――もう二度と、大切なものを見失わない
ブランド:ウグイスカグラ
シナリオ:ルクル
公式サイト:冥契のルペルカリア
お久しぶりという言葉すらお久しぶりですね。お久しぶりです。
今に始まったことではないのですが、お気に入りのメーカーが次々と終わっていく中、好きな作品を作ってくれるメーカーというものは本当に得難いものですね。
ウグイスカグラはその中の一つで、なんとコンシューマー版の発売も決定したとか…。来るぞ、ウグイスカグラの時代が…!
しかし、今作は『演劇』という非常に難しいテーマを選んでいて、万人受けはどうかなぁ…個人的にはパラレロの方が受けやすいと思うのですが、次のコンシューマーに期待ですね。
どんな形であれ、門戸が広がるのは良いことです。
そんなルペルカリア、感じたテーマは虚構と幸福。
3ヶ月に渡る旅路の振り返りを、どうか語らせてくださいな。
以下、ネタバレ注意で。
演劇の本質
演劇の主役は観客だ。彼らにどのような爪痕を残すか。
演劇で問われるのは、この一点に尽きる
だから、役者がすべてを支配しちゃ駄目なんだ。
舞台には、調和と狂気がバランスよく存在しなければならない
―――環
そもそも、なぜ『演劇』という芸術が成り立つのだろうか?
例えば小説を考えてみよう。私達がそれを好むのは結末やその過程がわからないからだ。
知らないから知りたいと思える。読み終えた本をもう一度開くのは、追想と呼ばれるものにすぎない。同じ音楽を何度も聞くように、それは変わらないからこそ価値がある。*1
一方で『演劇』はそうではない。大きな物語は変わらないが演出や役者によって違いが出る。それはやり直せないからこそ公演毎の唯一性が出る。
大きな物語のみが芸術としての価値を有するのなら、まったく『演劇』に価値などなくなってしまう。しかし現実として『演劇』は芸術として認められ成り立っている。
ならば、『演劇』を芸術たらしめるものは大きな物語などではなく、変わりゆく(唯一性がある)演出や役者そのものなのだ。
だからこそ、同じ原作を用いても、生み出される演劇は千差万別なのだ。
―――環
その変わりゆくものは、突き詰めていけば物語に対する劇団の批評と言える。
例えばカリギュラを題材にした劇があったとして、それは悲劇として描かれているだろうか?それとも喜劇?カリギュラは妹であるドリジュラを異性として愛していたのか?妹として…?等々。
文字として起こされたものを舞台で演じる上で、そういった認識の了解が無ければならない。そうでなかったら公演はチグハグなものになってしまうだろう。
ゆえにこそ、『演劇』の主役は観客なのだ。
観客は舞台を通じて、物語に対する劇団の批評(思い)を受け取る。そしてその解釈は自由でなければならない(それを認められないのなら、『演劇』そのものが成り立たなくなってしまうからだ)。支配的な演技は解釈を強要するのだから、演技として至上であっても『演劇』としては不十分だろう。
『演劇』とは、劇団員すべての了解であり、劇団による観客への問いかけに他ならない。その2つこそが、『演劇』を芸術たらしめる本質なのだ。
俺の劇に出る以上、誰かの模倣は許さない。
お前が表現するのは、心に投影した、お前自身の答えじゃなきゃ駄目なんだ
―――環
演技の真実
でも、瀬和くんは知っている。
願いに縋って、成り切って、虚構を作り上げるものの存在を。
人間は、生きているだけで役者なのだから
―――理世
かつて劇作家であるシェイクスピアは、その作品の中で「この世は舞台、人はみな役者だ」と語った。
同じように、劇団ランビリスの彼らも舞台の上で『演技』を繰り返していた。
不都合な現実から目を逸らし、夢のような虚構に身を委ねながら。
多くは語らないが、誰だって自分にとって都合のいい世界の見方をしている。それがたまさか衝突しないからこそ、私たちは周りの人間と折り合いがつけられ、そこそこの人生を歩める。
だが、それは果たして『演技』なのだろうか?
『演技』とは、つまり演じることだ。役柄を全うし、役割として動くこと。
役があり、それを演じる上で自分というものは欠かせないのだ。当たり前の話だが『演技』とは誰かのように振る舞うことであっても、誰かに成ることではない。
『演劇』で語ったように、そこに自分がいなければ、それは『演技』ではなく役そのものになるだろう。
逃げることが本当に悪いことなの?
自分なりに生きようとした結果なら、仕方ないことだってあるはずなのに。
……向き合うことが、本当に大切なのかしら
―――めぐり
逃げることは決して悪いことではない。不条理から目を逸らして、辛かった出来事をなかったように振る舞って、安寧を語るのは私達の日常だ。
私達が役者と呼ばれるのはそのためだろう。何事もなかったように振る舞う『演技』は、あの月をいずれ心の片隅に追いやってしまう。
けれど、その事実を忘れてはならない。私たちは『演技』をしているのだ。そう振る舞っているだけで、決して役そのものになってはならない。
そうじゃなかったら消えてしまう。痛みと不条理の中にあった、あの一夜の思い出も。
……愛するものは、みんな消えてしまった。
信じるものは、救われない。
この世にあるのは、抗えない絶望ばかりだ。
終わらない苦しみが、僕の魂を焼き尽くしていく
それでも僕は、君を恨むことはないよ。
あの日、君が僕にくれた優しさは……あらゆるすべての暴力にだって、壊されることはないのだから
―――めぐり
覆せない不条理を前にして、時に人は役そのものになってしまう。
けれど、誰かの支えがある時、解釈という武器を持って不条理に向き合えるようになる。それをもってようやく、人は『演技』することができるのだ。
人生はまさしく舞台の上の一幕だ。時に『演技』ができないほどの展開を、私たちの劇団員は現実だったと優しく教えてくれる。それを言い換えるのならまさに―――
「来々さんにとって……劇団ランビリスは、どんな場所ですか?」
「何だ、その質問は」
みんなに、問いかけたかった。
だけど、答えが少し、怖かったから。
「――支え合うことでしか生きていけない、クソゴミの掃き溜め」
最も優しい人に、聞いてみたの。
「つまりはそれを、家族って言うんだろ」
「はい、私も心からそう思います」
そう思えることが、ほんとうの幸いなのでしょう。
所感
演劇を主題とした物語は実は初で、そういった意味でも深く考えさせられる物語でした。今回は演劇をメインとして語りましたが、不条理や近親相姦(同性愛)などに主眼を置いてみても面白いかもしれません。
というか僕はルクルがそこまで妹好きとは思わなかったのですが、たしかに言われてみれば1作目から妹キャラは皆勤賞でしたね…。いや、あれはエロゲ文脈にわざわざ合わせたのかと…。
「紙の上の魔法使い」をセルフオマージュしながらキチンと作り上げていくのは、やはりさすがという感じです。僕はこういうのが確かに好きなのですが、今回も3ヶ月位かかったので、次はパラレロくらいの軽さでどうでしょうか…?ついでに姉キャラも。
(僕はあれ結構好きなのですが、評判はあまり良くないという…)
久々にこういう記事を書くので詰まるかなー、と思っていたのですが意外とすんなり。好きな話はとても書きやすいですね。
一つ一つの言葉が重く、深海を潜っていくような物語でした。
ただ苦しいだけでなく、色々なキャラに共感しながら連れて行ってもらった地平は、本当に美しい景色でした。次の作品が本当に楽しみです。
お気に入りキャラは双葉、めぐり、菜々菜、来々さん。
めぐりはキャラとして強すぎる(一人だけ主人公をシラフで攻略してる)し、来々さんはキャラが強すぎる(僕が純真なヤンキーに弱い)。
けれども、演劇にはその友情と、集団的な冒険がいまだに残っています。
私にはそれが必要です。
それが、人が孤独ではなく生きることのできるもっとも心暖まる方法の一つだからです。