日記ってのは毎日やるから日記なんですよ!!
という話はおいておいて、今回は『P5』と『エルメロイⅡ世の事件簿』、それに『大迷宮&大迷惑』について。
ノベルゲーとかもやってないわけじゃないんだけど、最近批評作品を作る熱意みたいなのがなぁ…。とりあえず「ユメミルクスリ」とか「シンソウノイズ」とかで作れればいいなぁみたいな。
というわけでネタバレ注意。
ペルソナ5
邪悪であれ
――ギャングスタ・リパブリカ
一応ペルソナシリーズは3からやってるんだけど、一口にペルソナシリーズって言ってもまとめられないものなのかもしれないなぁとか思ってしまった。
ペルソナ3では、銃の形をした召喚器を自分の頭に撃ち抜くことでペルソナを発現させていた。4では眼鏡がないと何も見えない霧の世界の中で、カードを破壊することでペルソナを発現させていた。
広く知られていることだけど、3のテーマは「メメント・モリ」という「死に向き合うこと」あるいは「生に向き合うこと」だ。だから、召喚器を用いてまるで自殺する様は、「死に向き合うこと」のきれいなモチーフなのだな。(ゆかりっちは最初の最初で向き合えなくてペルソナが召喚できなかった)
対して4のテーマは「真実を追うこと」あるいは「真実を見極めること」だ。霧というモヤがかった世界で、物事を正しく見ようとする意志を持って「メガネをかける」。番長の召喚方法はカードを手で握りつぶしているけど、あれって真実を掴むっていうことへのメタファーなんだろうな。
で、今作のペルソナ5のテーマを考えていくと「自らを貫け」ってとこだろうか。
人は、縛られる生き物だ。
今作においてその縛りは「鎖」として表現され、僕なりの言葉で言えばその鎖は「共同体への帰属」とも言いかえられる。
自らの欲望に溺れ、他人を他人と思わない人間であるパレスの主たちは「鎖から解き放たれた住人」らしい。つまり、行き過ぎた個人主義というか利己主義というか、まぁようするに社会的倫理を失ってしまった(あるいは捨ててしまった)人達なのだな。
主人公たち怪盗団はこれに憤り「心を盗む」(欲望を失わさせる)ことで、多くの問題を解決してきた。まぁここらへんは手放しに褒められる部分ではないんだけど、その人の良心に語りかけていたと取ればいいのだろう。
しかし、倫理観を取り戻させたことが決して良い方向に働くわけではなかった。
人は縛られる生き物だと先に言ったが、怪盗団は最終ダンジョンで「人は縛られることを望んでいる」のだと告げられる。社会的倫理感とは「自分はよくわからないが、みんなが悪いと言っているのなら悪いことなのだ」という意識も持ち合わせてしまっていたのだ。考えることはめんどくさくて、自分が責任を背負うのは嫌で、「みんな」に責任転嫁をしてしまえば楽で…。だから自分たちの思い通りに行かない(娯楽を提供してくれない)怪盗団なんていなくなればいい、いや、「見えなくなってしまえばいい」。ついに人々は「見たくないものから目をそらして」しまったのだ。
そして怪盗団の仲間たちは檻の中に閉じ込められてしまう。言わばこれは共同体への帰属意識があるがゆえの絶望と言っていい。社会的倫理を守ってきた(と信じていた)彼らにとって人々から見放されたことは「お前たちはどうしようもない悪だ」と断罪されたようなものなのだ。(喩えるなら村八分のようなものだな)
さて、そうした人々が望んだ「みんな」というのが、今作のラスボスである「神」だ。
そうした神に、主人公によって立ち直ることが出来た怪盗団達は歯向かっていく。その姿を見て人々は自らが手放した「自分」というものを目覚めさせていく。つまり、「ペルソナ」を剥ぎ取っていくのだ。
Wikiから引用するが、「ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである」なのだそうな。分かりやすく噛み砕けば「自分と乖離してしまった自分」というところだろうか。
政治、あるいは「みんな」という意識は、鎖や仮面となって人々から離れない。だけど、主人公達怪盗団はそういう「みんな」や「強いもの」に虐げられた弱者だ。だからこそ彼らは、そういう「社会的倫理」に抗っていく。仮面を取ってペルソナを発現させる事は、ある意味ペルソナシリーズで最もきれいなメタファーなのだな。
悪は人々の共感を得られないかもしれない。
しかし、だからこそできることがある。共感の制約を受けることなく、人の運命に介入できるからだ。世界の唯一の敵である悪だからこそ、世界の意に反して世界を変えることができるんだ。
――ギャングスタ・リパブリカ
怪盗団は、決して正義ではない。大衆の声に答えようとする正義では、鎖に縛られたままなのだ。
だからこそ、悪である怪盗団は、自分たちらしく在り続けるのだろう。
ロード・エルメロイⅡ世の事件簿
実のところ、科学が偉大になればなるほど、それだけ神秘の感覚は深まる
――強い意見 (ウラジミール・ナボコフ)
「――――魔術について、考えたことはあるだろうか」
魔術とは、文明と相対する一つの文化だ。
文明が明かされ解体することで得られる人々の研鑽なら、魔術とは神秘を維持し語られないからこそ力を持つものだ。
勿論、魔術というのは御伽話の中だけで力を持つわけではない。魔術や魔法、呪術に宗教など言い方は様々だが、それはたしかに我々の世界に息づいている。
充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。
例えば、今いる世界の機械機器を一つでも未開の土地の住人に見せてみればいい。おそらく彼らはそれを「魔法」のように思うことだろう。ともすれば、それを操ってみせるあなたは見事な「魔法使い」となるのだ。
詭弁を言うなと思うなかれ。それこそが「魔法」の仕組みだ。
持っていった機械の仕組みを彼らに説明しても、彼らにとってそれが魔法であることは揺らがないだろう。僕らが「ミノフスキー粒子」なんてものを持ち出されても「いやいや、そんなのありえないでしょ」と言ってしまうように、彼らにとっても機械の仕組みなど「神秘」に違いないのだ。
魔法(魔術)とは「もう一つのルール(理)」だ。
もちろん、元の一つは「文明」だ。文明の中に生きる者にとっての「常識」とか「知識」こそが、「文明」のルールを形作る。だからこそ、そこから逸脱したものはどれだけ我々にとって当り前のことでも「魔法」であり、そのルールの中では我々にとってどれだけ滑稽であっても「文明」なのだ。
だからこそ、魔術とは文明と相対するものとなる。
文明が明かされることによって恩恵が得られるのなら、魔術は秘匿されることによって恩恵が得られるのだ。
ロード・エルメロイⅡ世はある意味でこの話を象徴するようなキャラクターでもある。
神秘を至上とする魔術において、解体することはその魔術を殺すことに等しい。なぜなら解体することは文明の特権だからだ。だからこそロード・エルメロイⅡ世は解体することで(観察することで)弟子たちを育てることができるが、自らの魔術を伸ばすことは出来ない。
それは魔術回路や生まれついての才能としてではなく、彼の在り方そのものが魔術と相容れないものだからだ。
彼は「解体するもの」だ。そして「魔術」と「文明」の二つを彼の中で了解してしまっている。「魔術」の効きというのは、どれだけそれを無垢に信じられるかによって決まる。現代に生きる我々に「自然発火現象」とか「幽霊」とか「サンタさん」とか、そういう神秘の存在を信じさせようとしても難しいように、ロード・エルメロイⅡ世もまた「文明」を知ってしまっている(了解している)がゆえに「魔術」を信じ切ることが出来ないのだ。
ともあれ、アンチミステリー(それともこれは正統派ミステリーなのか?)として十分に面白い作品だと思う。レンタルマギカ時代から思ってたけど三田さんって魔術系の知識すごいよなぁ。5巻が楽しみ
大迷宮&大迷惑
金銀財宝!金銀財宝!
ダンジョン!!
ノリと勢いとTRPGとか好きすぎて作っちゃいましたみたいな作品。
いや、うん、めちゃくちゃおもしろかったんだけど、エンターテインメント性極振りみたいな作品だから特に言うこともないかなぁ。
何を隠そう自分、この主人公の声を担当されてる「やじまのぼる」さんの大ファンでありまして。ハロー・レディで知ったんだけど、すごいカッコいい声してるよなぁ。男性声優さんなのにこんなにハマったのって久々かも。
文章のクセがすごいのと主人公の声で買ったけどいい買い物だった。なんかこういう何も考えずにバーッと進めてくれる作品はなかなか稀有かもしれない。これからもこういう作品を買っていきたいなぁ。
(終わり)