古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

Re:批評と云う名の呪術/テーマという御伽話

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呪いというのは、この世に本当にあるものなのか?

 

呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。プラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪いという。呪いは言葉だ。文化だ。

 

――関口、京極堂 (京極夏彦著『姑獲鳥の夏』)

 

 

「批評と云う名の呪術」というのは、僕が尊敬し、このブログを始める契機にもなったのりさんによるブログ、「臥猫堂」に掲載されていたコラムの一つであります。

この「臥猫堂」はかつてNiftyのブログで運営されていたのですが、この間このNifty自体が閉鎖し、ブログをみることができなくなってしまいました。(のりさんはブログをHatenaの方に移したのですが、移転作業を途中でやめてしまいました)

なので、ということでもないのですが、僕が感銘を受けたコラムを自分なりに再構築してみようかなというわけです。それに加え、僕なりの「作品論」というものを話せればな、という回です。

 

さらに、今回の記事で、僕が以前友人に言われた「作品に伝えたいテーマがあるなら、それを作品に込めずそのテーマをそのまま言えば良いのではないか?」という問いの回答が出来ればな、と思います。まぁその友人は覚えてないし見てもないでしょうけど、こういうのは自分の気分ですよね。という感じで。

 

サクラノ詩』、『あけいろ怪奇譚』で同じような話してるんですけど、まぁ気にしない方向で。

 

 

―――批評とは何か

 

各人、「批評」というものに対してそれぞれ答えはあると思うが、僕はそれに対し「価値を与えるもの」という定義をしたい。

 

「価値」とは、すなわちラベルのようなものだ。それは幻想にすぎないけど、多くの人がそれを引き受けた(受け入れる)時、「価値」はキチンと力を持つ。この例えでよく使われるのは金銭だろう。硬貨や紙幣はただの金属や紙だけど、みんながルールを引き受けるからこそ、多くの商品を購入することなどが出来る。ただの金属や紙が「価値」という力を持つのだ。

作品とは即ちただの金属や紙にすぎない。それだけでは力を持たない。それに「価値」を与えるのは「批評」であり、文化という名のルールだ。

 

 

では、「批評」とはどこからどこまでを指すのか。「価値を与える」とはどのようなものなのか。

 

賛否両論あると思うが、僕は「何かを思う(感じる)こと」は全て「批評」であると言いたい。感想、批判、紹介、ジャンル分け…こうした作品に対し何かすること自体がすべて「批評」でないかと考えるのだ。

「価値」とは、決して明言化できるものだけではない。面白い、楽しい、悲しい、つまらない、そうした感情から、クオリアのような言語化できない質感まで、その人の世界の中では「価値」と成りうる。(それが他の人に理解されるかは別だが)

ゆえにこそ、「価値を与える」という「批評」は「何かを思う(感じる)こと」すべてとなるのだ。

 

「価値を与える」こと。それは「批評」であり、言葉であり、文化であり、京極堂に言わせれば「呪術」だ。だからこそ、批評は呪術足り得る。「価値を与え」、人に作用するもの。これがマイナスに作用すれば「呪い」であり、プラスに作用すれば「祝い」となる。(つまり、生物活性物質における薬と毒の違いのようなものだ。人を害すれば毒であり、人に利すれば薬となる)

 

僕らはみんな、呪われている

みんな僕らに、呪われている

――るいは智を呼ぶ

 

「批評」とは即ち呪術だ。作品の価値を最大限に引き出し「祝い」とすることも出来れば、作品をこれでもかというほどこき下ろし「呪い」とすることも出来る。

世に出ているすべての作品を祝えるとは思えないけど、その一つでも多くの「呪術」があなたを祝うように、今日も僕はみんなを呪い続けよう。

…ちょっとポエマーすぎますかね?

(まぁ、わりとどうしようもない作品というのはある。正確に言えば駄作というのは多くの人が「面白くない」という価値しか見出だせないものなのだが。あの『LAMUNATION!』だって面白いという人はいるのだ。僕は結構駄作の部類でないかと思うけど)

 

 

 

―――テーマとは、この世に本当にあるものなのか?

 

作品を評価する上で、一つの目安として「テーマ」というものがあると思う。

例えば「生とは何か」とか「恋をすること」とか。僕が今までしてきた批評作品から引っ張ってくるなら「理不尽に抗うこと」とか、「思いが持つ力」とかそういうものだってあるだろう。

作品を作る側が「◯◯というテーマで作りました!(◯◯という思いを込めました!)」ということを言っても誰も疑問に思わないように、作品におけるテーマとは歯車の一つのように認識されていると思う。

一方、テーマのない作品(いわゆる日常系作品など)はその点で低評価となっている。というよりテーマ性そのものを有するか否かが「低俗・高尚」の分水嶺になっているように感じる。

低俗・高尚とするのはそれぞれの勝手だし、僕も口を挟む気はない(それも価値の一つだからだ)。しかし、テーマがないからといって作品の価値自体が低いわけでない、という事はしっかりと声を大にして言いたい。

 

そもそもテーマとは、明言化できる「作品の価値」だ。

作品の一部として分かりやすく言葉にできるものが「テーマ」であって、決して逆ではない。テーマとは作品ありきなのだ。

 

作品(わかりやすくするためにここでは物語の意味で使う)をプレイする時、我々はその作品を「体験」する。*1その「体験」の中でわかりやすく言葉にできることこそが「テーマ」だ。

だから、「テーマ」を語ることは作品を語ることに成り得るが、その「テーマ」が力を持つのは作品という「体験」あってこそなのだ。(素晴らしい批評作品においては批評作品そのものが物語となる場合もあるがそれはおいておいて)「テーマ」のみを語っても意味がない。作品を作る意味は此処に在る。作品は「体験」のために作られる。決して「テーマ」のためだけに作られるわけではないのだ。

 

作品は、何のために生まれたのか、それさえ見誤らなければ大丈夫だってな

今、俺も同じ思いだ。あの作品が何故生まれたのか、見誤らなければ問題ない

――サクラノ詩

 

作品を語る時、どうしても「テーマ」というものを重視してしまう。勿論僕もそういうものを言葉にしてブログに載せてるのだから偉そうなことは言えないのだが、テーマ性なるものがないからといって作品として低価値ではないのだ。日常系作品や女の子とただイチャイチャして癒される作品があれば、それは「癒やし」としての力を持つ。そのことは十分に作品を評価するべき価値足り得るのだ。

*1:物語とは「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という話型でできているといった作家がいたが、それに近い(もちろん物語の話型はそれだけではないが)