そして美麗なCG(マジで美しい)によって語られています。

Amazing Graceや「考える葦」の話もそうですね。全体的に「日常」を取り戻すこと、そしてその日常が本当にかけがえのないものであることが作品を通じて伝えられていると思います。

だからこそ僕はノーマルエンドでボロ泣きして、3回位プレイを中断しているわけです…。購入日は15年8月…、ってこれ購入したのななリンよりも前なんですね…。うわーお、積んでたなぁ…。

 

今回は中心で話さなかった「今」の世界については、まぁ皆さんプレイしてわかってるでしょ…ということで。語るほうがイマイチなことってありますからねぇ。

 

つーか今作、本当にCGが美しくてなぁ…。僕が今までプレイしてきた作品の中で一位二位を争うかもしれない。

 

お気に入りルートはノーマルは当然として、夕陽と御波が特に好き。Amazing Graceや「考える葦」という最初から提示されていたものをよく回収できてGoodでした。

キャラとしては御波と竜、そして八島のおじいちゃんかなぁ。竜の昴に対する信頼が言葉少なくとも伝わってきて何度も頬を濡らしてしまいました…。

 

それでは最後に好きなCGをペタリ。

また次の長期休暇にお会いしましょう。

(終わり)