古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

水月 批評 -不確かだからこそ-(4676文字)

不思議だから、おとぎ話なんですよ。夢を見るためのお話なんですもの

 

ブランド:F&C・FC01

シナリオ:トノイケダイスケ

公式サイト:水月

 

実は前々から興味あったんですが、Grand Packageも発売されたしってことでプレイ。

いやー、分かっちゃいたけどやっぱ名作…。

 

民俗学と可能性が響き合うファンタジー…と纏め切れないのが、この水月の魅力なわけなのですけど、20年経っても色褪せない作品だなぁ。

もはや文学に片足突っ込んでるじゃん、と言うと僕が本物のオタクみたいですが、いやでも実際文学的な美しさを持ってるんだよ水月って!

 

まぁシステム周りの不便さとかはあるんだけど、これは年代物だからWin10で動くだけでも良しとしよう…。いや、買ったのはGrand Packageだからフツーにシステム周りも改修して欲しかったんだけどね。

 

ここで語った内容は臥猫堂さんの焼き直しになってしまってるけど、そういうものもあってもいいよね、ってことで一つ…。(ついぞ臥猫堂さんはまとめた記事を出さなかったし…)

 

しかし夏に相応しい物語を、夏にクリアできて実に満足。

そんな感じで、以下ネタバレ注意。

 

或る彼岸

「鳥居門は、異世界に通じる門なんだよ。だから神社は日常の中にぽっかり空いた異世界なのね。人の世と神の世をつなぐ門。だから、この門の向こうは…」

「人の世じゃない?」

 

人の世ではない場所、この世の常識が通用しない場所、あるいは世界の法則を必要としない場所…。それは時に彼岸と呼ばれる事がある。

彼岸というと先祖が帰ってくる仏教行事のイメージが強い人がいるかも知れないが、ここでいう彼岸とは「あの世」ではなく「異世界」としての意味合いが強い。

こちら(此岸)ではない、あちら側。鳥居をくぐった向こう側であり、作中で言えばマヨイガや洞窟の先がそれに当たる。

 

こちら側でないのだから、彼岸ではこの世界のルールは適用されない。人でない人(山の民)がいたり、同じ夢を見たりすることだってある。

もちろん、此岸と彼岸はシームレスに繋がっているわけじゃない。例えば三途の川なんかが良い例だろう。此岸と彼岸の間にはある種の”境界”が必要なのだ。それは思想としてではなく、私達の認識として境界が要請されるからに過ぎない。こちら(此岸)とあちら(彼岸)を分けるために、分ける基準が無ければならない。*1

水月でも、マヨイガへ向かうためには小川を渡らなくてはならない。約束の樹がある場所は洞窟の向こう側にある。あれはすべて異世界に渡るための手続きなのだ。

 

そして同時に、境界を超える/境界が曖昧であるのならば、不思議な現象はたやすく起きてしまう。

幽霊やお化けといった不思議なものは子供だけに見えるという話があるだろう。あれは子供の世界の中で確たる境界(つまる常識)が無いからに他ならない。だから鈴蘭は突然現れたナナミを拒まないし、子供の透矢はナナミや雪さんを簡単に受け入れてしまう。

しかしそんな子供も大人になるにつれて「サンタクロースはいない」「幽霊は見間違い」「風船は夢で浮かんでいるわけではない」といった認識が身につく。そういった不思議を無いものとして扱ってしまう。それこそが透矢が本当の意味で忘れてしまっていたものだ。

 

「悲しいけどね、風船ウサギとは住む世界が違う。あの子たちは、月の世界の生き物で、人の世界では生きていけないの」

「でも、人の世界で生まれる」

「あの子たちは、子供の夢で大きくなるんだよ。だから子供の手から飛び立っていくんだって。それで、大人は魔法の力で後押しする。そうやって風船は月まで昇るのね」

「…それって、ちょっとひどい話だよ」

「ひどいね。透矢は、あんなに大切にしていたのに、雪はいなくなっちゃった。でも、あのままキミが雪を手放さければどうなっていたかな?」

決まってる…いつか、しぼんで無くなるんだ。

「あのとき、キミがたくさん夢をあげて、手を離したから、今でも雪は月にいられるんだよ。ただ消えずに済んだ」

───花梨、透矢

母親の代わりになってくれたナナミ様や雪さんを「ある」としたのは子供の透矢だが、それを「なかったこと」にしてしまったのは大人になった透矢だ。記憶を失った大人の透矢は一時的に判断材料(社会常識、つまり境界だ)を無くしているからこそ、雪さんを「ある」とすることが出来る。*2

もちろん、子供の頃の出来事を「ある」と信じ続けようとすることはできたかもしれない。だがそれは社会(常識)が許さない。この世(此岸)で生き続ける限り、この世のルールに従わなければならない。

花梨が語ったのはこの世のルールであり、彼岸との妥協点だ。風船ウサギ(雪さん)はこの世にあってもいいが存在してはならない。サンタクロースが寓話として認められても、存在自体はあり得ないと判断されるように。

 

だからこそ、本当の意味で雪さんとずっと一緒にいるには、或る彼岸でなくてはならなかった。

夏に降る雪。それは此岸ではあり得ない現象。だからこそ、花梨(現実)の手を離すという手続きを経て透矢は彼岸へ向かった。雪さんと二人でいられる世界に、透矢はようやく辿り着いたのだ。*3

 

二人きりの世界も、素敵ですよね

 

もっとも優しいもの

だがなんてことだ!それなら矛盾こそがもっとも多く語る命題ではないのか

───L・ウィトゲンシュタイン (『草稿』 1915.6.3)

 

雪さんやナナミを「なかったこと」にしてしまうのは、常識という境界のせいだ。しかしもう一つ忘れてはならないものがある。それが過去だ。

確かなものは今現在にしかない。過去は──水月のように──不確かだからこそ、世界5分前仮説も否定できない。過去に何があったかは誰にも立証しきれない。現在の証拠から、そうかもしれないという「可能性」を信じることしかできないのだ。

私達がこの世で生きていく上で、信じている「可能性」の過去が現在の状況と大きく矛盾しないから『過去は確かだ』という誤解を持ち続けられる。

いちどすべて忘れてしまって、わかったんですの。過去というのは、現実という世界から切り離されてしまった世界だということが

───ナナミ

ナナミだけでなく、記憶を失った透矢も同様に過去が「可能性」だと再確認する。写真の約束の彼女の正体、雪さんとの思い出、マヨイガで出会ったナナミ…。断片的な記憶しか無いからこそ、それが現実にあったことなのかどうかわからない。透矢にわかるのは、そういった「可能性」があることだけなのだ。

 

透矢の過去だけでなく、ナナミの正体もまた「可能性」から成り立っている。

例えば「ナナミ山の民説」と「ナナミ渡来人説」は矛盾してしまう。ナナミEND付近では「山の民説」が採用されていたが、ナナミが本当に山の民なら透矢と那波が見た夢の説明がつかない(「山の民説」では巫女の名前としてナナミが使われたが、「渡来人説」では透矢の前世からナナミと名付けられたなど)。

これは設定として破綻しているわけではない。むしろ「山の民説」も「渡来人説」も過去の可能性として同居しているのだ。

もちろん「山の民説」が真実であれば、「渡来人説」とは矛盾するので「渡来人説」の記憶や証拠はなにかの間違いだったとなる。話は戻るが、雪さんを「なかったこと」にしてしまうのはこの矛盾がゆえだ。社会常識や此岸のルールと矛盾するために、雪さんがいた可能性が排他されてしまった。

 

ある「可能性」を選び、世界を確定させてしまう(と思い込む)事自体は悪くない。そうしないと社会で生きていくことはできないからだ。

花梨/和泉ルートでは透矢達が何かを選ぶことで、ようやく先に進めるようになる。花梨ルートでナナミを射殺さ無ければならないのは、そういった「可能性」を否定する(つまり「いなかったこと」にする)ためだろう。現実を生きるという決意をした以上、彼岸に囚われるわけにはいかないのだ。

双子ルートはそういった不思議の「可能性」を残しつつ、現実に生きる選択をする。透矢のではなく、マリアのという部分がミソだ。ナナミや約束の彼女に触れず(確定させず)、マリアの母親や狐を憑きものとして落としてしまう。ある種ファンタジーとしての解法なのだ。*4

 

一方で那波ルートでは、最後まで本当の設定が明かされ切ることはない。「山の民説」も「渡来人説」も同じ重みで同居し、ENDでは別世界とも呼ぶべき那波の登場で締めくくられる。

他ルートで見たように、何かを選べば何かを切り捨てなければならなくなる。しかし「可能性」であり続ける限り、世界は矛盾を許容することが出来る。矛盾とはもっとも多くを語る命題なのだ。そこに存在しないものは存在しない。雪さんがいて、花梨と学校に行けて、ナナミに名付けた過去も、ナナミにマヨイガで出会った記憶も、全てが嘘にならない。

 

見えないからこそ、見えるもの。それは人の想いであり、何もかもを許容する可能性だ。世界はそういった、もっとも優しいものでできている。

 

だけど、今この人の涙を拭ってあげることができるのは、やっぱり、僕だけじゃないか。

この現実の正体が、夢であれ幻であれ、ここにいる、僕だけ。

ああ…

そのために僕っていう人間は、ここに存在しているのかもしれない。

遠い昔のひとしずくが、少女の祈りを聞き届けた結果として。

 

所感

ああ…美しすぎる…。

作品としての構造、文体、各エンドなどなど。そういったものをひっくるめてゲームデザインなど僕は呼んでいるのですが、そのゲームデザインが本当に素晴らしい。

特に那波と雪さんルートは、過去プレイした作品の中でも最上位の美しさかも。

各ルートだけじゃなく、ナナミの過去など、要所要所で語られる場面がすべて必要不可欠で、これ以上足し引きができない。一つの場面が他の場面で意味を持つから手を加えられないんだよな…。

 

臥猫堂さんでオススメされてた「水月」はずっと気になってたけど、ようやくクリアできました…!次は「それは舞い散る桜のように」をやりたいけど、リメイク出るらしいし、とりあえずそれ待ちかな。

 

20年経っても色褪せない名作。まさしく不確かな夏の、けれど優しい水面に写った月の物語でした。

 

お気に入りキャラは雪さん、アリス。

 

ん?鈴蘭ルート?あれは子供らしく境界がない物語だよ。言っちゃえば不条理(なんでもアリ)の世界なんだ。

 

(終わり)

*1:もちろん、現代/近代に比べれば昔はこの彼岸がより身近であったというのは民俗学的によく言われることらしい。井戸が冥界の入り口と考えられたり、村を出たら異界というのは聞く話だろう。現代において異界の入り口として意識されているものは、遍く科学が照らしてしまったわけだ

*2:余談を言えば、弓道とは透矢にとって過去の象徴だからこそ、記憶喪失の透矢は弓を引けないのだな。弓を引くことが出来るのは、この世で生きていくことを決めた後でなくてはならない。

*3:宮田氏の『ケガレの民俗誌』より 「夏の雪は旧六月一日(炎暑)に降るという伝承は、氷の朔日の全国的な伝承の中に位置づけられ、歳運を改めることから、生まれ代わる、再生するという意識を秘めていると推察できる」 僕なりに言えば「夏に雪が降る」というありえないことが起きたからこそ、世界は「生まれ代わらなければ」ならなかったわけだけど、まぁ意味するところは一緒だろう

*4:つまり不思議という「可能性」を、ファンタジー的な『怪』として確定させてしまう。そして『怪』は普通の人々でも理解可能なように説明される。つまり存在が(ギリギリ)許されるわけだ