古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

Fate/stay night 批評 —全て遠き理想郷— (18866文字)

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その日、少年は運命に出会う———。

 

ブランド:TYPE-MOON

シナリオ:奈須きのこ

公式サイト:「Fate/stay night」公式ページ

 

当ブログ、5周年です。

……いえ、正確に言えば一発目の記事が15年の3月なので、5年と3か月なのですが、まぁ誤差誤差。アレは試運転的な意味合いが強かったのでセーフですセーフ。

飽き性な僕がここまでやってこれたのも、ひとえに皆さんのおかげだったり、自分だったり作品だったり。なんかフワフワした感じで一つ。

まぁこれからも言葉にしたいものを言葉にしていく感じで、自由にやっていこうと思います。

 

さて、たびたび当ブログではFateからの引用を出していましたが、遂に本編です。

実は自分、Fateに2度人生を狂わされておりまして。

1度目はPS2版をプレイした時ですね。 あまりの衝撃に寝食忘れて、あの感動をもう一度という感じでノベルゲーをやってる風味はあります。多分Fateに出会ってなかったら僕はノベルゲー今だにやってないだろうなぁ。

2度目はのり氏(臥猫堂)のFate批評を読んだ時ですね。漠然とした「面白かった」に、「Fateの何が凄いのか」「どう凄いのか」を論理的に分かりやすく批評していました。アレを読んで自分も批評を書いてみよう、となりましたし、そうした結果が5年前の「素晴らしき日々 批評」だったりします。

ううむ、運命ですなぁ。*1

 

そんな感じのFate批評。今回はのり氏のFate批評に多大なるリスペクトというか…ぶっちゃけ内容が一緒というか。

そうした理由から今まで記事にはしてこなかったのですが(のり氏以上の価値が見いだせないのならやる意味がない)、臥猫堂は閉鎖しましたし、5周年だから過去を振り返って改めて形にするのもアリかなぁ、と思って作ってます。

いくつか肉付けは行ってますが、今回の記事は僕ではなくのり氏の功績によるものということで一つよろしくお願いします。

 

それでは、以下ネタバレ注意で。

 

届かぬ星に手を伸ばして

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———その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている

 

 

後悔というものは、いつだって人生に付き纏う影のようなものだ。

僕の祖父は「後悔をしない人生を過ごせ」と遺言を残していった。けれど実際、僕らは後悔をしないように何かを選択しても後悔してしまうし、選択をしなくても選択をしなかったことが後悔となってしまう。

あの時ああすればよかった…やり直せるならやり直したい…。人生にセーブロードはないけど、もしあるならきっと使ってしまう。

それを可能とするのが聖杯だ。暗い地下室の中で、聖杯とマスターの命を天秤にかけられたセイバーは逡巡する。それは彼女が己が人生を後悔しているからだ。

 

そもそも、後悔とは何だろうか。間違ったこと?誰かを傷つけたこと?望んだものが得られなかったこと?

そのどれもが合っていて、そのどれもが間違っている。

後悔とはつまり「選択の結果を受け入れられなかった」感情に他ならない。

間違ったことも、傷つけたことも、望んだものが得られなかったことも、それらはすべて結果に過ぎない。その結果が認められないからこそ、セイバーは死の淵で聖杯を求める。彼女にとって「国を救えなかった王」という結果は受け入れらなかった。ゆえに、彼女は後悔を抱きやり直しを求めるのだ。

 

けれど、その奇蹟を士郎は否定する。

たとえ過去をやり直せたとしても———それでも、起きた事を戻してはならないんだ。

だって、そうなったら嘘になる。

あの涙も。

あの痛みも

あの記憶も。

———胸を抉った、あの、現実の冷たさも。

———衛宮士郎

過去をやり直すことは、結果を受け入れられないということは、つまりその「過程」を否定するということだ。

必死に悩んで選んだことも、傷つけたことに対する罪悪感も、得られなかった代わりに得られたものも。すべてを無かったことにして、無価値にしてしまうことこそが過去をやり直すということなのだ。

……結果だけを叶える聖杯とは、即ち「過程」の否定だ。だから士郎はその奇蹟を人の手に余ると断言する。結果も重要だが、それ以上にその過程を認めることこそが大事なのだ。

 

「聖杯が私を汚す物ならば要らない。私が欲しかったものは、もう、全て揃っていたのだから」

……そう、すべて揃っていた。

騎士としての誇りも、王としての誓いも。

アルトリアという少女が見た、ただ一度のとうといユメも。

———セイバー

自らのユメの始まりを思い出しその「過程」を認めたからこそ、セイバーは後悔を振り切った。国を救う王にはなれなかった。けれど、彼女が信じた王にはなれたのだ。選定の剣を抜いたあの日に見た通り、彼女はその結果を知りながら、それでもその「過程」は決して間違っていないと信じていたから。

———多くの人が笑っていました。

それはきっと、間違いではないと思います」

———セイバー

 

「王」で在り続けたことがセイバーの誇りであり、そしてその誇りを誰よりも理解しているからこそ士郎はセイバーを引き留めることが出来ない。それをしてしまえば、彼女の誇りを汚すことになるからだ。

互いを愛していながらも、互いの誇りを尊重した最大の理解者。

その二人の在り方が、夕焼けに似た黄金のように切なくも美しい。

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シロウ———貴方を、愛している

 

それは決して交わることのなかったはずの運命。

過ごした時間は短く、記憶は風化し姿形も朧げになっていくだろう。

けれど、何も残せなかったとしても

そこに「結果」がなくとも、共に過ごした「過程」があるのなら

運命に出会えたことは、きっと胸に残り続けるだろう。

 

体は剣で出来ている

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———なら、衛宮士郎が偽物だとしても。

そこにある物だけは、紛れもない本物だろう。

 

セイバールートが、王という理想をセイバー自身が受け入れる物語なら、UBWは未来の衛宮士郎が正義の味方という理想を再び問われる物語と言っていいだろう。

幼い頃、月の下で交わした誓い。衛宮切嗣はその言葉を聞いて死んでいった。だから衛宮士郎「正義の味方」を目指し続けなくてはならない。

自分の気持ちなどどうでもいい。

ただ、幼いころから憧れ続けた者の為に、憧れ続けた物になろうとしただけ。

誰もが幸せでありますようにという願いは。

俺ではなく、衛宮切嗣が思っていた、叶うはずもないユメだった———

「気づいているのだろう、士郎。

おまえの理想はただの借り物だ。衛宮切嗣という男がなりたかったモノ、衛宮切嗣が正しいと信じたモノを真似ているだけにすぎない」

———衛宮士郎、アーチャー

それは自分に還ることのない願い。誰かの理想を肩代わりするということは、その責任も誇りも自分のモノではないということだ。

セイバールートの話を思い出してほしい。セイバーが「王」という理想を受け入れられたのは、彼女に「王」になりたい理由があったからだ。だから、間違いも過ちも受け入れて、その理想を誇ることが出来た。

けれど、アーチャーはそうではない。彼が目指した「正義の味方」は自身の理由がないのだ。だから、間違いも過ちも受け入れられない。自らの理想を誇ることが出来ない。

理由のない理想は空虚な偽物だ。「正義の味方」というカタチだけ真似ても、その理念/骨子がないのなら穴の開いた桶と変わらない。何をもって「正義の味方」を為せたかの判別がつかないからだ。だから、彼の目指した「正義の味方」は、定義が曖昧だからこそ誰も救えない*2。その一方で、誰かを殺し続けることは「正義の味方」ではないことは分かっているから、負債だけが溜まっていく。

ゆえに、アーチャーは慟哭する。

だが所詮は偽物だ。そんな偽善では何も救えない。

否、もとより、何を救うべきかも定まらない———

———アーチャー

 

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誰かを助けるという事は、誰かを助けないという事。

正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ

———衛宮切嗣

「正義の味方」になるためには、まずその定義から始めなければならない。例えば衛宮切嗣は「多数」を正義とした*3。そしてその定義を決めることこそ、夢を抱いた「理由」に他ならない。理由があるから定義があり、定義があるから理想に近づけるのだ。

その理由(定義)は、決して万人に受け入れられることはない。衛宮切嗣は「多数」を救い続けたけど、切り捨てられた側からすれば冷徹な殺戮者であり「悪」だろう。だから、一方的に「正義」の定義を押し付けて、切り捨ててしまう「正義の味方」はエゴイストなのだ。

その言葉も嫌いだった。

自分にとって正義の味方そのものの人物に、そんな現実を口にしてほしくなかった。

……それからの衛宮士郎の時間は、ずっと、その言葉を覆す為だけのもの、だったのかもしれない。

犠牲なんて出さなくてもいい。

頑張れば、精一杯努力すれば傷つくヤツなんていなくなる。

切嗣だって、それにずっと憧れていた筈だ。

だから

———衛宮士郎

衛宮士郎には「理由」がなかった。けれどそれに見合うだけの救いという輝きは知っていたのだ。あの大火災の日に、伸ばした手を掴んでくれた男の姿を見た日から。

再三になるが、衛宮士郎「正義の味方」に近づくことが出来ない。何が「正義」かを定義できずにいるからだ。

だが、理想に近づけなくとも、その理想を願った始まりは確かに士郎自身のものなのだ。進むべき道は未だ見えず、先を征く男は成りたかった姿ではないかもしれないけど。

頭にあるのはそれだけだ。

衛宮士郎が偽物でも、それだけは本当だろう。

誰もが幸せであってほしいと。

その感情は、きっと誰もが想う理想だ。

だから引き返す事なんてしない。

何故ならこの夢は、決して。

———衛宮士郎

誰もが幸せであってほしいという感情は、きっと誰もが想う理想だ。そして誰もがそんなもの叶わないと理解するからこそ「正義の味方」は「正義」に則り犠牲を許容する。それはしょうがないことなのかもしれない。けれど、自分だけにはその始まりを否定させない。だから士郎はアーチャーを否定する。 

 

例え、自らに還るものがなくとも、自らの道を進むことで意味は生まれるかもしれない。

葛城宗一郎は、キャスターが消えた後も、自ら始めたことを最後まで投げ出さなかった。

佐々木小次郎は、真実無銘の英雄であったが、剣士との立ち合いを果たすことが出来た。

二人ともその在り方に確たる理由はなかったのだ。けれど、彼らの生き方を彼ら自身は肯定しているだろう。

だからもしかしたら、自身に還るものがなくとも、あの夕焼けの中で少女が願ったように、アーチャーも自分自身を許すことが出来るかもしれない。

 

遠くに響く剣戟の音。それが鳴る度、あの始まりを思い出す。

 

胸に去来するものはただ一つ。

後悔はある。

やり直しなど何度望んだか分からない。

この結末を、未来永劫、エミヤは呪い続けるだろう。

だがそれでも———

 

それでも———俺は、間違えてなどいなかった———

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投影魔術

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自身のイメージと現実、その落差が大きくなり、それを修正しきれなくなった時、投影された武器は消え失せてしまうのだ。

なにより、それを生み出した俺自身が、その幻想を信じきれなくなることによって。

 

例えば、子供のころに描いていた夢というものがあったとして、大人になってもそれが100%叶っている人というのはいないのではないだろうか。

「いやいや、待ってくれ。確かに全員ではないけど、子供のころの夢を叶えている人だっているだろう」と反論される人もいるかもしれない。確かに、サッカー選手を目指している子供がプロサッカー選手になっていることもあるだろう。芸術家とか、消防士とか、警察官とか。そんな子供が抱きがちな夢を実現している人たちは現実この世に存在する。

だが、僕が言っているのはそれが「子供のころ抱いていた夢が100%叶っているのかどうか」という問いだ。子供のころ、サッカー選手になることは夢見ていても、ライバルを蹴落とさなくてはならない世界とか、有名になったことで批判される状況とか、審判の前で過剰に痛がったりとか、知らん奴らから「あのプレーは悪手だな」と上から目線で言われるとか*4、そういったことを込みで「100%叶っているのか」という問いだ。

 

子供のころに描いていた夢は、決して全てが思い通りになるわけではない。

なぜか。それは、子供には『想像力』が足りないからだ。 

 

『想像力』とは、思い描いた夢を正確に世界に写像するツールと思ってくれればいい。

分かりやすい例えが「画力」だろう。

例えば僕*5なんかが、頭の中でどれだけカッコいい絵を想像したとして、実際にそれを描くことは出来ない。空想では理想の線が描けても、現実では歪な形となってしまう。この空想と現実の差を埋めるモノこそ「画力」だ。もう少し具体的に言うなら「線はどのように描くか」「手に込める力は」「全体のバランスは」…等々。

この「画力」こそ、空想の精度を上げ、現実に存在できるものに近づけるただ一つの手段だ。それがないから僕は絵が下手だし、絵が下手な僕には空想と現実を近づけるための「画力」がなんなのか具体的には分からない。

同じように、『想像力』がないからこそ子供の夢は100%叶うことがない。子供たちの描く夢とは、楽しい理想だけを抽出した結晶だ。それは美しく輝く硝子細工だからこそ、現実との摩擦(齟齬)に耐えられない。

この『想像力』こそ、投影魔術の真髄に他ならない。『想像力』をもって、理想を理想のままこの現実に産み落とす。この世にあってはならないモノをカタチにする、現実を侵食する想念。それこそが衛宮士郎に許されたただ一つの魔術であり、そのためには8つの工程を踏まなければならない。

想像の理念を鑑定し、

基本となる骨子を想定し、

構成された材質を複製し、

制作に及ぶ技術を模倣し、

成長に至る経験に共感し、

蓄積された年月を再現し、

あらゆる工程を凌駕しつくし―———

「く———あ、あああああああ………!!!!」

ここに、幻想を結び剣となす――――!

———衛宮士郎

 それは理想そのものであり、現実に在ってはならないモノだからこそ、衛宮士郎は固有結界を使う。固有結界とは、すなわち自分ルールがまかり通る世界なのだ。理想は現実に現れることはない。だからこそ、衛宮士郎は理想が現実に現れる世界を創り出す。

 

では一方で「画力」を上げれば理想に近づくように、『想像力』を鍛えれば夢を叶えられるようになるのだろうか。

難しい問題だが、それには否定的な意見を述べさせてもらう。

「画力」とは違い、『想像力』とは現実の様々な面(摩擦)を知っていくという事に他ならない。言い換えれば『想像力』を鍛えるとは、現実的になるということなのだ。『想像力』を鍛えた大人が言うサッカー選手になるという夢は、先に述べた厳しい競争社会の中での(そして多くの批判にさらされる)夢なのだ。それは確かに現実に近づくものだろう、子供のころに比べて実現可能性が増えたかもしれない。

……だが、大人の「夢」と子供の「夢」ではその純度が異なるのだ。

子供の、誰もがそうだったら良いという「夢」は、『想像力』がないからこそ唱えられ『想像力』がないからこそ現実にできない。だからこそ、聖杯の奇蹟は人の手に余る。

「……そうだ。やりなおしなんか、できない。

死者は蘇らない。起きた事は戻せない。そんなおかしな望みなんて、持てない」

頬が熱い。

そんな奇蹟などあり得ないと口にする度に、ただ悔しくて涙がこぼれた。

そんな、当たり前の幸せを望む”奇蹟”は、どうして、人の手にはあまるのかと。

———衛宮士郎

 

ただ誤解してほしくないのだが、僕は「夢」を抱くなと言っているわけではない。

子供の「夢」は確かに純粋で脆い。サッカー選手になりたいという「夢」も、大人になって現実を知って楽しいことばかりではないとわかってしまうだろう。だが、その「夢」が叶ったかどうかを決めるのは、あくまで本人なのだ。どんな現実の摩擦に晒されようとも本人が叶ったと思えばその「夢」は叶っているし、その逆もまた然り。

「夢」は現実との摩擦によって消え去るのではない。「夢」を生み出した自分が摩耗によって「夢」を信じきれなくなった時にこそ、その「夢」は崩れ去る。投影が融けてしまうのだ。

衛宮士郎の八節から成る詠唱は、弓道における射法八節*6こそが源流だ。そしてその八節目、弓を引き終わった後に行わなくてはいけないものこそ「残心」だ。

心構えの話だ。残心とは己の行為、放った矢が的中するかを確かめる物ではない。

矢とは、放つ前に既に的中しているものだ。射手は自らのイメージ通りに指を放す。

ならば当たるか当たらぬかなど、確認する必要はない。

射の前に当たらぬと思えば当たらぬし、当たると思えば当たっているのだから

(中略)

残心とは矢が当たるかどうかを見極めるものではない。放った矢がどのような結果になるかなど判り切ったことだからな。

ならば、残心とはその結果を受け入れる為の心構えではなかったか

———アーチャー

未熟な僕らは、未だにイメージ通りの矢を放てない。それが人間の限界だ。奇蹟は人の手に余るからこそ、不完全な「夢」を見続けている。

だが、矢を放った後に、その結果を受け入れることが出来るのなら。あの頃に見た「夢」が叶ったと思えるのなら、僕たちはあの未熟で美しい「夢」を抱いたあの頃を認めるが出来るのだ。

ゆえにこそ、あの全て遠き理想郷すらこの手で紡ぎ上げてみせよう。

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 ……そう、一から作る必要などなかったのだ。

何故ならこのカタチだけは胸に刻み込んだもの、完全に記憶し、一身となった、衛宮士郎の半身故。

``————貴方が、私の鞘だったのですね———”

懸命に伸ばした指先が、まだ動く。

精神集中も呪文詠唱もすっ飛ばして作り上げたそのカタチを握りしめる。

世界は一転し、闇は黄金の光に駆逐され、そして———衛宮士郎の手には、完全に複製された、彼女の鞘が握られていた。

 

 

罪罰と贖い/自己と他者

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だがおまえが今までの自分を否定し、たった一人を生かそうというのなら———その罪は必ず、おまえ自身を裁くだろう

 

自分を愛すること、即ち自己愛。

他者を愛すること、即ち対象愛。

この二つは相反するようで、最初から人間に備え付けられている両立することが可能な感情だ。

自分愛。自分を一番優先すること。利己主義と言われるかもかもしれないけど、それは普遍的だからこそ、時に「悪」として定義される。もちろん、自分を一番に思うことは何も悪いことじゃない。それどころか、自分が一番大切という共通認識があるからこそ、誰かを尊重することが有り難い善行なのだ。

対象愛。自分ではない誰かを大切だと思うこと。君のために世界を敵に回すとか、そんな大仰なことじゃなくても誰かを思いやるとか、電車の席を譲るとか、同情するとかそんなレベルでいい。自分でない誰かのために行動し心を動かすこと。それが他者を愛することだ。

 

先に述べた通り、自己愛と対象愛は当たり前のように両立する。僕たちはいつだって自分が一番大切だけど、時として他者の利益のために動ける。それこそが人間という種の在り方であり、そこに善悪など存在などしない。人はそうあるべきだし、そこから外れたモノは何かが欠落しているのだ。

しかし、自己愛と対象愛が両立する一方で、この二つが相反する時もある。例えば自分の利益のために他人を蹴落としたり、他人と自分を比較しどちらかを優先しなければならなくなったり、あるいは大災害の中で救えを求める声を無視して歩き続けたり。

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そうして自己愛と対象愛が矛盾し、どちらか片方を取らなくならねばなった時こそ、人は罪を背負う。

罪とは、決して誰かに背負わされるものではない。罪とは、自ら生み出し背負うものだ。誰かを愛し、誰かを傷つけてしまったからこそ、「私」は罪を生み出しそれを背負って生きていく。すなわち、罪とは「罪悪感」そのものなのだ。だから他者が誰かに強制的に「罪悪感」を感じさせることは出来ないし、それを取り除くこともできない。

この「罪」の分かりやすい例が、小動物や地球に対する「罪」だろう。

ペットに餌をあげなかかった、遊んでやれなかった…そうしてしまった後には必ず「罪悪感」が生まれる。けれど、ペットは必ずしも飼い主である貴方を恨んでるわけがないし、なによりも人間以外の生物は人間と同じ思考回路をしていない。ゆえにこそ、他人が向ける感情と、ペットのそれは別物のハズだ。けれど僕たちは同じような「罪」を背負ってしまう。

地球の場合はもっと分かりやすい。地球は意志なんてないし*7個人を恨むことなんてしない。けれど、(そう感じる人がいるのなら)ポイ捨てや環境破壊は地球に対する「罪」の意識を生み出す。たとえ自分以外に意志持つモノが何一つなくても、他者を害したと思う自分の心こそが「罪」を生み出すのだ。*8

 

人である限り、自己愛と対象愛が存在する限り、この「罪」からは逃れられない。

自分を愛するからこそ「罪」は生まれ、誰かを愛するからこそ「罪」を感じる。 

人は人として生きる限り「罪」を背負い、そしてその「罪」を背負い続けるという「罰」を受けなければならない*9。それは人が生まれながらにして持った矛盾、原罪だ。

吐き気を催すような悪人が、戯れに見せる善意がある。

多くの人間を救った聖人が、気紛れに犯す悪意がある。

この矛盾。両立する善意と悪意こそが、人を人たらしめる聖杯だ。

生きるという事が罪であり、生きているからこその罰がある。生あってこその善であり、生あってこその悪だ。

———言峰綺礼

この「罪」と「罰」こそが、作中で語られる聖杯の泥だろう。 

正視できない闇。

認められない醜さ。

逃げ出してしまいたい罪。

この世全てにある、人の罪業と呼べるもの。

だから死ぬ。

この闇に捕らわれた者は、苦痛と嫌悪によって自分自身を食い潰す。

———衛宮士郎

泥はそれ自体に攻撃力があるわけではなく、罹ったそのもの自身の罪悪感に働きかけ自死させる。泥の原型がアンリマユなのもそのためだ。アレは「誰もが善でありたい」という純粋な願いをかなえるための「絶対悪」という人身御供。それは善き存在でありたいという誰もが共感できる自己愛であるからこそ、誰もが理解できる「罪」となる。つまり、泥に犯されるのだ。

 

この「罪」から逃れられるのは、欠落した人間だけだ。

自分を愛せない衛宮士郎は、ゆえに「罪」が生まれず、

他人を愛せない言峰綺礼は、ゆえに「罪」を感じない。

この二人は対極に位置する同属の欠落者だ。それが後天的であれ先天的であれ、人として大切なものを一つずつ失っている。

そして人として壊れているからこそ、聖杯の泥の影響を受けにくい。罪の意識へと働きかけるソレは、罪を感じない人間には効果がないのだ*10

 

衛宮士郎はかつて自己を失った*11。だが、HF編の衛宮士郎間桐桜という日常、そしてイリヤからの赦しを経て、大切な人だけを守りたいという自己の願いを自覚していく。それは失くしたはずの自己の願い、誰かを傷つけても何かを得たいと思った自己愛の結晶だ。

自己愛を持ち始めたからこそ、(様々な場所で言われている通り)HF編の衛宮士郎は人間になっていく。 それは同時に、かつてとこれからの「罪」を背負うことに他ならない。自己を失い正義の味方を目指さなくなったからこそ、その罪は衛宮士郎自身を裁く。

その罪の具現こそ、移植された左腕の赤い聖骸布と解いた時に生じるあの風だ。衛宮士郎はそれに耐えられない。それに耐えられなかったからこそ、かつてあの火災で自己愛を失ったからだ。

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ヤツにとって、この結果は判りきった事だった。

衛宮士郎ではこの風には逆らえない。

自分を裏切り、手に余る望みを抱いた男に未来などないと判っていた。

ヤツの言葉は正しい。

溜めに溜めた罰は俺自身を裁くだろう。

だというのに、ヤツの背中は。

"————ついて来れるか“

蔑むように、信じるように。

俺の到達を、待っていた。

———衛宮士郎

セイバーやアーチャーが指摘するように、間桐桜を守る選択肢は一番辛い道程だ。アーチャーが「正義の味方」であることで贖罪を行っていたのに対し、衛宮士郎はただ自身の願いだけのためにその罪を背負わなくてはならない。

だからこそ、衛宮士郎が自身のためだけに願いを為そうとするのなら、その罰が常に体を苛み続ける。———体は剣で出来ている。「衛宮士郎」の始まりはそこだ。何もかも失って、救ってくれた手は「正義の味方」という在り方と鞘を埋め込んだ。その鞘が「衛宮士郎」の起源を「剣」に変えたのは単なる偶然ではない。あの鞘は「衛宮士郎」にとって「正義の味方」のメタファーなのだ*12。だから、その理想を裏切った時、その罰は「剣」となって自身を内側から食い破る。聖杯の泥のように、罰が自分自身を殺すのだ。

 

衛宮士郎が自分を愛せなかったように、間桐桜は自分の願いを持てなかった。

ただ衛宮士郎とは違い、間桐桜のそれは生きるための手段であったという点だ。間桐桜は暗い蟲蔵の中で外界に対する望みを絶ち切った。諦めという自己防衛こそ、間桐桜に許された、たった一つの生存方法である。だから間桐桜は自己に還る望みを持たない。

間桐桜の特異な点は、外界を殆ど遮断している部分だろう。例外的に衛宮邸では笑顔を見せるものの、外ではそんなことは決してない。なぜか。それは間桐桜が外界に対する願い(期待)を持っていないからだ。

分かりやすく言えば、本を読んでいるような感覚に近いだろう。本の登場人物に自分を救ってくれなんて期待しない。物語がどれほど感動的でも現実が変わるわけではない。

願いを持たず外界を遮断するからこそ、間桐桜は泥に適合しなかった。

先も述べた通り、泥とは「罪悪感」に働きかける呪いだ。この呪いの影響を受けないモノは二通り。「罪悪感」を抱く自己が無い機械か、他人を踏みにじることに「罪悪感」を感じない化物か。

この定義で言えば、間桐桜はどちらでもあり、どちらでもない。何故なら間桐桜の世界には間桐桜しかいないのだ。すべての因果と痛みを自らに求め、他者に還ることが決してない在り方。ハッキリ言おう、それは優しさなどではない。それは子供の理論なのだ。自分しかいない狭い世界、誰も愛さず誰にも愛されない世界、それを子供以外のなんと呼べるだろうか。

……桜は自分を責めすぎるのです。過ちを正す事より、悔いる事を強要している。だから汚名を返上しようとするのではなく、汚名を刻み付けようとしてしまう。良くも悪くも、彼女は自分を重くしている

———セイバー

世界に自分自身しかいないからこそ、 間桐桜が願いと罪悪感を抱くことはない。ゆえに泥の影響も受けない。

だから、間桐桜が泥の影響を受けるのは何かを望んだ時なのだ。皮肉な話だが、閉じた子供の世界から一歩踏み出したときにこそ、間桐桜は最大の罪を背負わなくてはならなくなる。

 

間桐桜が泥とリンクし始めた最初、無意識での殺人から目をそらし続ける。それは自らの罪から目を背けることと同義だ*13。あの罪から目をそらし続ける限り、間桐桜は泥と同化しないで済む。それは間桐桜が罪悪感を(比較的)感じていないからだ。

だが兄である間桐信二を殺意をもって殺した時にこそ、果たして泥と同化してしまう。それはつまり、目を逸らせない罪悪感を背負ったということだ。

ただここで誤解して欲しくないのは、間桐桜は泥に呑まれたから豹変したのではない。もしそうであったら意志のない災害になり果てた事だろう。黒化した間桐桜の姿は、紛れもなく間桐桜の一面なのだ。*14

隠す必要などない、と言った。

おまえは別人格などではない。泥に飲まれ、暴力に酔うおまえもまた間桐桜だ。異なる人格を用意し、間桐桜は悪くない、などと言い訳をする必要はない。

———言峰綺礼

間桐桜が黒化したのは、自らが何かを望み、その結果として他人を害したという罪に耐えきれなかったからだ。罪に耐えきれなかった人は2つのやり方で罪から逃れようとする。即ち、自分を愛することをやめるか、他人を愛することをやめるか。

衛宮士郎はかつて前者を選んだ。だが、間桐桜は後者を選んだ。

「わたしは———わたしは強くなりました。強くなれば、何をしても許されるんじゃないんですか。

……そう。強くなれば、誰にも負けなければ、今までしてきてしまった事だって許される。わたしがわたしじゃなくなれば、今までしてきたコトも全部当たり前の、仕方のないコトなんだって言える筈です……!」

怒りに満ちた絶叫。

それは、そう信じるコトでしか逃げ場のない、泣きじゃくる子供の訴えだった。

———間桐桜遠坂凛

 

「————わたし、が」

……なら。

結局、弱くて悪いのは彼女の世界ではなく。

臆病で顔を上げられなかった自分だけで———

———そんな自分を、不器用ながら、愛してくれた人たちがいた。

「なのに————わたしが、壊し、ちゃった」

———間桐桜

だから、間桐桜が泥と乖離するのは他者を愛した時なのだ。

自分を愛し、誰かを愛する。その矛盾した思いを抱え、罪を抱き続けるのが人間だ。ゆえにこそ、人間に戻れた間桐桜を襲うのは、目を逸らすことで逃れてきた罪だ。

それは決して逃れることは出来ない。何故なら先に述べたように、何を罪とするのかも、罪を背負い続けるのも、その当人しかできないことだからだ。他人にそれを肩代わりすることなどできない。衛宮士郎が生涯あの災害を忘れられないように、間桐桜もまた生涯多くの人を殺めた罪に苛まれ続ける。

 

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Normal End、他人の前で笑えなかった少女は、春に花を咲かせる。

間桐桜にとって*15、笑顔でいるということは自分を認める事に等しい。誰かの前でしか笑えなかった彼女が、凛の娘の前で見せる表情は何よりも穏やかだ。

罪は消えない。多くの人を殺めて傷つけた過去は、間桐桜を死ぬまで苛み続けるだろう。

———けど守る。これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ。

たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通す事を、ずっと理想に生きてきたんだから———

———衛宮士郎

だが一方で、自分を救ってくれた人がいた。そんな人を愛して、そんな人に愛されたのなら、自らの人生を誇るに足る理由になるだろう。

罪は消えない。いつまでもそれは自分を責め続ける。だからといって自分の人生を認められないわけではないのだ。黄金の騎士王も、荒野を往く少年も、罪を抱きながらも自身の人生に誇りを持てたのだから。

償いは終わらない。だから救いも永遠だ。そうして、また春は巡るだろう。

 

 

贖いの花。

私の罪が赦されるまで、ここで春を待ちましょう。

 

そうして、また春になった。

 

 

 

 

願い

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自分以外の為に先を目指すもの。自己よりも他者を顧みるもの。……そして、誰よりも自分を嫌いなもの。

これが魔術師としての素質ってヤツよ。どんなに魔術回路があったところで、ソレがない者には到達できない所がある。

 

魔術師が追い求める『根源』とは、とどのつまり「聖杯」だ。そこは何もかもがあり、何もかもがない。人が理解できない場所であり、だからこそ人が叶えられるはずのない理想もそこでなら成しえる。

並行世界の運用も、魂の物質化も、未だ人の手の届かぬ理想だ。だからそれは魔法と呼ばれ、『根源』にさえ繋がる。

魔術師が『根源』を追い求めるのは、そこに叶えたい理想があるからだ。その有無こそが魔術使いと魔術師を分ける線であり、何よりの違いだ。能力でも家柄でもなく、目指している地点こそが魔術師を魔術師たらしめるものなのだ。*16

あらゆる憎悪、あらゆる苦しみを、全て癒し消し去る為に。

———思い出す。

楽園などないと知った悲嘆のあと。

この世に無いのならば、肉の身では作ることさえ許されぬのなら、許される場所へ旅立とうと奮い立った。

新し世界を作るのではなく、自身を、人という命を新しいものに変えるのだと。

見上げるばかりの宙へ、その果てへ、

新しく生まれ変わり、何人も想像できない地平、

我々では思い描けない理想郷に到達する。

———間桐臓硯

 

さて、魔術師達がその理想を追い求めながら、なぜその一方で犠牲を当たり前のように許容しているのだろうか。

その答えは簡単。自己の願いの本質とは、他者の願いを踏み潰すものだからだ。

そのいい例が聖杯戦争だろう。あの戦いではたった一組の願いを叶えるため、その他多くの犠牲を必要とした。

それは願いの善悪で変わるものではない。どれだけ善なる願いを持とうとも、他者に還る願いを持とうとも、自己の願いである限り他者を踏み潰さなければならない。

衛宮切嗣やアーチャーのような「正義の味方」はその最たるものだろう。願いが誰かの為でありながら、願いを叶えようとすることで誰かを傷つけなければならない矛盾。

その矛盾が前提にあるからこそ、魔術師は犠牲をためらわない。むしろ恐れるのは理想のための手段である神秘(魔術)が秘匿できずに零落してしまうことなのだ。

 

魔術師は誰かのための願いを持ちながら、しかし犠牲をためらわない。だが、だからといって罪を感じないわけではないのだ。

自己愛と対象愛の話を思い出して頂きたい。誰かのためでありながら、誰かを傷つけなければならない矛盾。誰かを愛するからこそ、傷つけなければない在り方こそが魔術師だ。だから素質のある魔術師は自分のことが嫌いなのだ。

もし、誰かを傷つけても罪に感じないのなら、それは魔術師ではなくただの人でなしだろう。それなら他者の為に持つ願いなどない。魔術師とはその在り方から苦しみ続けるものだ。

 

全て遠き理想郷 

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いつか冬が過ぎて。

新しい春になったら、二人で櫻を見に行こう———

 

あの日、思い描いていた理想は果たされたのか。

 

理想とは、誰もが持ちながらその殆どを現実との摩擦のために失ってしまった何かだ。

別に自分の夢の話じゃなくてもいい。「みんな幸せに」「正しくありたい」「争いのない世界を」「誰も悲しまなくていいように」。そんな誰もがそう願いながら未だ果たされていない『全て遠き理想郷』、それこそが理想だ。

誰もが願いながら、なぜその理想は果たされないのか。

「投影魔術」の項を思い出して頂きたい。理想であれ夢であれ、それは『想像力』が無くては実現できず、『想像力』があるからこそ無理だと判ってしまう。*17

例えば「誰もが幸福な世界」を想像してみよう。みんな笑いあって、幸せそうで、悲劇など何一つない世界。完璧に思えるこの世界は、けれど他者の苦しみでしか幸福を感じれない言峰綺礼のような人間は弾かれてしまうだろう*18。あなたが思い描く「誰もが幸福な世界」は『想像力』が足りないがゆえに崩れ去ってしまう。それは決してあなたの能力が足りないわけではない。それは何万年もの間、人間の『想像力』が足りないがゆえに為しえなかったことなのだ。

どれだけ善なる願いだろうと、それをこの場で実現できることはないし、実現しようとしたところで誰かを傷つけてしまう。

ならば、僕らは「理想」を持たないのが正解なのか。諦めてしまうのが正しいのだろうか。

 

いいや、そんなことはない。

傷ついて終わり、ではなく。

多くを救うために傷つけて、それが最善であっても、それでも———誰も傷つかない幸福を求め続ける。

正義などこの世にない、と。

現実とは無価値に人が死に続けるものだと。

そんな悟ったような諦めが、正しいとは思えない……!

———衛宮士郎

理想を実現できないのなら、それをカタチにしようとし続けることが大事なのだ。

 

———そうだね士郎。

結果は一番大事だ。けどそれとは別に、そうであろうとする心が———

 

かつて病の治療は奇蹟として考えられた。だが、現代社会では適切な医療さえあれば完治するものが多くある。医療、技術、文明…ありとあらゆるものは進歩していく。神秘を失うと同時に、私たちはかつて手にできなかった理想を当たり前のように使っているのだ。

その最たる例が飛行機だろう。はるかな昔、人にとって空を飛ぶことは夢と不可能の代名詞だった。けれど、多くの人の歩みと犠牲があってそれは確かに成し遂げられた。誰もが一つの理想を目指しながら、そのバトンを紡いでいったからこそ、現代の人は空を飛ぶことが理想ではない(不可能ではない)と知っている。

そうした人の歩みこそが、かつて「魔法」と呼ばれていたものを「魔術」にまで零落させた。奇蹟/理想を人の手でいくつも叶えてきたのだ。

ただ、それは一代で成せることでは決してない。魔術師達の魔術回路を思い出してほしい。あれは自分の成果を子供に引き継がせるものだ。それは業であり、誇りであり、確かな歩みである。魔術回路とはすなわち、文明における研究結果と同意義なのだ。

 

「誰もが幸福な世界」は、未だ果たせぬ理想だ。理念も骨子も材質も技術も経験も年月も工程も分からない。誰もがその影さえ掴めないでいる。

だから人は時に間違ってしまう。「正義の味方」を目指しながら無辜の人々を踏みにじり、「正しくありたい」と願いながら無実の少年を悪に仕立て上げた。もとより正解などないから、何かが間違えてると知りながら理想が叶ったと目を背けてしまう。それは自らの願いの為に、誰かを傷つけてしまう「罪」から逃げるためだ。

けれど、そうして目を背けてしまった時こそ、本当に理想への道が閉ざされてしまうのだ*19。失敗と後悔が無ければ科学の進歩がなかったように、罪とそれを背負い続ける罰が無ければ理想に近づくことは出来ない。

 

そうして歩み続けた果てに、誰もが夢見た理想は叶えられる……かもしれない。

今はまだ、不確かな道のりだけど、罪という道標を頼りに理想を追う年月を重ねていく*20

HFで衛宮士郎が願ったのは、桜との約束。

そこに至るまでに、多くのものを犠牲にして、いくつもの罪を背負った。それらは決して消え去ることはない。衛宮士郎は永遠に償い続けていくだろう。

けれどあのラストシーンは、不完全ながらもささやかで、そして誰もが願った叶うはずのない理想郷だったはずだ。

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さあ。

それじゃあ今年も、約束の花を見に行こう———

 

 

 

 

いつかした桜の約束。

遠く響く剣戟の音。

剣を抜いた彼女の姿。

———間違いなんかじゃ、ないんだから。

紡がれる思いこそ、重ねた年月こそ確かな力を持つ。

それは未だ影さえ掴めぬ全て遠き理想郷。

たが、そこを目指し続ければ、いずれはきっと。

所感

誰もが願ったモノがあったとして、それが例えどれだけ正しくとも美しくとも、理想である以上奇蹟でもない限りその「結果」は得られないのです。逆説的な話ですが、叶えられないからこその理想なのですからね。

じゃあ「結果」がなければ目指し続けた時間に意味はないのかと問われれば、決してそんなことなくて。むしろ理想を目指す「過程」自体が、人生を認める理由になるし、罪に対しての贖いになるかもしれない。

今はまだ「全て遠き理想郷」だけど、きっといつか———

というお話でした。

 

きのこの凄いところはこういう物語の核に、世界観を上手くはめ込むところというか。魔術の設定とかは前々からあったはずなのに、Fateのためだけに考えられたのか?と思うほど綺麗にまとまってるんですよね。

後は、決してテーマを小出しにしていない部分とか。例えば、HFの批評って実はそのまんまFateルートでも同じこと言えるんですよ(もちろんUBWでも)。全体テーマのどの分を強く出すか(Fateなら罪を理想で贖うところ。UBWなら理想は間違っていないところ。HFは理想を追い続けるところ)が変わっているだけで本質は変わらない。

ただ一方で、FateUBWだけではなんとなく物語の全体構造が見えにくい。ここらへん、聖杯戦争の設定とも上手くリンクしているのですが、2週目をプレイすると「おや?」となるのは名作共通ですよねぇ。

ただそのレベルのものをこの分量でやり切ってしまうのが、本当にすごいというか…。初回プレイ時(PS2版)は70時間くらいかかってましたけど、未だにこれを超える純ノベルゲーはないですね。

 

初めの方でも言ってますが、今回の批評の基本的な骨子は(今はネットに無いと思いますが)のりさんの「Fate 批評」を基にしています。

なので今回は、「サクラノ詩」とはまた違った難しさがあったというか……。見出したテーマをどうやって説明するか、ではなく、受け取ったテーマを自分なりにどういう風に分配するか、みたいな部分で悩みました。ここらへん、結構苦手分野なんだな、という事が分かったので次回への課題ですね。いえまぁ次回があればですが。

 

いやー、しかしHF映画第三章が延期したことで批評が間に合ってしまうとは…。マジで何があるか分からないですね。皆さんが映画を見るときに、この批評を参考にして「あ、この風は士郎にとっての罪のメタファーなのか…」とか思ってくれれば幸いです。

ライダーに「シロウ」呼びされて、セイバーを思い出しちゃうから呼び方変えてくれって言う士郎とか入れてくれるのかな…。あそこめっちゃ好きなんだけど、どうかな(尺的に厳しいか?)。

 

まぁ、そんなこんなで。FateFate批評に人生を狂わされたオタクによる長文がアナタに何かを残せれば幸いです。

お気に入りキャラは全員。けど一人選べと言われたら……。うーん、男性なら士郎で、女性なら桜かなぁ。

昔は凛派だったんだけど、テーマを理解するうちに桜の痛みが分かってしまって。こういう「俺が絶対守る…!」系のキャラに弱いんだよなぁ。

 

(終わり)

*1:ちなみに僕は空の境界でオタクになっているのできのこにはもっと人生を狂わされている。

*2:こはちょっと引っ掛かりやすい部分なので一応補足。アーチャーが誰も救えなかったのではなく、アーチャーが信じていた「正義の味方」では誰も救えなかった(救うべきか定まらなかった)、という事。

*3:なぜ切嗣が「多数」を正義としたのかはZero参照

*4:僕はサッカー選手が嫌いなのではないので誤解なきように。別に好きでもないですが

*5:絵ヘタ選手権優勝者

*6:調べれば分かることですが、一応解説。射法八節とは和弓を引く基本にしてマスターできない射法の一連動作を指します。動作としては足踏み、胴造り、弓構え、打起こし、引き分け、会、離れ、残心。ここでちょっと憶えておいてほしいのが「離れ」の定義です。「離れ」とは文字通り矢が弓から離れる(矢が放たれる)動作を指すのですが、この「離れ」は自ら離すのでも勝手に離されるのでもない、ということです。何言ってるんだ…となるのは皆さんそうだと思いますが、つまりコレは離すという『我』を無くし、離されるという『外界』を無くすことなんです。仏教における諸法無我諸行無常ですね。いえ、強引な解釈ではなく次節の伏線ですので!

*7:あったとしても人とは異なる物であり、決して人が推し量れるものではない

*8:もっと分かりやすい例えは、ベジタリアンかもしれない。動物を肥やし殺すことの善悪は決して人間だけで計れるものではない。だが、それを「悪」と思い「罪」として認識してしまう人たちがいる。それは別に悪いことではない。何を善とし、何を悪とするかは人によって違うからだ。僕ですか?僕の今日の晩御飯は鳥肉のステーキですが…

*9:「罪」は生あるモノにしか背負えない。だから「生まれ出でぬモノに罪科は問え」ない。そして善悪も罪罰もそのモノ自身にしか背負えない。だから言峰はアンリマユを孵そうとする。言峰の言う通り、生誕に善悪はないのだ。善悪も罪罰も自身が決めて背負わなくてはならないのだから。

*10:そして、その罪を理解しやすいサーヴァント、つまり純正の英雄こそ泥に犯されやすい。一方で、反英雄は罪を感じにくいからこそ泥に犯されにくい。ギルガメッシュが泥を飲み干せたのは、初めからその罪をすべて背負っていた(正確には、その罪を背負えるほどの強大な自我を持っていた)からだ。

*11:注釈6の続き。自己がないからこそ辿り着ける場所、それこそが『無我の境地』だ。これは武道が目指す一つの到達点であり、だから衛宮士郎弓道において達人級の腕前を持っている。衛宮士郎には射法を崩す自己がないのだ。

*12:アニメ版UBWを思い出して頂きたい(Ufoの方)。衛宮士郎が自身の願いの始まりを思い出すと同時にアヴァロンが発動する。彼にとって正義の味方とアヴァロンはイコールで繋がれるものなのだ。

*13:もちろん、あの殺人は間桐桜の意志ではない、という意見はあるだろう。僕もそう思うが、問題なのは「間桐桜自身がどう思うか」なのだ。あの殺人を他人のせいにできるなら間桐桜に罪はないし、自身のせいだと思うのなら罪を背負わなくてはならない。罪とは「罪悪感」そのものなのだから。

*14:黒化した桜の姿は泥でその身を覆いつくしている。衛宮士郎が内側から剣に食い破られるのが罰のメタファーならば、間桐桜が泥に覆われるのは罰から自身を守る檻のメタファーと言っていいだろう。さらに言えば、普段の立ち絵が手を前に組むという身を守るクセなのに対し、黒化した桜はそれを解く。体により近い部分で自信を守る盾があるからこそ、間桐桜はより攻撃的になれるのだ。

*15:そして衛宮士郎にとって

*16:余談ではあるけど「魔法」がこの世にある理由は、そういう他者を対象にした叶えられるはずのない理想のために生まれているのかもしれない。例えば第三魔法は「この世の悪の根絶のため」だし、第五魔法もその発動は「死を先延ばしにする」ために発動した。そういう観点からみると、第六魔法が「みんなが幸せになる」というモノだと噂されているのもわりとうなずける。そしてそれはこの世に在らざる理想/奇蹟だからこそ、抑止力に阻まれるのだ。

*17:ただ、夢を実現できなくても認められるものはあるよね、ってのが「投影魔術」の話であり、UBWの話でした

*18:別に言峰綺礼を出さなくても、同じ人を好きになって、二人ともその人の唯一になりたい、とか…。矛盾する幸せはいくらでもこの世にあふれてる

*19:のり氏曰く「どれだけ仕方ないことでも「この戦争は正義だ!」とか言い張ってる限り戦争はなくならないのである。だって本当に「正義の戦争」だと思ってしまったら罪悪感など感じなくなってしまうんだから」とのこと。相変わらず良い例えです…。

*20:そして年月を重ねる事こそ、確かな力となる。神秘の話を例にしよう。型月世界では年月の経った品物こそ強い力を持つ。あれはただ古いものが強い、という話ではない。古いものが今まで持ち続けた「想い」こそ力を持つのだ。長く続いた魔術回路同様、紡がれ続けた想いは確かな力を持つ。