文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして今私が、何故私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自ら正当化する、と思われるのである。
――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年7月30日』 より
幸福とは何か、という話について。
多くの賢人がこの「幸福」について、「真実」や「善」「美」と同じくらい語ってきたと思います。しかし、どうにも僕にはしっくりこなかったといいますか。自分なりの「幸福」が長らくはっきりしなかった様に思われます。
俗物とは精神的な欲望を持たない人間である。
俗物にとっての現実の享楽は官能的な享楽だけである。
したがって牡蠣にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽を手にすることだけが人生の目的なのだ。
――ショーペンハウアー 『幸福について―人生論―』 より
ショーペンハウアーだけでなく、多くの賢人はこのような見解を示します。*1
でも、本当にそれは正しいのでしょうか?美味しいモノを食べたときに感じる幸福は、美しい人を抱いたときに感じる幸福は、美しい景色を見たときに感じる幸福は果たして別物で、その幾つかは「低俗な幸福」と分類されてしまうものなのでしょうか?
これは直感と言うか、僕の思想の基底にあるもの、あるいは信仰とよんでも良いようなものなので共感を得られないかもしれませんが、自分は「幸福」をそういうものだと信じてはいません。
自分は「幸福」とは「世界(あるいはその一部)を肯定した時に起きる副次的な感覚」だと思うのです。
美味しい食べ物を食べた時、美しい人を抱いた時、そういう「快楽による欲望」は、たしかにすぐ立ち消えてしまうものかもしれません。
しかし一瞬でも、その快楽によって「世界*2を肯定」できているのではないのでしょうか。そう考えると「生きてて良かった」と言える意味がわかる気がするのです。
世界を肯定することは、生を肯定することにほかなりません。(ウィトゲンシュタイン風に言えば『世界と生とは一つである』となるかもしれません)
そうして考えていくと、ウィトゲンシュタインの言葉は割りとスッと入ってくるような気もします。
というのも美が芸術の目的である、とするような考え方には、確かに何かが含まれているからである。
そして美とは、まさに幸福にするもののことである。
――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年10月21日』 より
美とは言わば「世界を無条件で肯定させる」ものです。美を目の前にした時、我々は語る言葉を持ちません。言葉という枠組みの外側(あるいは言葉を超越した)に「美」は存在するのです。美しさを感じる、という言葉に顕著なようにそれは「感じる」ものなのです。言葉(論理)ではなく、感情(倫理)で理解をする。だからこそ、「美」とは信仰でもあるのではないのでしょうか。
この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福であり得るのか。
――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年8月13日』
まさに、世界を肯定することによって。
総てはモノの見方次第だ、と端的に言ってしまえばそうなのですが、僕はあまりこの見方は好きじゃないです。悲劇は悲劇として、憎しみは憎しみとして、絶望は絶望としてあらねばならないと思います。悲劇を喜劇にすり替えて、憎しみを愛にすり替えて、絶望を希望にすり替えて、そうして肯定した世界に本当に彩りはあるのでしょうか?それはただ醜いものをまっすぐ見ようとしないだけではないでしょうか?
人間の世界にようこそ。もし君が皆が幸せになる世界を作りたいなら、方法は一つだ。
――――醜さを愛せ。
――古美門研介 『リーガルハイ2』 より
勿論、出来事を必要以上に悲劇に落とし込む必要はありません。ただ僕は、悲しみを、憎しみを、怒りを、絶望を否定する必要はないと思うのです。*3
これは僕の「信仰」であり、「思想」です。故に、ここに絶対的な正しさはありません。僕自身がきっとコレが正しいだろうと信じているものに過ぎません。誰かに強要するものではないし、できもしないでしょう。だからこそ、これは一つの「祈り」として、人が人として生まれ持ってきたすべてを零さぬように、世界の残酷さに屈してしまわぬように、何もかも失わず幸いでありますように。
人よ、人として、「幸福に生きよ!」
とかなんとか、そういう事を僕は思うわけです。
(終)