古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

サクラノ刻 批評 -あなたと刻む詩- (20629文字)

ブランド:枕

シナリオ:すかぢ

公式サイト:サクラノ刻

 

刻は流れて──そしていつか詩となる。

 

ちょっと正直度肝を抜かれたというか。想像していた演出/ビジュアル/シナリオの全て上をいかれました。

期待度は相当高かったんですが、そのハードルを超えるとは…。

 

サクラノ詩はその終わり方に納得するのに時間がかかりましたが、確かにサクラノ刻はこれ以外の終わり方はないとすぐ感じました。物語としての完成ですね。エンタメ的にこれは前後編の後編と言って差し支えないでしょう。

 

詩に比べれば短いですが、僕はこれをキレイに収斂されているからこそだと感じています。うーむ、詩の風呂敷をよくここまで畳んだな…。

 

ケロQ/枕の作品はプレイしてから書き上げるのに長い時間を必要としていたのですが、今回は2ヶ月でした!これは早いのか遅いのか…。

しかし掛かった時間など関係なく、今持てる自分の限界を詰め込んだつもりです。

ちなみに前作「サクラノ詩」の批評を前提に作っています。ので、そちらをご覧になっていない方は先に「サクラノ詩 批評」を読んでいただけるとスムーズかと。

 

そんな感じで、以下ネタバレ注意。

 

1.真作と贋作

しかし、ありうるところのあらゆる文字の組み合わせの中に、神の真の御名と呼びうるものもあるはずです。

───アーサー・C・クラーク 『90億の神の御名』

 

芸術における真作と贋作の意義。あるいは、何を持って私たちはそれを真作と認めるのか。

この問いかけこそ、Ⅰ章『泥棒カササギ』の主題だ。

静流は来歴を偽った贋作(と彼女が思いこんでいる作品)を麗華に渡せなかった。一方で麗華は、その来歴が何であれ『雪景鵲図花瓶』は本物だと譲らなかった。

 

『雪景鵲図花瓶』はモネに関係する作品では無い。そういう意味で言えば、紛れもなくこれは偽物だ。

だが中村静流の作品としては本物だ。来歴は偽っても、作品としての出来は偽れない。

込められた思い、作品が作られた意義…それが真実である限り、来歴や刻まれる名が嘘だったとしても、誰かの心を打つ限り「作品がどう生まれたなんて関係」ない。*1

贋作?いやいや、違うだろ。

こいつは、お前の作品だよ。『雪景鵲図花瓶』。素晴らしい作品だ。

(中略)

作品がどう生まれたなんて関係ねぇよ

───健一郎

 

さて、ではただ模倣することを目的とした贋作はどうだろうか?

ただ本物に形を似せたもの。今もまだ壁に掛けられ続けている作品達は。

「私は絵の事はよく分かりません。

 ただ、陶磁器で言えば、贋作は騙される事にこそ価値があると考えています」

「騙される事にこそ贋作の価値がある。か……」

「贋作に騙されれば騙されるほど、本物が分かっていくものです

 だから贋作には価値があるとすら言える

 真作にただ感動していればいいと考えるのは、真に美を愛する者ではありません。

 時に贋作に魅了され、贋作を愛して、騙された事があるからこそ、真贋の目はやどるのです

 贋作である事を納得出来ずに、偽物にとらわれ続ける様な人間がまともな美的センスを持つとは思えません」

「なるほどね。贋作の価値か……

 贋作には贋作の真実が宿る。

 その価値が時と場所によって大きく変わるのが真作との差なだけだ」

───静流、紗希

静流が語る贋作の価値とは、いわば観るという行為の練習としての意味合いが強い。

つまり、贋作と真作で違いがあった上で、その違いを(間違えながらも)見極めようとすること。作品全体の調和(これを直哉は”有機体”と呼んだ)を見る目を養い、自分の審美眼と向き合っていくこと。その問いこそが、贋作としての価値だと語っている。

もう少し別の見方をするのであれば、贋作は真作と比較されることで価値を生む。真作を引き立たせる事、あるいは真作であると騙すこと。贋作は「観客が騙されること」と「観客を騙したこと」に価値がある。

つまり、贋作であれ真作であれ、その在り方は観客がいて初めて成り立つものなのだ。

 

では、贋作と真作が全く同じものだった場合はどうだろうか?(もちろん、この話は刻本編では一切触れられていない)

絵画だと分かりにくいので、俳句で考えてみよう。

俳句は5・7・5からなる定型詩だ。字余り/字足らずがあるとは言え、計算上俳句として作られる作品は有限だ。46の17累乗……*2。ほとんどが意味をなさない文字の羅列とはいえ、この文字の組み合わせは「これまで産み出された作品」「これから産み出される作品」すべてを内包している。*3

あらゆる文字列の中に秘された美という神の御名。文字が置かれるという操作の果てに作品が作られてしまうのなら、産み出された作品に驚きなどない。神の御名はすでに示されている。*4

真作の定義がただこの世に早く生まれただけなのであれば、この世に真作など無くなってしまう。

作者の思いが載せられている作品こそ真作と言うのだろうか?しかし、作品が物理的な形を持つ時点で、観客が受ける影響は決定してしまう。物理的な存在が全く同一なら、観客が受ける影響も全く同一でならなくてはならない。作者の思いが真作のみに宿るというのは、あまりに荒唐無稽だろう。

 

俳句は文字の羅列だが、絵画も原子の羅列だ。この世の全ては再現可能なものにすぎない。

贋作と真作の存在が全く同一である時、それは贋作で有り続けるのだろうか?それとも真作になってしまうのだろうか?

 

2. Re:芸術評論 批評について

わたしたちが批評家にもとめているのは、作品のどこに注目すべきか───たとえばこの楽曲のどこに価値を見出だせるのか───を教えてくれることである

───ノエル・キャロル 『批評について 芸術批評の哲学』*5

 

サクラノ詩での批評で『批評とは何か』は語りきってしまったが、少しだけ振り返ってみよう。

 

批評とは何か。それは価値を見出す行為そのものだ。意味付けなんて言い換えてもいい。

 

個人差こそあれ、誰だって他人と違う視点で物事を見ている。全く同じように見て同じように感じている人はいない。

例えば寧の四色型色覚だって、他人と違う景色の見え方/感じ方をしていると言える。そこには、三色型色覚で過ごしてきた経験からは得られないものもあるだろう(逆も然りだが)。

あるいはマネの「オランピア」を引き合いに出したっていい。当時のサロンでは激怒され、怒り狂う鑑賞者までいた。それは現実の女性の裸を描くという当時のタブーを犯したこと、そして見る側の罪悪感を刺激したからだ。一方で、現代の私たちがあの絵を当時と同じ気持ちで見ているのだろうか?少なくとも僕はステッキで殴りかかるほどの怒りは全く感じない。

 

文化、経験、感覚……。ありとあらゆる理由から、私たちは決して同じものの見方をすることができない。意味/価値はとても曖昧なものだ。意味が見いだせなければ、痛みすら存在しないことになってしまう。

痛みすら、そこに意味が与えられなければ、空虚なものなのです

───心鈴

 

だからこそ、大衆は作品ではなく作品に付随する物語に感動してしまう。言葉で伝わること、言葉で伝えられることは(絵画に比べ)とても分かりやすいのだ。

それと同じように、新しい絵画の価値を伝えるには新しい言葉という批評が必要になる。ただ『見よ』と語られる芸術作品などない*6。評価される芸術は(それが適当かどうかはさておき)評価される理由と共に語られる。

「新しい美は多くの人にとって新奇すぎる。

 だから、それを言葉によって、皆に発見させるのよ」

「ふーん。そんなもんなの?」

「そうよ。だから、新しい芸術家には、新しい批評家が必要なの」

───麗華、静流

 

詩の批評で語ったが、芸術家が世界から価値を見出し作品を作るように、批評家は作品から価値を見出し語らなくてはならない。世界から美を発見する芸術家と、作品から美を発見する批評家。その本質は同一だ。何かから美を見出すのであれば、批評家もまた芸術家であると言えるだろう。

美しさは、発見されなければならない

誰かが発見しなければ、それがどんなに美しくとも誰も見向きもしないわ

そもそも、芸術とは、世界から美を発見する事に他ならない

そして、批評もまた、その芸術作品の美を発見する事に他ならない

───麗華

3. 未完とキボウ

欠けているからこそ、人はそこに希望を見る

完全なものに希望をみいだすのは、狂気の心がなせるわざだわ

───真琴

 

完全なもの、完成されたもの。他の何も付け足しても余分となり、進歩も進化も必要としないもの。

満月の美、あるいは強い神とでも呼ぶべき存在。それは未だ人の前に表れないまま、人はそれを手に入れられていない。

 

同じように人もまた完成されていない。知らないこと、分からないこと……。1400ccの容れ物には空すらも入ってしまうのに、世界の可能性に驚き続けている。

芸術家や批評家が示すまで、当たり前の奇蹟にそれが奇蹟だとすら気付かない。

 

詩において、真琴は圭の絵画を「世界の限界を見極めること」と評した。言い換えれば自らがどこまで未完であるかを知るということだ。

例えば数字の操作しかない世界があったとしよう。そこであなたは1から100までしか数えることが出来ない。100こそが世界の限界であり、101はあなたの世界に存在しない。

その世界は1~100で完成されている。あなたの世界の外側を知る私からすれば101を知らないことは未完と言えるが、101を理解し得ないあなたからすれば100までの世界がすべてなのだ。だから、世界の限界を知ったものは、それ以上の何も望まないだろう。それは完成された世界を知るということだからだ。

 

幼い香奈はまさに完成された世界を持っていた。閉ざされた自己世界。自分のためだけに描かれた絵画。それはまさしく、一つの世界の限界だ。*7

心を閉ざす。

彼の言葉ですら、しょせんは外の世界の言葉。

私の内なる世界には届かない。

彼がどれほど凄い絵を描こうが、私の中では私の絵こそが最高で、そして私が信じる世界でもっとも美しいものだ。

だから、どんな言葉が来ても、私の心には届かないし、私の世界は壊れない。

───香奈

 

完成された世界は、完成されているがゆえに他者を求めない。

だが未完である世界は、未完であるがゆえに他者が立ち現れる。

 

キボウ、それは欠けているからこそ寄り添うことのできる弱い神だ。

「それにさ、その指輪を見てみろよ

 完全に円になる直前で欠けているんだ

 完全な円が少し欠けたものを、お前は俺になんて教えた」

「キボウ……」

───直哉、真琴

欠けていること、未完であることの意義はそこにある。そうでなければこの先で『詩人は語る』ことなどできなくなるからだ。

「仮説を補強する情報集めるヤツは自殺志願者だな。目隠しして首都高をアクセル全開で走っている様なもんだよ

 いつでも自分が未完である事に自覚的でなければ、市場は容赦なくこちらを焼いてくる

 どちらにしても未完であり続ける事が大事だ」

「未完である事が大事……」

───優美、直哉

 

4. Re:芸術評論 美について

美は現象ではないのです

現象として見られる美とはあくまでも、世界で明滅する光に過ぎない

だからこそ、人がそれを受け取った時に、比類無い瞬間を手に入れる

───健一郎

 

ある絵画を美しいと思う瞬間、あるいは醜いと思った瞬間。その時、世界に一体何が起きているのだろうか。当たり前だが、何も起きていないのである。

私の身体なら絵画を見て、何かしらの反応をするだろう。意識下か無意識下かを問わず、情報が脳に入るとはそういうことだ。

一方で(私の身体以外に)世界に対する影響は何もない。私が見ようが見まいが絵画は世界にただあるだけだ。物質であるという点でそれは他の何とも変わらない。

 

だが、そこに美を見出す(発見する)のは私なのだ。作品はもちろん物質であるため世界の中にある。だがそこに美が存在するわけではない。私が作品を見る時、私がその美を発見したのだ。

我々は、ありとあらゆる場所に美を見出す。

だが、その場所を見出した私は、世界には存在しない。

美が宿るとは、世界に美が属していない事を意味する。

美は、私によってもたらされる。

つまり美は世界に属さない。

芸術作品は、世界に属するが、芸術そのものは世界に属さない。

そしてこれはまた一つの事実を浮き彫りにさせる――。

美も世界と循環している。

その時に美と世界は同一化する。

───直哉

私は世界に属さない。それは世界の前提なのだ*8。私の視野に入ってきたとしても、それに意味を付け足せなければ認識できない。縦縞だけで育てられた猫が横縞を認識できないように。

 

そして同時に世界は私の前提でもある。世界が存在していなければ、私というものをどうやって考えられるだろう?作中で何度も語られた身体の重要性はここにある。何かを認識するのは、作り上げるのはあくまで世界の中の物質的な私なのだ。

 

芸術と自然の模倣、その鏡合わせは私と世界の関係であり美と世界の関係でもある。

倫理とはア・プリオリであり…と語っても良いが、こう言ってもいいだろう。

私たちは、何一つ美しくない世界を全く語ることができないのだ。

 

5. 真なる芸術(あるいは天才について)

優しいだけの物語。美しいだけの物語。楽しいだけの物語……

そんな物語たちでは、私の魂は癒やされない

───藍

 

混同されがちだが、美しいことと芸術作品であることは必ずしも一致しない。

例えばムンクの”思春期”、ゴヤの”我が子を食らうサトゥルヌス”……。美しいことは人それぞれで変わるものの、一般に呼ばれる「美しい」からかけ離れ、人によっては「醜い」とすら言われるかもしれない作品たち。だがしかし、たしかにそれらは芸術作品として認められている。

 

美しいだけの作品と芸術作品の違いは、目を楽しませるか魂を楽しませるかに寄るものだ。

幼い直哉に言わせれば、目を楽しませる絵画はある種の家具でしかない。*9

眼を楽しませるのならそれでいいだろう。

だが、有機体ではない絵画で、魂を楽しませることは出来ない

魂が喜ばない作品など、芸術ではない

それは──楽しげな家具と同じだ

──直哉

 

では魂を喜ばせる作品とはなにか?

答えは簡単だ。動揺を以て受け入れられた作品に他ならない。

「すべての人々が安心して愛する事が出来る美。それこそがもっとも優れた芸術ではありませんか?」

「いいえ、違います。

 芸術とはいついかなる時でも動揺を以て迎えられる存在であるべきでしょう」

───フリッドマン、稟

動揺を以て迎えられるとは即ち、これまでに「あり得なかった」とされてきたものを示すことに他ならない。詩で語られた例を出せば「霧」がそうだろう。あったはずなのに、示されるまで誰も気づかなかった存在。語られるまでその見方を持たなかった存在。それを形にし、他者に知らせることこそが芸術の本懐だ。

詩の批評では「芸術とは人生の価値を見出すこと」と語ったが、もう少しわかりやすく言い換えよう。

芸術とは新しい価値観を知らせるものだ。だからこそ、真なる芸術は動揺を以て迎えられる。動揺が無ければ、観客に何も響いていないのと同じだからだ。*10

 

芸術家は「新しい価値観」を世界から切り取り続ける。その方法は技術によるものだが、決してそれは逆転してはならない。技術は「新しい価値観を伝える」ためにある。技術の高さだけが伝わってしまうのなら、「薄っぺらい才能」が「透けて見える」だけなのだ。

ただ、その方法を蔑ろにしてはいけない。哲学や科学知識、表現方法や使用材料…持てる全てをもって自分が伝えたい思いを絵画にしていく。それが人の心を打つ確証などないが、それでも伝えたいことを伝えられるように塗り込んでいく*11。技術とは一本の筆でありチューブだ。それだけでは絵画は生みださせないが、それがあれば表現の幅が広がる。

 

「けど、評論家先生や美術雑誌の編集者とかには全然の評価だわ。彼らが言う通り、私が技術的に未熟すぎるというのはあるけど……」

「技術的なものは私たち素人には分かりませんよ

 偉い人たちがどんな風に評価するのか分かりませんが……私は長山先生の絵大好きです

 表面上は美しく明るい絵に見えるのですが、その根底にあるマグマの様にうねる情熱といいますか、情念といいますか……。

 あの心に訴えてくる作風は国内屈指だと思っています」

───香奈、ノノ未

同時に、筆やチューブが欠けていても、天才でなくとも、人の魂を揺さぶる芸術作品は作られる。それは万人には評価されず、遠い未来に名を残さないかもしれないが、作品が生まれてきた意義はたしかにあったのだ。

芸術作品は天才たちだけの舞台ではない。いつか忘れ去られるとしても、伝えたい思いがある限り凡人でも誰かの心を響かす本物の芸術作品が作れるはずだ。

才能に恵まれた画家だけが、人の心を打つわけじゃないんですよ。

才能に恵まれない人間の作品だって、人を感動させる事があるんです。

 

6. 枯れる献花

汚れつちまつた悲しみは

なにのぞむなくねがふなく

汚れつちまつた悲しみは

倦怠のうちに死を夢む

───中原中也 『汚れつちまつた悲しみに……』

 

「標本の蝶が飛び立つ。あなたが作品を見る時、作品に意義を見出す時、その作品は生き返るのだ」

僕はこのように詩の批評で語った。刻をプレイした後でも、詩のテーマの一つがこれである意見は変わらない。

だがしかし「在りし日」について、刻では再びその正しさを問われる。

あの時見た桜を、俺は二度と見る事は出来ない

一度見た、もっとも美しい桜、最高の美を、我々は二度と見る事などできないんだ

二度と、我々は混乱した美を見る事が出来ない

我々は混乱と共に訪れる真なる『美』を一度しか経験出来ない

当たり前だ、二度目に見たその『美』は既に───

それは約束された美でしかない

───直哉

 

輝かしい記憶、美しい思い出。もはや過ぎ去ってしまった「在りし日」は、思い起こされる度にその美しさを再現する。だがそれは再現なのだ。

『櫻達の足跡』が時間の経過と共に飽きられたように、我々はどんなものにでも同じ感情を抱き続けるわけではない。いや、思い出さられる時点でそれは「再現」なのだ。どんな瞬間も、記憶になった時点で模倣にすぎない。

言葉になった瞬間に、美も悲しみも「汚れつちまつ」ている。誰にでも使える言葉とはそういうことだ。反復可能な、手垢にまみれた表現にしかならない。*12

流れ行く世界すべてが、真なる美すらも模倣へ落とし込んでしまうのなら、私たちは「時よ止まれ!」と叫ぶしか無いのだろうか?

 

過去に捧げられた花は、捧げられた瞬間から枯れ始める。時の流れは残酷だ。だからこそ、その中で在りし日/美はどのような価値を持つのか。

この問いに答えることこそ、ゴーギャンの絵画の意味の一端を知ることに等しい。

「われらはどこから来たのか? われらは何者なのか? われらはどこへ行くのか」

という題で絵を描けと言ったら、奴らはどうするのだろう?

福音書に比すべきこのテーマをもって、私は哲学作品を描いた。

───ポール・ゴーギャン 『ダニエル・ド・モンフレエの手紙』

 

7. 感ずる神、他者について

人は、孤独を知っているから、愛するという意味を知る。

人が何故、独りで生まれて、独りで死ぬ。と口にするのか?

それは、何故、人が言葉を持ち、詩を紡ぎ、絵画を描くのかという問いと同じだ。

───直哉

 

何度も言っていることだが、本質的に私ではない他者を理解し切ることは出来ない。

本作でもわずかに触れられていたが、「コウモリであるとはどのようなことか」という命題が最も分かりやすい。コウモリは自らが出す音波を反射させ位置を特定している。反響定位と呼ばれるものだが、実は人間にも習得可能だったりする*13

しかし習得可能であることと、コウモリであることを理解することは別のことだ。コウモリがどのように音を聞くか原理は分かっても、コウモリがどのように音を認識しているかは理解できない。

同様に、人も本質的に他人の感覚を理解することは出来ない。「感じる」ということにおいて、自らの感覚こそが世界の限界なのだ。

 

他人の感覚は理解できない。一方で、人は言葉を交わし絵画を描く。

もし他人の感じ方が全く異なり言葉すら通じないのなら、そもそも社会というものは成り立っていない。紀元前から連綿と続く社会にアナタが生きているのは、(その真偽がどうであれ)他人とのコミュニケーションが成功していたからだ。

100%伝えること、伝わることはきっと難しいのだろう。いや、不可能と断言してしまって良い。だがしかし、それは全く何も伝わっていないことを意味するわけではない。

もしかしたら半分も、いや1割も伝わっていないのかもしれない。だが、わずかでも感覚や思いが伝わっているに違いない。

 

美味しいものを食べて「美味しいね」と言われた時、私はその食べている人と同じ「感じ」を持っていると理解する。

同時に、絵画を見た時、素晴らしき作品であれば作者の見ている世界を知るような感覚に襲われる。それは場合によって動揺であり、感動であり、驚きであったりするが、本質は他者の感覚を理解するように思えることなのだ。

「美」はそれを強制的に私たちに引き起こすものと言っていい。だからこそ『詩人は語る』のだ。

 

もし私の世界は完成されているという強固な信念を持っている人がいるのなら、そして誰もその信念を崩せないというのなら、芸術も言葉も全く意味を持たない。誰かに響かせるためのモノが、その役目を果たせないからだ。

だが、いつかの夜、糸杉の公園で櫻が咲くのを見た里奈が自らの世界に生の意義を見出したように。月明かりの下、ブランコを教えてもらった稟のように。言葉が、絵画が誰かの世界を開くことがあるだろう。

その感覚が消える時に、「弱き神」は姿を消し「独りである」と呟いてしまう。生まれた時、死ぬ時、そしてその時以外。それらの違いは他者を感じているかどうかにすぎない。

私たちは未完だ。そして未完だからこそ、そこに他者を見ることが出来る。言葉の持つ意義、芸術が開く世界の亀裂…。そしてその可能性は美という形でア・プリオリに私たちに備わっている。他者の存在は、私が存在したその瞬間から開かれているのだ。

 

私には”自分たちの記述は主観的な行為の一種などではない”などと断言できません。

『美』に対してその様な強い信念を持つ事ができません

どこまで行っても私は、すべての理解が”主観的な行為”という疑惑に追い回され続けます

どこまで行っても、私はその正しい解答を見る事はない

否、そもそも私が<私>であるかぎり、正しい解答などあり得ない。

私は<私>から見た世界でしかすべての事象は存在しえないのですから

だとしても、それでもです

それらを超えたものとしての感覚。

そういった瞬間がある様に思われます

”自分たちの記述は主観的な行為の一種などではない”と言える様な感覚

その感覚を信じるという事は、ある種の神を信じるという事になる。

友人はその態度を『弱き神』と名付けたのでしょう

8. 私の在り処

「だからデブメガネじゃないっ。わ、私は香奈!」

「長山香奈!」

それまで名乗る事が出来なかった。

けど、あなたが私の目の前から、居なくなってしまうと思ったら──

私の声は、自分の名前を発していた。

私は長山香奈。

私はやっとあなたに自分の事を言えた。

───香奈

 

「すでに死んでいるのに、さらに死ぬことはできないんです」

ある患者は、医者に対してこう語った。曰く、自分の身体も脳も既に死んでおり、ただ精神だけが生きているのだという。19世紀、ある神経科医によって確認された病状は、その医者の名前にちなんでコタール症候群と呼ばれている。

身体が死んでいるのに、それを認める主観たる<私>は生きている。もちろん現実にこんなことはありえない。その患者の身体はキチンと生きている。ただ、患者自身が身体が生きていることを認識できないだけだ。

ではしかし、身体が死んでいると感じてもなお、それを報告する<私>とは何なのだろうか?<私>とは身体(脳)の作用の一つなのだろうか?それなら何故、身体が死んでいると感じても<私>は消え去らなかったのだろうか?

 

ヒトの細胞、あるいは物理的に記述できるもの全てを書き記したとして、そこに<私>は立ち現れない。意識のハードプロブレム、<私>の在り処は科学的記述の中にはない。

感情や脳内の映像が、ニューロンの発火と完全に紐付けられ「アタナは今嬉しいと感じている」と当てられたとして、感じている<私>の在り処を明確にする事はできない。それは褒め言葉を言って「アナタは今嬉しいと感じている」と語ることと大差ないのだ。

 

しかし、科学的記述では証明されずとも<私>は確かにあるものなのだ。科学的記述の中に存在しないのは、問いの種類が間違っている(カテゴリーミステイク)からだ。

科学的な見方、その一部の知見を取り入れたら”俺”という本来的な不可解さを語る事は出来ない

本来的な意味で”俺”のありかを探るのに、合理的な説明は無効だ。

言うだけ無駄。

言葉が煙になってしまうだけ

───健一郎

<私>とは”今”、”ここ”でのみ見られる現象にすぎない。一瞬前の<私>は今の<私>ではないし、一瞬未来の<私>も今の<私>ではない*14

もう一度言おう、<私>とは現象なのだ。仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明…。現象であるがゆえに、科学的記述に存在しない。河を記述する時に、ある時間の水分子の位置は語れても、<流れる>事は記述できない。それは<私>が記述することなのだ。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

───鴨長明方丈記

 

<私>が科学的に記述されず現象であることは、<私>が認識の上に成り立っていることに等しい。

「どう考えても、生まれた瞬間から”自分”なんて概念を持っている赤ん坊なんていないだろ

 だいたい、他人……たぶん母親との対比から初めて生まれるのだろうな」

「自分というのは、他人を発見する事で、はじめて生まれる概念……」

(中略)

「そうすると、”今”や”ここ”も”私”と同じ様に、それ以外のものとの対比で生まれたものにすぎない」

───健一郎、圭

自分を自分たらしめるのは、<私>を<私>たらしめるのは他者がいて初めて成り立つ。もし他者がいなければ<私>は<私>であると認識する必要がない。「存在しない」モノを語り得ない…「存在する」という神秘(当たり前の奇蹟)と同様に、<私>と他者はその在り処で響き合った。

そして他者と”今”、”ここ”で触れ合うためには身体が必要だ。身体と心の連環はここにある。身体は境界であり、境界があるから外と内があると知れる。身体は科学的記述で語られるが、身体がなければ科学的記述で語られない<私>は存在し得ない。

 

<私>が現象である以上、あらゆる<あなた>も、世界も現象だ。世界は曖昧なまま全てが現象として映し合う関係にある。そこに始まりなど無い。連環と無限が広がる景色こそが、私たちの立脚点のひとつだ。

”我”なんて実体はない。同じ様に”他”なんて実体もないわけだ。

あっても鏡みたいに、映し合う関係だな

だからそれらは簡単に入れ替わる。

故に芸術に価値はある。

───健一郎

世界は一つの閉じた形をしている様でありながら、実際は無限の反射によって現象が生まれ続ける

(中略)

世界をその様に観る事が出来たら、無限の先で、仏が持つ真理すらも、自らの鏡の中にあると気が付く

鏡の世界。その無限の先には、必ず世界の真理がある。その事を真の意味で識れば、その時には悟りを開けるってわけだ

───健一郎

ここにおいて、ようやく芸術は価値を持つ。前項で述べたように、それは他者が改めて立ち現れ、描き手の名前を叫ぶことと同意義だ。

 

「1.真作と贋作」の問いも答えておこう。真作と贋作が全く同一の時、その真贋を分かつことは出来るのか?神経細胞の発火が同一ならば共に真作とされるのか?

作者は作品の形態を以て世界に自分の存在を刻む。作品が真贋などどうでも良い。その作品を通して作者の存在をアナタが感じるのなら、神の御名は作者の姿を取るに違いない。「作品がどう生まれたなんて関係ねぇ」のだ

 

そうじゃなきゃ、届かない場所があるんだよ……

生きている合間に画かれる絵画ではなく、生そのものが絵画にならなければならない

 

9. 私たちのリズム、世界のテンポ、ありふれた奇蹟

内蔵された宇宙のリズムを、上古の人たちはその動物たちの「ココロ」と呼んだのでしょう

───三木成夫 『内蔵とこころ』

 

どんな人にだって、他人との関わりを全くの持たない人だとしても時間というものは過ぎ去っていく。「時間は誰にでも平等に与えられたもの」という言葉もあるが、少なくとも時間が存在しない人などいない。皆それぞれ、時間の中で生きている。

 

時間とは存在と同じくらい説明することが難しい。何故ならそれらが無い状態を想像できないからだ。前項の<私>の議論を思い出してほしい。<私>という言葉が成り立つのは他者がいるからだが、時間や存在はそれらが無い状態を私たちが経験出来ない以上、世界の前提として語るしか無い。作中の言葉を借りれば、それは「当たり前の奇蹟」なのだ。*15

繰り返すが、私たちは時間の中で生きており、それを経験していない人などいない。

それでは時間の中で生きるとはどういうことだろう。これこそ音節と音の違いだ。

ただ、なんとなくだけど、健一郎が言っていた、世界の二つの見方は、こんな感じのものではないかと思った。

流れる風景、かき鳴らされるギター。

それは──

世界と旋律。

その違いは、たぶん音節と音ほどの違いだろう。

───圭

科学的に<流れる>ことは記述できない。発話もある時点での音節(空気振動)でしかなくなる。一方で私たちは<流れる>ことを記述できる。発話も意味ある音として捉えることが出来る*16

時間は流れるものだ。それはどうしようもなく、私たちの前提だ。

 

夏目圭が遺した『向日葵』の前で、直哉もまた時間が過ぎ去ったことを実感する。何もしていなかったわけじゃない。成し遂げたこと、受け入れたことはいくつもあった。

だが絵画を初めて目にした動揺も、時が経てば受け入れられるように当たり前になってしまう。同じ感動を再現することは出来ない。思い出は思い起こされても、感情は思い起こされない。

献花は枯れ、思い出は標本となった。それなら、ここから先はもう失われるだけなのだろうか?

 

もう一度時間の話をしよう。例えばアナタがポール・ウェラーの『サンフラワー』を聞く時、「こいつは”ロック”だ」と思ったとする。音楽に造詣が深い当時の人なら「価値観を変えられた」なんて言うかもしれない。

だが、アナタはどうやって『サンフラワー』に心を打たれたのだろうか?

当たり前だが、『サンフラワー』に感動するためには時が必要だ。『サンフラワー』は聞かなければ理解されない。聞くとは時間の中でしかありえないのだから、音楽とは時間の中でしか美しさを示せない。

わかりやすさのために音楽で語ったが、これはあらゆる作品でも同様だ。私も世界も時間の中で生きている。作品が無時間的に見られることなどない。あらゆる作品/物事は流動する時の中でのみ語られる。

 

唐突だが、印象派の成り立ちを覚えているだろうか?かつてのフランス絵画界において印象派は非常に異端な存在だった。モネが描いた批評家『印象・日の出』を批評家ルイ・ルロワが「こんな絵は印象にすぎない!」と強く批判したことからその名が広まり、今の地位を築き上げた。

印象派は当時、芸術界に動揺をもたらしたことだろう。しかし時が経てば、それは初めて見た時の感動を得られなくなってしまった。それはどこかへ行ってしまったわけではない。印象派は時間をかけて、世界を変えたのだ。

嘘を真実の様に売りつけるのは三流のペテン師です。

嘘を真実に変えるのは二流のペテン師です。

嘘を真実に変えて、世界すらも変えてしまうのが一流のペテン師です

(中略)

嘘で世界を変える事が出来なければ、真の夢想家とは言えない

真に夢想家でない芸術家など価値はない。

そんなものは、優れた職人に遠く及ばない

───健一郎

世界が変わったからこそ、それは見慣れた景色となってしまった。過去であれ音楽であれ絵画であれ、その本質は同一だ。

『櫻達の足跡』も『向日葵』も『サンフラワー』も、すべてが当たり前になってしまうだろう。だがそれは失われたわけではなく、世界が変わったからこそ見慣れた景色になっただけなのだ。当たり前の奇蹟、その積み上げの先に私たちは立っている。

当たり前の様に咲くから、人はそれを奇蹟だとすら気がつかない……

───稟(サクラノ詩)

アナタが過去を思い出す時、音楽を聴くとき、絵画を見る時、初めての瞬間から感動(動揺)は薄れていってしまうだろう。しかしそれは世界と同じく、アナタも作品達に変えられたのだ。世界を変える奇蹟、誰かの価値観を変える奇蹟…当たり前の奇蹟の先に、私たちの世界は成り立っている。

刻(とき)をもって、あらゆる作品達はアナタ/世界にその奇蹟を刻(きざ)みつける。

私たちのリズムが世界のテンポとなり、世界のテンポが私たちのリズムを変える。

そうしてようやく、向日葵はその焼身を終えた。

 

空がゆっくりまわる。

空と大地の色が溶け合っていく。

これで終わりか。

素晴らしい風景達。

俺の生は、すべての流れゆくものによって、満たされている。

刻が流れていく。

それは桜の刻。

懐かしい日々。

懐かしくありながらも、

ここにある日々。

だから、その先で──

俺はその言葉を口にした。

           ──ありがとう。

 

10.櫻が咲く大地で

神様が、お前をどうするかって一度は考えてみろよ?

それが出来たら、今のお前がどういう意味で未完であるか分かるよ。

だからさ。

直哉。

お前は奔り続けられるよ。

 

歴史的転換はただ独りの天才によって成され、凡人である私たちはそこに梯子をかけるしかない……というのは、まったくの誤解にすぎない。もちろん卓越した能力を持つ個人はいるだろう。ただ、何かを成し遂げるということにおいて、集団あるいは先人の積み上げが無いという状況はありえないのだ。

「巨人の肩の上に立つ」。あるサイトで論文を一度でも検索したことがある人間なら知っている言葉だろう。何もかもが目まぐるしく進化していく現代でさえ、いやそういう時代だからこそ、過去に積み上げられた功績が無ければ何も出来ない。

あるいは芸術史を紐解いてもいい。キリスト教の存在、チューブや写真の発明…。何か一つでも無ければ、昨今の芸術は形を変えていただろう。過去、多くの人達が成し遂げたことがあったからこそ、今の私たちは発明/発見することが出来る。

 

他者がいなければ達成できないのは「多くの仕事」だけではない。「ただ一つの仕事」を成し遂げるためにすら、私たちは他者を必要としている。

真贋の違い。それは物理的な違いにのみ寄るものではない。鑑賞者がいるからこそ、作品は真作足り得る。

批評の意義。これだって真贋の違いと同様だ。そもそも批評とは他者から受け取ったものを語り直すのだから、それが成り立つには他者の存在が前提になる。

芸術の本質。批評と同様に、これも他者の存在を前提としている。素晴らしい芸術作品は、ただ技術によるものなどではない。他人の心を打つもの、他人の世界を変えるもの。「美」を体現する作品は、すべからく他者に影響を与える。逆説的に素晴らしい作品は、他者無くしては存在しない。

 

他者と同様に、何かを成し遂げるためには時間も必要だ。

それは作り上げるために必要なだけではない。私たちが何かを見て感じる際にすら、時間というものが必要なのだ。経験によって変わる感じ方、あるいは絵画における視点の移動。まったく無時間の中で語られる作品など無い。時間とは他者と同じく、私たちの前提なのだ。

 

仕合せ(幸せ)、出逢い、積み重ねと進歩する文明、共鳴して成し遂げる仕事。そして別れ…。

時間の中で生きる私たちは、何かを失ってしまうこともある。いや、流れるからこそ変わり続け、失われないものなど無いのだろう。

だから世界に刻んだ音は、やがて無尽の世界に消えていく。

それでも時間の中で生きるからこそ、他者と生きているからこそ何かを成し遂げることができる。

 

過ぎ去る刻(とき)の中でしか、作り上げられない詩(し)がある。

そんな大地で誰かと歩むからこそ、詩(し)は詩(うた)に変わる。

そして詩(うた)は、世界に美しいテンポを刻んでいくだろう。

 

 

 

 

奔る、奔る、奔る、刻が奔る。

そして無尽の世界にその音は消えていく。

それでもこの音は重なり合い、響いていく。

刻は流れて──そしていつか詩となる。

サクラノ刻は、詩となる。

 

 

Extra

・時間について

「9.私たちのリズム、世界のテンポ、ありふれた奇蹟」で大体語ってしまいましたが、改めて。

時間というものは本来私秘的なものなんですよね。「1時間」という統一されたように思われた時間ですら、状況やタイミングによって長くも短くも感じてしまう。ゲームやってるときは当然短く感じるし、どこか痛いときは時間が長く感じるでしょう。自分の中ですら変わるのですから、まぁ他人と違うのは当然と言えば当然なんですが。

物理学的な定義で言えば「セシウムの原子が電磁波を一定回数出した時間を1秒とする」なんですけど、まぁこれは正しいようで時間というものを何も語っていない。

アナタにとっての1秒1分1時間とは何でしょうか?全く意味を持たない時間を私たちは感じることが出来るでしょうか?ベルクソンに言わせれば時間は「質的」だそうですが、事実時間は「感じる」以外に言葉に出来ないんですよ。空間もそうですが、そういったものは結局各々の中にしか存在できない。つまりそういった意味で私秘的というわけですね。

ただ物理学においても「時間は本当に存在するのか?」という問いは(一部の人間から)出ているようで、例えば時間反転対称性とか、時間はエントロピーの増減でしか表せられないらしいとか…。まぁこれはいずれ解明される話ですが、そういった部分は楽しみですねぇ。

 

・奇蹟について

創造主の仕事が、ただ一日だけのものなら、それはどのようなものになるか?

───ポール・ゴーギャン 『死の帝国』

本作において「奇蹟」とは唯ひとつの使われ方しかされていませんでした。つまり芸術家たちの成し得た「当たり前の奇蹟」であり、櫻が咲くようなものです。

一方で僕は意識的にもうひとつの意味を足しました。それは世界の前提であり、それ抜きでは何も語ることの出来ないもの。つまり「時間」と「存在」です。

私たちは生きていてる。生きていく上で多くの悩みは人それぞれあるでしょう。ただ、どう考えても私たちは「時間がない」ことや「存在しない」ことを想像できない。

私たちがあることの前提として、世界があることの前提として、「時間」や「存在」はあるんです。だったら、それは芸術家が絵画で示した奇蹟のように、創造主がその御業をもって示した奇蹟と言えるでしょう。

少しばかり意味合いが変わりますが、「蝶番命題」などがそれに当たるでしょうか。世界の基底、疑え無いもの、当たり前の奇蹟としてあるもの。

 

もし自分が神様なら、何よりも美しいものを世界の基盤に置くでしょう。

本当に美しいものなら、初めから備わってなければ嘘なのです。

 

・主人公について

結局「サクラノ刻」って徹頭徹尾「草薙直哉が主人公の物語」なんですよ。

いや、何を当たり前のことを…と思われるかもしれませんが、まぁ聞いてください。

サクラノ詩」は主人公とプレイヤーを同一視させた後に、その乖離が起きるという構造でした。それが意図的かどうかは不明ですが。

「サクラノ刻」は最初からプレイヤーが直哉が引き剥がされて物語が始まります。主人公は前作で名前だけ出ていた中村静流。それに加えて過去編です。詩のエンドから離れ、「サクラノ」世界観に深く切り込んでいく。

Ⅰ章は本当に出来が良く、これ単体でも十分に名作と言っていいほど完成されています。プレイヤーはサクラノ詩を思い出しながら、プレイヤーとして中村静流に向き合っていく。そこからⅡ章は草薙直哉が主人公に立ち代わりますが、もう既にプレイヤー=主人公の図式は壊れていますから、乖離はあっけなく済んでしまうわけです。

そこに追い打ちをかけるように各章タイトルの画像に描かれているカーテンです。西洋絵画においてカーテンとは視覚的トリックとしてよく使われる手法で、意味は作品にもよりますが基本的に境界を演出するものとしてまとめて良いでしょう。(元々は聖的なモノを強調する意味合いが主でしたが。境界としてはラファエッロ『システィーナの聖母』やフェルメールの『絵画芸術』など典型ですね。逆にその境界を意識的に超えてくるのがフースの『羊飼いの礼拝』やカラヴァッジョの『ロザリオの聖母』だったりします)

それが聖的なものへの演出だとしても、境界が描かれる時点で主人公は草薙直哉でありプレイヤーではない。当たり前のことなんですが、それが強調されるかどうかという話です。

最後はボイスまで付いて、草薙直哉は草薙直哉でしかありえない。徹頭徹尾、草薙直哉のための物語だからこそ、「サクラノ刻」は非常に収斂された話になっているんです。

まぁその煽りを食らっているのが里奈・雫・稟なのですが。

 

とゆーか放哉が語った「亡霊」が、本当にそりゃそう思うよ…というレベルの「亡霊」だったというオチでした。

 

(だからⅠ章は物語としても構造としても100点なんです。章の役割まで含めて考えると、僕はⅠ章を一番高く評価するかもしれない)

 

・あなたのための物語

だが名作と言われる文学は得てして読者に、これは自分のために書かれた、自分だけの作品であると思わせる力がある

──健一郎

BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』という歌で「僕らは皆解ってた 自分のために歌われた唄など無い」と歌っていて、当時の自分はだいぶショックを受けた記憶があります。逆を言えば、それまでの自分は無自覚にすべての作品は自分のために作られたのだと思っていたのですね。

自覚的になってもそれは変わらず、触れた作品達はすべて自分のために作られたのだと言い張っています。むしろそう言えるような作品に出会えることこそ幸せなんだぜ、と語ってもいいでしょうが。

このブログで部分的に語ってきた「時間」を改めて語り直すことで、サクラノ刻の示したものに触れられたと思っています。三木成夫なんかはもちろん僕が勝手に引用してきたわけですが、僕にとっての時間論はやはりそこに成り立つもので、サクラノ刻も同じものを見ていると信じたからこそ引用しました。

批評していく以上、それは論理的な形を伴っていなければなりませんが、もしかしたらサクラノ刻が本当に言いたかったこととは別なのかもしれません。いや、きっと言いたかったことをすべて語ることなど出来ないのでしょう。

ただ、サクラノ刻は僕のために作られた作品だと思ってますし、その意味においてこの批評は真実だったと思うわけです。

 

つまり何が言いたいかって?この批評は「僕がこう感じた」以上の意味はないぜ!という予防線です。

 

雑感

サクラノ刻…お疲れ様でした!

サクラノ詩から約7年…。長かったですね。僕もここまでこのブログを続けているとは思いませんでした。『サクラノ響』は…どうなんでしょうか。そこまでこのブログを続けている自信はないですが、まぁどういった形であれお話できればとは思います。ゆっくりゆっくり、独特のテンポで語れればいいですね。

 

サクラノ刻はサクラノ詩の続きとして、という位置付けでした。が、それは一面正しく一面正しくないなぁ、とも感じています。ストーリー的には正しく続編ではあるんですが、テーマ的にはむしろ補完的な要素が強いんですよね。

今作のテーマは「他者」と「時間」だと思っていますが、それは詩で語られたテーマの前提であって、そこから展開されるものではないわけです。「在りし日」あたりは続きではありますが、「弱き神」としてはむしろ「他者」や「時間」があるからこそ認められるものです。

詩は拡散的に話を広げ、刻はそれを収斂させたイメージでしょうか。テーマとしては詩が、エンタメとしての構成としては刻が好きですね。群像劇としての作品のテーマが「他者」なのは中々に実感があります。

(そして収斂されているからこそ、この程度の文字数で済んでいるわけです)

 

いやーしかし、かななん(香奈のあだ名)良かった…。マジで裏ヒロインだったわけですが、真贋/凡才と天才/美/芸術/他人といった主要テーマ殆どに絡んでたのは豪華すぎる。アラサーで羊柄のパジャマを着ているのも含めて好きです。

麗華もそうなんですが、嫌な感じだったキャラが実は信念を持って行動していた…という明石システム(最悪の名前だ)は王道で良いですね。

後は真琴や優美も大人として共感してしまいました。若い頃のように清廉ではいられず、けれどこの先も同じ様な生活が続いていく…。周りの誰もが進んでいって、自分ひとりだけが置いていかれたような気になってしまう。直哉に聖性を見てない二人が直哉を襲ったのも含めて中々にリアルでGoodでした。ほら、繋がるよりも手や口でサラッとされる方がえっちみたいな…そういうアレだよ(ホントか?)。

演技的な部分で言えば特に放哉かな。『禿山の一夜』を力説する部分は凄かった。助演男優賞レベルでキレッキレでしたね。今までの(比較的)明るい展開から一転、芸術の恐ろしさが問われるシーンが記憶に焼き付いてます。あとあのヒゲも…。

 

収斂されていく物語体験。そして本作が伝えたいことは何なのか…と考え続ける時間は辛く苦しく、でも何だかんだで楽しい刻(とき)でした。

特にビジュアル面は素晴らしく、今までプレイした中でも1,2を争うレベルで何もかも美しかったです。藍が美しすぎて通常版と限定版を別で買ったのは秘密だぜ。

何だかんだでプレイ時間より長く書き続けていましたが、この「たった一つの仕事」もそろそろ成し遂げられそうですね。ここまで読んでくれたアナタに、良かったと思ってもらえるような音が響かせられたのならば幸いです。

それでは、また会いましょう。

 

……よし、みんな投票券は持ったな!!行くぞォ!!

サクラノ刻 人気投票

 

(終わり)

*1:つまり刻Ⅰ章は詩Ⅱ章リフレインなのだ。「作品が何のために生まれたのか、何のために作られたのか……。我々が何のために作品を作るのか……それさえ見失わなければ問題ない……。そこに刻まれる名が、自分の名前では無いとしてもだ……」

*2:ちなみに計算すると18×10の28乗。単位としては杼(じょ)らしい

*3:もう少しわかりやすく言おう。円周率があらゆる数字のパターンを網羅していることはご存知だろうか?円周率は完全にランダムな数値が無限に並ぶとされている。ゆえに、どんな数字だってそこに記載されている。あなたの誕生日や携帯番号、パスワードの答えだってそこに載っているのだ

*4:そういえば『素晴らしき日々』では音無彩名が数字の驚きについて語っていたシーンがあった。98387816816831のような世界で初めて語られた数字の羅列でも、私たちはそこに驚きなど得られない。数字の羅列と文字の羅列。一体この2つにどんな差があるのか?なぜ私たちは世界に驚き続けるのだろうか?

*5:ノエル・キャロルの論は僕の(そしておそらく本作の)語る「批評」とわずかにズレながら、しかし骨子は近い部分にある。「批評」とは価値を見出し、我々批評家は「そこになぜ価値があるのか」を論理的に語らなくてはならない、という点だ。

*6:いかなる芸術作品にもタイトルがつけられている。タイトルとは、作者が語る作品の見方なのだ

*7:約60年以上、誰にも見せず物語を紡ぎ続けた男性をご存知だろうか。彼の名はヘンリー・ダーガー。『非現実の王国で』と題されたこの世で最も長い小説は、たしかに一つの完成された世界だった。これは極端な例なのだが、完成された世界が完成されているがゆえに他者の心を打つこともある

*8:ここはウィトゲンシュタインの議論を踏まえると分かりやすい。世界とは私がいなければ成り立たない…いや、世界というものを「語る」ということは私がいなければならない、と言った方が正確か。私は私の死を語れないように、世界には私がいなければならない

*9:誤解されるかもしれないので補足しておこう。家具は芸術作品足り得ない、と言っているわけではない。例えばアーツ・アンド・クラフツ運動に強い影響を受けたベルギーの建築家ヴァン・デ・ヴェルデは、見た目と機能美を兼ね備えた多くの家具を作り出した

*10:そして何も響かないからこそ、目を楽しませるからこそ大衆は喜ぶとも言える。フリッドマンが語ったように「大衆は反復を求める」のだ。まぁ僕はそれ自体は別に悪いことじゃないと思っているけど

*11:まるで放哉の語った『禿山の一夜』だが、直哉が言うようにそれは供物でなど生まれない。芸術作品に(技術のような)これがあったから成り立てる…といった方程式は存在しない。全てを懸けて為されても、成される保証がないからこそ芸術作品は価値がある。もしそんな方程式があるのなら、それはただの等価交換でしか無く、失ったものと同じ価値しか持たないからだ

*12:もちろん中也の「汚れつちまつた」がそういう意味なのかは意見が分かれると思うが、個人的にその解釈が一番好きなので採用している。しかし、ああなるほど。そういう意味でも芸術家達は「無駄なお喋りは、身体を濁らす」と言うのか

*13:壁の前に立って軽く下を鳴らしてみてほしい。注意深く聞くと、壁の前とそうでない時の差がわかるはずだ

*14:詳しい議論は「素晴らしき日々FVHD オフィシャルアートワークス」参照(なぜなら長いので)。パーフィットの分離脳とも書かれているが、「スワンプマンは<私>か?」という問いのほうが簡潔かもしれない

*15:時間はともかくとして、存在の方は納得できない諸氏もおられるだろう。例えばユニコーンなんかは現実に存在しないじゃないか、という反論があると思うが、たとえ空想でも言葉にできるのであればそれは存在することになる。ここで言う存在とは何か指し示すことが出来るものだ。ウィトゲンシュタイン曰く「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」だが、それは「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」という問いの答えの一つだ。私たちは(頭の中にすら)「存在しないもの」を想像できない。それは世界の前提なのだ

*16:例えばアニメを考えてほしい。アニメは静止画の集合体だ。科学的に記述するなら何秒に静止画Aを映し、その1秒後に静止画Bを映し…となるが、私たちは動画であるアニメを見た、で事足りてしまう。どちらかが間違っているというわけではない。それは記述方法の違いなだけなのだ