古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

ネットの世界を現実に持ち込むということ

 

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最近、色々なオタク文化をテレビや町中で見るようになった。

年末年始なんか、紅白の小林幸子さんとか初音ミクの曲を歌ったり、ラブライブが出演してたりなんかと大騒ぎだ。他にも、ニュース番組でツイッターの話題を取り上げたり、一昔前なんかは「電車男」というネットの某掲示板(2chだな)での顛末をドラマ化までしてたりしてた。

まぁ、これを一概に良い悪いの話にするのはいささか問題があるのだけど、しかしこれに対して嫌な感情を持つ自分がいることは否定出来ない。

 

僕がオタクになり始めた頃、ちょっと興味本位で2chを覗いたり、ニコニコ動画なんかにコメントを打って楽しい!とかそういう半分黒歴史みたいなこと(これも黒歴史みたいな所あるけど)してた時、「オタクであること」は隠されるべき個人の趣味だった。時間で言えば大体10年前くらいだろうか。らき☆すたのお祭りがなかった頃とか、まぁそういう時代だな。

オタクというものが否定的だった時代から肯定的な時代に移り変わること自体に異論はない。(個人的に嫌悪感はあるけど)でも、オタクという文化を日本の「メインカルチャー」にしていいものかという懸念はある(偉そうだ)。

 

 

 

話は飛ぶけど、個人的に大人になるということは「自分の世界の中に他人がいること」だと思っている。

子供なんかは、自分の世界の中に他人があまりいないわけだ。だから、子供は結構残酷なことが出来る。イジメとか、カエルに爆竹詰めたりとか。そういう「その人の立場になったら可哀想」ということが想像できない。ようするに「他人の痛みがわからない」わけだ。ここらへんは、「他人の痛みは自分の痛みか?」みたいな話になるのだけど、そういうことを子供は実践してしまっているわけだな。

でもまぁ、そういう子供達も大人になるにつれ他人のことがわかってくる。他人から見たらどうか、もし自分が受けたらどうかなんてのは他人が自分の世界の中にいるからこそ想像できることだ。(そしてその世界の中に他人がいないのが所謂サイコパスと呼ばれる人達なのだろう)

さて、しかし世の中には往々にして中途半端な異常者が紛れ込んでいる。彼らはそういう「他人の痛み」はわかるけど、しかしその「自己」の在り方が他人を傷つけてしまう人だ。

彼らは大人だ。しかし、大人だからこそその在り方に苦しむ。

彼らは社会の中でそういう「自己」を隠して他人と生きている。そうしないと彼らは社会から弾き出されてしまうし、誰かを傷つけてしまうからだ。(ペルソナというやつだな)

 

で、基本的にオタクというやつはそういう「中途半端な異常者」の集まりだと思っている。(暴論)

いや、もちろんそんなことのない人もたくさんいるだろう。だけど、総数で言ったらそっちの方が多いように僕は思えるのだ。

これは、多分僕の見てきた世界というのがそこに起因すると思う。だって、2chとか常に罵詈雑言の嵐じゃないですか(そうじゃないのもあるけど)。最近はネット上で炎上することだって多い。僕が批評している美少女ゲームだって「これ誰が買うんだよ…」みたいな異常な作品は死ぬほど在る。しかも売れてる。

でも彼らはそういう「異常性」をきちんと理解していた。表に出さず、ネットという閉じた空間でそういう自分を出すことでうまく均衡を保ってたわけだ。

 

しかし最近、ネットの世界と現実の世界(社会)が非常に近くなってきている。

オタク文化をメインカルチャーにしようという動きは一つの結果にすぎない、と僕は思う。というのも、現実の世界のコミュニケーションにおいてもネットの世界を利用するものが多くなっていってるからだ(ツイッターとかフェイスブックとか顕著よね)。ネット用語だったものを現実に使い始めたりする人だっている。

(ここで誤解してほしくないのは「現実の世界=直接あって話す世界」では無いということだ。ここでの現実の世界とは「社会においての世界」である。オフ会とかああいうのは社会としてではなく、閉じた異常性が認められるコミュニティ内での話なわけだ。そういう人達がエロゲの話をカラオケボックスとかでしているのは別におかしくもなんともない。だけど、そういう人達がテレビの前とか、公共の場でやったらどうなのって話である。要するにあれだ、不理解者がそこにいるかどうかだな。)

 

で、これがどんな問題を引き起こすのかというと、「自己」と「社会性」のぶつかりだ。

今までの「中途半端な異常者達」が理解して、共通のコミュニティ内やネット世界でしか出していなかった「異常性」が現実に持ち込まれてしまったわけだ。

当然、そこには軋轢が生まれる。

今までひた隠しにしてきた異常性や、表に出てこなかった異常者がネットの世界と現実の世界が近しいために我々の目に強制的に触れるようになってしまったわけだ。

だから、個人的には炎上しているところなんかに人道を説いたって意味は無い。「悪いことをしている人に対しては何をしてもいいのか!」とか「そこまでする必要はないだろ!」とか非常に正しい意見を仰る人達がいるけど、しかしそれが通用するのは非常にしっかりした倫理観のある人間だけだ。異常者に正道を説いたってなんにもならない。

さて、話が逸れたが、これと同じことがオタク文化にも言える。

こういった異常性が集まるオタク文化を「メインカルチャー」に置くこと。もうこれ以上の矛盾はないだろう。異常が正常なのか、正常が異常なのかわかったもんじゃない。

(しかしオタク文化が一概に悪と言えるわけでもない。タバコや酒がストレス解消の行き先になるように、オタク文化もまた、排斥された人間が集まるセーフティーネット的な役割を担うことだってあるのだ。オタク文化に救われた人だっていっぱいいるわけだな。)

 

だからこそ僕はこう静かに叫ぶわけだ。

「僕ら(オタク)は静かに暮らしたいんだから、邪魔しないでくれ!」

ネット世界を現実に持ち込むこと、それは異常と正常という相容れないものの軋轢を生むことになっているのではないだろうか。

 

 

(ハロー・レディのなかでエルが「サブカルチャーサブカルチャーであるべき。メインカルチャーになっては、大衆の制約を受ける」みたいな話をしてたもの、こういうことなんですよ。

でもまぁ、もしかしたら「ネット世界」というのを一つの子どもとして見ることが出来るかもしれません。そういう「子供」が、多くのことを傷つけて(炎上とか罵詈雑言とか)社会を知っていく。そうやってネット世界は大人になるのかもしれませんね。

…じゃあ、隠された異常性はどこへ行くんだよって話ですけど。)

 

(終)