古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

月の彼方で逢いましょう 批評 ―Cry for the moon― (11538文字)

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人間誰だって、やり直せるものならやり直したいことがあると思うんです

今の自分をこうしたい、こう変えたい、こうだったらいいのに、もしあの時こうなっていたら、こうしていたら…

そういう願望は、誰の中にも必ずありますから

 

ブランド:tone work's official website

シナリオ:丘野塔也/魁/白矢たつき/龍岳来/和泉万夜/今科理央

公式サイト:月の彼方で逢いましょう 

 

本作のOPが実はめちゃくちゃ好きで、これだけを1年前くらいから繰り返し聞いていたのですが、流石に我慢できなくなりついに購入。(4月くらいの話です)

エロゲを買う時に何を目安にするかは人それぞれで、そこにこそエロゲーマーとして問われるべき資質があるわけですが(そんなことはない)僕はライターとメーカー、そして意外にOPだったりします。

評判見てから買うことも多いんですけど、OPがよかったら衝動的に買ってしまうというか。もともと静止画MADが大好きなんですよね。だからOP買いしてしまうのはしょうがない。よくあるよくある。

メーカー/ライターだと余りやらかすこともないのですが、OP買いはたまーに外れもあったり。逆にOPのセンスが合わなくても名作はいっぱいあるんですけどね(Light系列とか)。

 

そんなこんなで初のTone作品である「月かな」プレイしました。……いやぁ、名作!

基本的に多人数ライターだとまとまりがつかなくなったり、テーマがバラけたり、人格がブレたり…など問題が多発するのですが、本作はそんなこともなくキレイにまとまってると思います。その部分はむしろ監督の腕なのでしょうけど。

Toneはどうやら王道を行きながらヒロインとの恋愛をきっちり描くメーカーだそうで。VA系列なのは納得ですよねぇ。サガプラが割と軽めのエロゲなら、Toneは重厚な純エロゲ的な。

 

なんか久々にちゃんとした恋愛モノをやったせいで、なんか、こう、心がちょっと死んでいきました…。*1

僕ももし学生時代に恋人がいたら、とかそんなことを考えてしましました。自分の人生に後悔なんてないはずなのに、あり得たかもしれない今と未来を夢想してしまうのはなぜでしょうね。

さてそんな自然な導入から今回の感想。

テーマは『後悔』。こいついっつも後悔の話してるな…

 

以下、ネタバレ注意。あと今回SF的余談多めです。

 

The Door into Moon

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書かなければ、いつまでも俺は、空想の世界に浸っていられる。

俺が夢見た作家たちのように、素晴らしい物語を紡げる可能性だってある。

誰もが羨み、絶賛する結末を可能性だってある。

可能性は無限大で…………ゼロとイコールだ。

だから…未だにどれもこれも中途半端で、なにひとつ完成しない。

 

大人になって分かったことだが、幼い時に言われていた「君の可能性は無限大」という言葉には一面の正しさがあった。

今の自分に楽器を奏でる能力はないけれど、小さいことから音楽を習っていれば演奏できたかもしれないし、その道で食べていったかもしれない。料理人とか、小説家とか、アスリートとか。そういう人生を辿っていく可能性はあったのだ。

けれど、さすがにこの歳になってそれらを目指すのは少し難しい。不可能ではないかもしれないが、確かに若い頃より可能性は目減りしていっている。ならば、年を経る毎に未来を確定させてしまった私達は、かつて持っていた可能性を失っているのだろう。

いつか夢想した何かは、大人になってその難しさと可能性の少なさを知ったからこそ夢で終わってしまう。後悔に似たなにかを抱えながら、いつか言われた「君の可能性は無限大」という言葉を羨望の眼差しでまた誰かに語りだすのだ。

いつのまにか擦り切れてしまった自分には、夢を追い続ける聖衣良が俺には眩しすぎた。

―――奏汰

 

アフター編。過去とのやり取りの中で主人公は一つの選択をする。

「後悔してること、ないか?」

「ないよ。あったとしても、もう忘れる。忙しいからな」

―――奏汰

大人になった主人公はかつて持っていた可能性を知りながら、今持っているものを理解している。過去の自分がどれほど可能性を持っていようが、それは可能性でしか無い。可能性は実現されて初めて価値を持つのだ。

完結していない作品が作品と呼べないように、終わりがないのなら、確定した今がないのならそれになんの意味もない。それがどのような結果であれ、為し得たことに対して評価するべきだろう。可能性があるから優れているなんて事は決してないのだ。

ただ、終わり方だけは意識してみてください。

『終わる』というのは物語の特殊な特徴の1つですから

―――奏汰

いつか夢だったと語る日に、けれどだから今ここで誰かの助けになれることもあったはずだ。失った可能性と引き換えに、過ごした時間が確かにあった。後悔をなくすためのもしもの可能性は、未来で生まれた新しい目標に消えていく。

可能性に意味はない。あるのは今の事実だけだ。だから一歩一歩、明日に向かって歩いて行こう。人は未来に向かっていく生き物なのだから。

 

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「今思えば、新しい夢だったんだと思います」

「…夢?」

「はい。俺自身でなにかを生み出すのは難しくても、がんばる誰かの支えになって新しいものを生み出すことはできる…

そう前向きに自分の仕事を捉えられるようになったのは、栞菜さんのおかげです」

 

 

過去よりも遠い場所で

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たぶん、後悔と同じくらい、幸せがあると思うんです

 

大人になる事とは、胸を焦がすような後悔を「それがあっての今だ」と笑いながら言えることなのだと思う。

それは決してくだびれたわけでも、諦めたわけでもない。過去にどうしようもなくやり直したいことがあっても、それがあっての今ということを理解しているからに他ならない。

例えば、僕が今「年齢=彼女いない歴」であることを死ぬほど後悔しているとして(してますが)、果たして過去を変えることで成されても、それは後悔をなくすことに繋がるのだろうか?

確かにその未来で「年齢=彼女いない歴」という後悔を抱くことはないかもしれない。

けれど、それは今の『自分』が抱いている「年齢=彼女いない歴」という後悔をなくすことではないのだ。なぜなら、過去を変えてしまった時点で、それは「年齢=彼女いない歴」という後悔をもった自分ではないからだ。

過去のなにか一つでも選択肢を変えてしまった時点で、『自分』ではない『よく似た誰か』の人生でしか無い。『自分』の後悔はどうやったってなくなりはしないのだ。

かつての自分はこんなにも行動できる人間だっただろうか?

そんなことはない。

俺はこれまで、いろいろなことで迷いながら生きてきた。

今だって、些細なことで迷い、立ち止まり、足踏みしている。

今の自分と過去の自分とでは、どうしてこんなにも違うのだろうか?

―――奏汰

例えどれだけの奇蹟があったとして、人はその「後悔」をなくすことはできない。それは今の自分へと繋がるたった一つの轍。残酷な話だが、その痛む「後悔」があってこその『自分』なのだ。

 

灯華ルートの終盤、後悔を抱いていた主人公はようやく一つの答えを出せる。

たとえば…本当にたとえばですけど、過去を変えることができたとします

失敗した過去や、後悔している過去を変えられるとしたら、みんなそうするかもしれません

でも、そういう過去だって思い出です。

どんな過去も、全て今の自分の一部であって、かけがえのない体験、大切な記憶なんです

もし過去を変えられたとしても…俺の記憶は変えられません。

『電波塔の少女』は、俺の一部なんです

―――奏汰

『電波塔の少女』は、 灯華のことを忘れられないまま、それでも彼女と共に歩めなかった彼の「後悔」があって初めて作れる作品だ。未来からのメールが届いた『奏汰』では描けなかった、他の誰かと歩むことを決めた『奏汰』でも描けなかっただろう。「後悔」があったからこそ、間違いがあったからこそ、『奏汰』は『電波塔の少女』を描けたのだ。

その『電波塔の少女』を自分の一部と言えるようになったことは、自分の過去を認められるようになったことに他ならない。

確かに僕は「年齢=彼女いない歴」を後悔しているかもしれない。けれど、そうできなかった時間で1冊の本を読み、一つのゲームをクリアしてきた。友達とバカやって、わずかながらも勉強した。そうしてきた過去があってこそ、認められる何かが、成し遂げられる何かがある。積み上げてしまった後悔はやり直せない、やり直してはいけない。月並みな言葉だが、僕らは後悔しないように生きることしかできないのだ。

 

 

だからこれは最後の奇蹟。あの日離してしまった手を、苦しみながら認めた彼への報酬だ。

奇蹟―月―の彼方で出逢えたものを、もう二度と離さぬように。

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俺は、お前のことをずっと憶えていた…

忘れたりしなかった…ずっとずっと……お前のことを……

 

各話評論

以下、各ルート感想&擁護です。

というのも「月かな」、人によってダメ出ししてるルートが結構違ってて…いや、主に灯華とうぐいす先輩ルートなのですけど。

まぁ自分が分かる範囲で、今作のテーマである「後悔」にどのように関わっていったのかを解説して、皆さんにご理解いただければ…。Afterヒロインはひとまとめですが、それは栞菜が可愛すぎるだけであって他意は無いです(無いのか?)。

 

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灯華ルート

 

僕、実はルートとして一番良かったのは灯華ルートで、なんというかテーマ的にではなく純粋なドラマ/演出として良かった感じですかね。攻略順のラストに灯華を持ってきたことや、既にOP/EDを聞いてたこともあって「ここに灯華の想いをのせてるのか…」「ここにいたってことを忘れないでくれ~!」と限界オタクになってました。オタクは歌詞リンクに弱い。

 

で、じゃあ肝心のテーマはどうなんだよと問われると実は結構微妙で…。

「月かな」は過去の後悔に対して「それがあっての今」という回答をしています。 それは灯華ルートでも一緒で『電波塔の少女』周りはそこらへんの補強になるでしょう。

一方で過去をやり直すことで灯華と恋仲になったり、ラストでスーパームーンにより記憶が統合されてしまうのは少しばかり不誠実に思われるでしょう。一方で過去を肯定しておきながら、都合のいい部分は改変してるわけですからね。

 

まぁその部分を擁護するための本節なのですが、その前に準備として「月かな」のSF部分を解説しておきましょう。

基本的に「死んだ人の思いがある」上で「エンデュミオン」を使うことで「過去へとメールを送れる」のが今回のルールなのですが、実はコレ、ルートによってわずかに設定が変わってるんじゃないかと思います。

具体的に変わっている部分としては、過去改変による記憶の扱いで、雨音ルート(とおそらくうぐいす先輩ルート)では『改変前の記憶は、未来を変えた本人すらも持たない』です。雨音ルートのラストで変わった世界を幻視するとことか、まぁイメージはあんな感じですね。完全に世界線が移ることを想像していただければ大丈夫です。

で、灯華ルートではおそらく『改変前の記憶は、未来を変えた本人だけは持っている*2』なのかな、と。先の記憶の扱いが「上書き」なら、こちらはまさしく「統合」ですね。

この落書きも、確かになかったはずだという記憶と、最初からかあったという記憶、2つの記憶が俺の中に同時に存在していた。

―――奏汰

スーパームーンの今夜、過去と現在が統合された。

過去の自分の経験と記憶が、俺の中に流れ込んでいる。

―――奏汰

 1つ目は灯華ルート中盤で「夏への扉」を灯華に返してもらった時にサインを書かれた際の統合。2つ目は灯華ルートラスト。ここから分かるように、改変前の記憶は同時に存在しているんですね。*3

 

で、記憶の扱いが「上書き」か「統合」かにどうしてそこまでこだわるかというのは、それが主人公が「後悔」をした上で、それをもって灯華を救えるような選択肢を取れたからなんですね。

主人公があの時後悔をしたからこそ、大人になったからこそ、過去の逸りがちな自分に対してダメな部分はダメとアドバイスすることができた。(殺人についてとか)

だから灯華ルートに対して「寝取られ」と叫ぶのはわずかにブレていて、どちらかと言うとコレ「やり直し」に近いんですよ。統合された記憶の奏汰は灯華と別れた/灯華の側にいた、どちらの奏汰でもあるんです。(「やり直し」は「後悔を認めること」に反しないの?という疑問は「余談2:美少女ゲーム的時間論について」で語ります。)

 

そこらへんを踏まえるとギリギリテーマに沿っているように…思えないか!?どうか?無理か?

正直もうちょっとやり方はあったと思うのですが、演出がすごい良かったからいいや…。僕の中では灯華ルートは優勝なので。

つーかこのルートの栞菜が可愛すぎる。

 

 

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うぐいすルート

 

灯華ルートがドラマ的に一番好きだったのに対し、一番「どうかなぁ」と思ったのはうぐいす先輩ルートです。正直スクール編で日記の伏線を回収しない時点でなぁ。

あ、でもEDの演出は本当に良かった。ムービーの途中で歌詞を入れるの最高でしたね。オタクは歌詞リンクに弱い。

 

過去を大切に出来ずに、未来が明るいはずなんてない。

未来を大切にできず、過去を振り返ることなんてできない。

懐かしさの中にこそ、今があるんだと思う。

思い出の中にこそ、未来に繋がるものがあるんだと思う。

(中略)

俺は、うぐいすさんを愛していたんだ。

誰よりも、心から。

―――奏汰

今作のテーマ、「後悔」に対してのスタンスは、うぐいす先輩ルートでも変わっていません。それがあるから「今」がある。過去は変えられない、変えちゃいけない。それは引用の上部分からも分かるでしょう。それが大切に出来ないのなら、それに価値がなかったというのと同義なのです。

ただ、例えどれだけ許されないことだとしても、主人公は過去を変えたかった。

それは確かに「愛」ゆえに。

 

「愛」を出されたらもう僕は何も言えなくなるので…。まぁテーマに対してそれを上回る感情で出されたと言うか、うーん、1ルートくらいこういうのがあっても良いのかなぁ。

ラストの展開も、実は唐突ではなく、世界を終わらせてしまう事は「小説を終わらせる重要性(上の方で引用しています)」の部分でも一応カバーはしています。物語は世界の可能性を切り取ったものと定義するのなら、改変前の世界を終わらせてしまう事は物語を終わらせることと同じなのですね。

とどのつまり「愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません」*4ということでした。

あと、うぐいす先輩ルートでは改変前の記憶は「上書き」されているのではと言ったのは、そうじゃないと「許されなくても愛していたから」が薄れてしまうからです。

 

純粋な文章力。そして奏汰やうぐいす先輩が書いた作中作を実際に載せるという部分ではとても良いルートだと思います。コーヒーの淹れ方とか、そういうディティールをキチンと描写することで説得力が増すんですよ。

アンデルセンの「絵のない絵本」以外にも、月関連の作品を出してくれても良かったのよ?「月と六ペンス」とか「月世界旅行」とか…。

 

 

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雨音ルート

 

あんま言うこと無いかも。

というのも雨音ルート、僕が擁護したりコメント残す余地もないと言うか。基本的に「月かな」のテーマにキチンと寄り添っているので(というより雨音ルートしか最後まで寄り添えてない)、本編やってくれ、としか。

 

あー、でもVocal Collection(買いました)やFD(買いました)でメイン張ってる辺り、スタッフやファンからも相当に受け入れられたんだろうなぁ。

分かる分かる。クセ無いもんね。確かにFD出すって言ったら雨音はそりゃ選ばれるだろうなぁ。いや、栞菜を選ばなかったのは正気を疑うけれども。(同ライターなんだから一緒に出せばいいじゃん…)

 

 

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聖衣良ルート

 

どっちかというと、立ち位置的にはアフターヒロインに近いのですが、メインの小道具を「月」ではなく「星」においてある辺り上手いなぁ、と思いました。

スクール編とアフター編でうまく時間による成長を描いていて、「後悔」ではなく「成長」という点にスポットを当てている点も非常にGood。ライターが相当気を遣って作っているのが伺えます。

例えテーマがどれだけ優れていても、それに対して多くのヒロインを同じ方向に向かせるとやっぱり飽きられちゃうんですね。グランドEndがある場合は最終的な答えをそこに置けば良いわけですが、こういうゲームの場合はそうはいかない。

最終的な解法としてはいくつかあるのですが*5、今回はワザとテーマに掠るレベルを描くことでちょうどいい塩梅にしている。

聖衣良ルート、そういう部分も含めてかなり高評価ですね。つーか聖衣良がかわよい…。

 

そういえば共通ルートで「夏への扉」が出てきたので「これは、聖衣良メインヒロインの流れ…!」と思ったのですが別にそんな事なかったですね。*6

 

あと、聖衣良ルートのラストあたりで気付いたのですが、夏と冬の星座を主人公と聖衣良の互いに当てはめて、すれ違いや互いに互いが目標だったり、という暗喩にしていたのは本当に良かった…。暗喩で言えば本作で一番好きかもしれない。

決して交わらない夏と冬の星座。巡る季節と廻る天蓋。はぁ…最高。

 

 

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アフターヒロインズルート

 

後悔はあるけど、それをやり直すことなんてできない、してはいけない。

そうでなければ嘘になる、胸を抉ったあの現実の冷たさも。

判らぬか、下郎。そんなものより私は栞菜が欲しいと言ったのだ。

(騎士王風に)

 

栞菜ルートは当然として、他の二人も相当に良かったです。こういうサブヒロイン枠って雑に流されがちなんですが、結構しっかり描写されてましたね。

特に霧子さんとか。しっかり伏線張って回収して、構成が非常に良かったです。35歳での婚活……クソリアルすぎる。

一応テーマである「後悔」に対してもちゃんと触れていて、全体的に「後悔をしないはずの道を選んで、後悔はしてないのに」というのがアフターの要所なのかなぁ、と。目指した漫画家になれた栞菜、仕事に不満もなく後悔もしてない霧子さん、自由に生きてきたきらりさん…など。

 

後本作、飯田橋とか函館とか「あっ、行ったことある!」とゆー場所が舞台でしたのでそこらへんも楽しかったです。函館の夜景はキレイでしたね。僕は男二人で行きましたが。

 

余談1:過去と未来と今の私達について

「勿論、後からさ。彼らは残虐非道の鬼になったり、極悪人や豪傑の判を押された。その時に、遡って過去ができたのだ。」

量子力学みたいじゃないか」

「そうさ。(中略)これは裏返せば<異常な出産>によって生を受けたものは鬼になるという共通認識があったということでもある。だから実際の鬼や極悪人は<異常な出産>の出自を持たなければ説得力に欠ける。因果関係の逆転だ。鬼だと推測された時点で遡って、異常出産という過去が形成されるわけだ」

―――京極夏彦 『姑獲鳥の夏

 

本作のSF部分と、それについての時間論など。

まぁSFというほどしっかりSFというわけでもないのだけど、一応そこを踏まえないと見えないものもあるので解説をば。

 

マイクロチューブルという器官がある

(中略)

生体認証を通して、マイクロチューブルの波動を読み込み、ルクソン素粒子を使用した過去へと向かう先進波に乗せる…

―――雨音

 今作の「過去へメールを送れる」というSF要素はだいたいこの部分で説明されきってしまっていて、あまり深くは触れられないわけですね。

僕も専門じゃないので*7、大雑把な説明しかできないのですが、基本的にこのSF要素は「量子力学」という一言で片付けられると思います。

君は、君が見上げているときだけ月が存在していると本当に信じるのか?

―――A・アインシュタイン

かつて(量子力学に批判的だった)アインシュタインは、量子力学を指してこのように言いました。逆説的に、量子力学にならうなら、月は見上げているときだけ存在する、というわけですね。例え話の例え話ですが。

その上で、灯華ルートでは「お月様だけじゃなく、この世界が全部幻かもしれない」とか言い出すわけです。暗に量子力学をベースにしているわけですね。

 

んで、マイクロチューブルや宇宙原意識といった話はおそらく(特にペンローズ辺りの)量子脳理論から持ってきてるのでしょう。量子脳理論というのは、意識や脳に特徴的な要素に量子的な振る舞いが影響している、という考え方のことです*8

そうした量子的振る舞いをする情報は、先進波によって過去へと送られるとなるわけらしいです。

量子力学から過去を改変する、という流れではなく、過去を改変するから量子力学を選んだと考えたほうが良いと思います。先進波とか(本編では出てきませんが)遅延選択実験とか…*9

 

では、そんな量子力学に満ちた世界は過去すら変えてしまうけど、じゃあ確かなものは無いのでしょうか?

量子的に振る舞う世界は、だからこそ不確定に満ちていて、もしかしたら月は存在しないかもしれません。

それでも、伝わる熱は確かなものだから。

「…お帰り、灯華」

そっとその体に触れる。

そこには確かな温かさがあった。

―――奏汰

 

 

いいかえると、過去に共通の原因が存在するのは、過去にエントロピーが低かったことの表れでしかない。熱平衡の状態にある系や純粋に力学的な系では、因果によって識別される時間の方向は存在しないのだ。

―――カルロ・ロヴェッリ 『時間は存在しない』

量子と時間の話をせっかくしたので、余談を一つ。

通常私達が「時間」と呼ぶものは、ミクロな世界で見るとエントロピーという形でしか表されないそうな。そもそもエントロピーとは乱雑さを『主観』で見た話であって*10本当にそれが存在するかどうかもわからない。つまり、もしこの宇宙系が「特別」だとしたら、時間なんてものは存在しないかもしれないらしいです。

因果がない、とまでは言ってませんが、私達が感じるような世界のあり方ではないかもしれません。時間というのは、私達が生み出した幻想なのかもしれませんね。

そう考えると、量子力学を通して過去にメールを送るのもあながち不可能じゃない…かもしれない。たぶん。

 

 

自分たちが属する物理系にとって、その系がこの世界の残りの部分と相互作用する仕方が独特であるために、また、それによって痕跡が残るおかげで、さらには物理的な実在としてのわたしたちが記憶と予想からなっているからこそ、私達の目の前に時間の展望が開ける。(中略)つまり時間は、本質的に記憶と予想でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。

―――カルロ・ロヴェッリ 『時間は存在しない』

 

余談2:美少女ゲーム的時間論について

本当の余談として、エロゲの時間論に対する解釈を…。

 

僕は月かなの「過去を認めて今につなげる事ができる」というテーマに大賛成ですし、人はそうじゃないと幸せなんかになれないと思っています。

もちろん、どうしても変えたい過去はあるでしょうが、それを踏まえての今の自分なのです。それがなくなったら、それはもう自分じゃない。

 

なのに「やり直し」はなんで認めてしまうの?というのは、「私」の意識をどこに置くかで意見が全く変わってくると思います。

例えば、メール一つで過去が変わって、今の「私」が今の時間軸のまま別の「私」になるのなら、今の「私」の否定です。改変する前の「私」は消え去ってしまうわけですからね。

でも、自分の意識ごと過去に飛ぶのなら、例え過去を変えたとしても「私」は「私」なのです。今の「私」は消え去らない。むしろ今の「私」があるからこそ、後悔を抱えたからこそ、それを「やり直」そうと思える。つまり、次は後悔しないように動けたわけです。

 

…ただ、ここで気をつけなきゃいけないのは、「やり直し」をしたことは本質的に罪をなくすことではないということです。

奏汰があの時に手を伸ばせなかった後悔は、それがあったからこそ統合された未来で灯華と歩めるようになったけど、「奏汰があの時に手を伸ばせなかった」という事実は変わらない。それで傷ついた人もいなくなるわけではない。

でもだからこそ、その罪を抱えながら、まっすぐ進む姿はカッコいい。

 

……つまりシュタゲやれって話でした(そうなの?)。

 

所感

4000文字くらいで終わらせるつもりが、ネットの批判をすべて反論するためにいつの間にか文量が倍以上になりました。よくあるよくある。

いや、中には正しい意見もあったのですが。特にSF周り。

まぁ正直下手にSF要素を入れるよりは、ファンタジーと割り切ってしまった方が良かったかもしれない。書き手的にも読み手的にも。

SFファンは与太科学論が好きなくせに 、あからさまに与太だと途端に手のひら返しますからね。め、めんどくせぇ…。

 

今回僕は灯華ルートで死ぬほど感動したので、そのすべてをなんとか肯定するような形で出来て割と満足です。

ちなみに、死者となった灯華について。

奏汰の手を離してしまった灯華は、おそらく死んでしまっています。過去へメールを送るために死者の想念が必要なことに加え、ifの灯華が銃弾に撃たれる辺りからも推察できるかと。つまりアレは本編の(使われそうで殆ど使われなかった)歴史の修正力なのでしょう。ただ、歴史の修正力は割と弱いというか(例えばうぐいすルートでは、うぐいすさんが死ぬという決定事項は覆っている)。

じゃあなんでifの灯華は死んでないのか、というと奏汰が隣りにいたからなのではないかな、と。

それは死ぬ運命が変わったという話ではなく、灯華自身が「過去を認められた」からでしょう。

本作のテーマは「後悔している過去を認めて未来につなげる」ことです。出生という一番目の過去を認められない灯華は本テーマに真っ向から背いてしまっている。だから過去を変えられる手段である量子力学的思考を彼女は語るわけです。「お月様は存在しないかもしれない」と。

そんな曖昧な世界で、奏汰は体の温かさを通して確かなものを伝えます。確かなものがあること、「今」に繋がる「過去」を否定してはいけないこと。だから灯華はifの道で長い時間をかけて過去を認められたのでしょう。

 

そういう解釈をすると、灯華が所々こぼしていた「私はここにいる」って言葉。アレは不確定な量子力学的思考の中で、確かなものを欲しがった彼女の本音なんだろうなぁ。

「過去」を否定しているけど、本当は確かなものがほしかった。

 

どうか憶えていて ここにいたってことを忘れないで

キミのすぐ側にいたってこと 迎えに来てよ

 

あぁ~…最高…。オタクは歌詞リンクに弱い。

 

 

しかし色んな所で語ってきた「後悔」についても、ここで一区切りですね。

プレイ中に迷いに迷って、自分なりの答えを出せて。それに(奇跡的に)作品のテーマがリンクしてくれたのは嬉しかったです。多分そこに齟齬が出てたらここまで語らなかったでしょう。

人はエロゲで成長するということがまた一つ証明されてしまったな…。

 

お気に入りキャラは灯華と栞菜。

久々に風音様のお声が聞けて満足でした。いや、「和香様の座する世界」でも出てたか…。

 

(終わり)

*1:2月頃にクリアした「どっちのiが好きですか?」以来。実はこの時も同じこと言ってる

*2:そしておそらく、中継者となったものも受け継ぐのかと。灯華ルートラストで灯華も記憶を維持しているような描写があるので

*3:本論、その後「改変前の記憶が消える」可能性もあるのですが描写がないので不明ですね。その場合全ルートでの整合性は取れているのですが、擁護できなくなるのでその件については棚上げで

*4:中原中也『春日狂想』

*5:例えば「金色ラブリッチェ」とかではグランドヒロイン以外を、同じ方向に向かせながら相当薄めに描いている、など。

*6:夏への扉」は幼女ヒロインのタイムトラベルSFなので

*7:僕の専攻は物理ではなく、どちらかと言うと化学なので間違っていたら指摘してください

*8:詳しくは調べてください。でもぶっちゃけこの量子脳理論、素人目からみても割と与太というか…。疑似科学ではないのですが、頭から信じないほうが良いと思います。

*9:まぁ量子力学が過去を変えるというのは言い過ぎ、というのが一般的な見方らしいですがね。

*10:人間の観測できる、という意で『主観』です