古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

Re:批評と云う名の呪術/テーマという御伽話

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呪いというのは、この世に本当にあるものなのか?

 

呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。プラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪いという。呪いは言葉だ。文化だ。

 

――関口、京極堂 (京極夏彦著『姑獲鳥の夏』)

 

 

「批評と云う名の呪術」というのは、僕が尊敬し、このブログを始める契機にもなったのりさんによるブログ、「臥猫堂」に掲載されていたコラムの一つであります。

この「臥猫堂」はかつてNiftyのブログで運営されていたのですが、この間このNifty自体が閉鎖し、ブログをみることができなくなってしまいました。(のりさんはブログをHatenaの方に移したのですが、移転作業を途中でやめてしまいました)

なので、ということでもないのですが、僕が感銘を受けたコラムを自分なりに再構築してみようかなというわけです。それに加え、僕なりの「作品論」というものを話せればな、という回です。

 

さらに、今回の記事で、僕が以前友人に言われた「作品に伝えたいテーマがあるなら、それを作品に込めずそのテーマをそのまま言えば良いのではないか?」という問いの回答が出来ればな、と思います。まぁその友人は覚えてないし見てもないでしょうけど、こういうのは自分の気分ですよね。という感じで。

 

サクラノ詩』、『あけいろ怪奇譚』で同じような話してるんですけど、まぁ気にしない方向で。

 

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幸福論

文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして今私が、何故私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自ら正当化する、と思われるのである。

――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年7月30日』 より

 

幸福とは何か、という話について。

多くの賢人がこの「幸福」について、「真実」や「善」「美」と同じくらい語ってきたと思います。しかし、どうにも僕にはしっくりこなかったといいますか。自分なりの「幸福」が長らくはっきりしなかった様に思われます。

 

俗物とは精神的な欲望を持たない人間である。

俗物にとっての現実の享楽は官能的な享楽だけである。

したがって牡蠣にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽を手にすることだけが人生の目的なのだ。

――ショーペンハウアー 『幸福について―人生論―』 より

 

ショーペンハウアーだけでなく、多くの賢人はこのような見解を示します。*1

でも、本当にそれは正しいのでしょうか?美味しいモノを食べたときに感じる幸福は、美しい人を抱いたときに感じる幸福は、美しい景色を見たときに感じる幸福は果たして別物で、その幾つかは「低俗な幸福」と分類されてしまうものなのでしょうか?

 

 

これは直感と言うか、僕の思想の基底にあるもの、あるいは信仰とよんでも良いようなものなので共感を得られないかもしれませんが、自分は「幸福」をそういうものだと信じてはいません。

 

自分は「幸福」とは「世界(あるいはその一部)を肯定した時に起きる副次的な感覚」だと思うのです。

 

美味しい食べ物を食べた時、美しい人を抱いた時、そういう「快楽による欲望」は、たしかにすぐ立ち消えてしまうものかもしれません。

しかし一瞬でも、その快楽によって「世界*2を肯定」できているのではないのでしょうか。そう考えると「生きてて良かった」と言える意味がわかる気がするのです。

世界を肯定することは、生を肯定することにほかなりません。(ウィトゲンシュタイン風に言えば『世界と生とは一つである』となるかもしれません)

 

 

そうして考えていくと、ウィトゲンシュタインの言葉は割りとスッと入ってくるような気もします。

というのも美が芸術の目的である、とするような考え方には、確かに何かが含まれているからである。

そして美とは、まさに幸福にするもののことである。

――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年10月21日』 より

 美とは言わば「世界を無条件で肯定させる」ものです。美を目の前にした時、我々は語る言葉を持ちません。言葉という枠組みの外側(あるいは言葉を超越した)に「美」は存在するのです。美しさを感じる、という言葉に顕著なようにそれは「感じる」ものなのです。言葉(論理)ではなく、感情(倫理)で理解をする。だからこそ、「美」とは信仰でもあるのではないのでしょうか。

 

 

 

 

 この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福であり得るのか。

――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年8月13日』 

 まさに、世界を肯定することによって。

総てはモノの見方次第だ、と端的に言ってしまえばそうなのですが、僕はあまりこの見方は好きじゃないです。悲劇は悲劇として、憎しみは憎しみとして、絶望は絶望としてあらねばならないと思います。悲劇を喜劇にすり替えて、憎しみを愛にすり替えて、絶望を希望にすり替えて、そうして肯定した世界に本当に彩りはあるのでしょうか?それはただ醜いものをまっすぐ見ようとしないだけではないでしょうか?

人間の世界にようこそ。もし君が皆が幸せになる世界を作りたいなら、方法は一つだ。

――――醜さを愛せ。

――古美門研介 『リーガルハイ2』 より

 勿論、出来事を必要以上に悲劇に落とし込む必要はありません。ただ僕は、悲しみを、憎しみを、怒りを、絶望を否定する必要はないと思うのです。*3

 

これは僕の「信仰」であり、「思想」です。故に、ここに絶対的な正しさはありません。僕自身がきっとコレが正しいだろうと信じているものに過ぎません。誰かに強要するものではないし、できもしないでしょう。だからこそ、これは一つの「祈り」として、人が人として生まれ持ってきたすべてを零さぬように、世界の残酷さに屈してしまわぬように、何もかも失わず幸いでありますように。

 

人よ、人として、「幸福に生きよ!」

 

 

とかなんとか、そういう事を僕は思うわけです。

(終)

 

 

 

 

 

 

 

*1:巷にあふれている「幸福論」とは乱雑にまとめてしまえば「幸福とは精神の発露であるがゆえに、精神の充足こそが真の幸福なのだ」ってとこでしょうか。

*2:今更ですが、ここで言う『世界』とはWorldという意味ではなく、身の回りにあるコト・モノのすべてを指します。あるいはそういったコト・モノに対する自分の見解も含まれるかもしれません。世界内のコト・モノは不変のものとしてあるわけでなく、見る人の経験・能力によってその形を変容させるものですから。

*3:誤解してほしくないのは、悲劇を悲劇のままにしておくことを良しとしているわけではないということです。何かを否定し、それを肯定できるように変えようとするのは最も尊い行為でしょう。ただ、悲劇を、絶望を見て見ぬふりをするな、と言いたいのです。

「素晴らしき日々」を再批評してみる。(5136文字)

 

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少しばかり余談というか、雑談的な話。

 

個人的には「素晴らしき日々批評」の焼き直しなのですけど、多分普通に見れば「素晴らしき日々批評」としての形ではないです。

言ってしまえば妄想に近い形の「素晴らしき日々論」みたいな。僕が僕の疑問に応えるためだけの文章です。ようするにオナニー文だ!シコシコバレリーナだ!!

 

というわけでとりあえず、素晴らしき日々のネタバレ注意。

koyayoi.hatenablog.com

前記事はこちらで。

 

そんなかんじで始めていきましょー。

 

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ネットの世界を現実に持ち込むということ

 

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最近、色々なオタク文化をテレビや町中で見るようになった。

年末年始なんか、紅白の小林幸子さんとか初音ミクの曲を歌ったり、ラブライブが出演してたりなんかと大騒ぎだ。他にも、ニュース番組でツイッターの話題を取り上げたり、一昔前なんかは「電車男」というネットの某掲示板(2chだな)での顛末をドラマ化までしてたりしてた。

まぁ、これを一概に良い悪いの話にするのはいささか問題があるのだけど、しかしこれに対して嫌な感情を持つ自分がいることは否定出来ない。

 

僕がオタクになり始めた頃、ちょっと興味本位で2chを覗いたり、ニコニコ動画なんかにコメントを打って楽しい!とかそういう半分黒歴史みたいなこと(これも黒歴史みたいな所あるけど)してた時、「オタクであること」は隠されるべき個人の趣味だった。時間で言えば大体10年前くらいだろうか。らき☆すたのお祭りがなかった頃とか、まぁそういう時代だな。

オタクというものが否定的だった時代から肯定的な時代に移り変わること自体に異論はない。(個人的に嫌悪感はあるけど)でも、オタクという文化を日本の「メインカルチャー」にしていいものかという懸念はある(偉そうだ)。

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キリスト教について僕がつらつらと話すだけの回

 

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(画像は本文と全然関係ないです)

授業で、キリスト教の礼拝を聞いてその説教内容とそれに対しての感想を書けという課題がありまして。

せっかくだし力入れて書こうぜ、と書いたのが今回載せる文章なわけであります。

一応一つの内容書くのに1時間半くらいですね。

特に脈絡もないし、多分前後関係がないとよくわからないです。それはレポートとして大丈夫なのか。

 

まぁ、メモ用に残しておくという感じですね。多分全5回か。そんくらいです。

ちなみに僕は全然キリスト教を信じてないせいで、若干のコミュニケーション齟齬が起きてます。向こうは父なる神みたいな話を出すんですけど、こっちはそういうものを前提としてないんですよね。

なんでまぁ、多分僕が言いたいこと言ってるだけっていう。まぁ、いつものやつです。

 

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フィクションは夢想か。我々が超越しなければならないものとは。 ――元長柾木氏のツイートを考える――

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あのCMを批判することと非西洋の文化を後進だ野蛮だといって改めさせる植民地主義って同根だと思うんですよね 進路が決まった女の子の笑顔をそんな簡単に否定できるの? その進路がブラック企業ならともかく、あの世界観ではそうじゃないじゃん フィクションを異文化としてきちんと受け止めようよ 

フィクションが無意味なら気遣いとか配慮とか全部無意味だって話ですよ でも違うじゃん 気遣いとか配慮が大事だって、みんなぼくたちに教育してきたじゃん じゃあなんであの子の気持ちを無視するんだよ 気遣いなんて建前ですか そうですか うわーん(T\_T)

フィクションをわれわれとは関係ない夢想だと切り捨てるなら、気遣いも思いやりも民主主義も全部不要ですよ 隣人の幸福をそんな簡単に無視できるなら、プラトンもルソーもただの道化ですよ 人類の歴史に意味なんてないですよ

規制とかの話で、現実とフィクションは別という戦術をとるのは、まあ理解できるものの、ほんとは異文化の尊重(われわれとは異なる営為で悦ぶひとがいる)ということを主張してほしいわけですよ せっかく、偉い人たちが非実在青少年の存在を認識してくれたんだから

 元長柾木氏によるこのツイートは、当時話題になったブレンディの牛を擬人化したと思われるCMを指したものだ。

このCMについては、以下のサイトが詳しい解説(考察)をしているので、それを知らない方はそちらをまず参考にして欲しい。

mistclast.hatenablog.com

さて、この一連のツイートで元長氏はどのような意図を持っていたのか?

それを、考えていこうと思う。

いわゆる元長柾木論というものにする気はないが、しかし元長氏の過去の作品(フロレアール、ギャングスタ・リパブリカ、猫撫ディストーション)のネタバレとなる話になるかもしれない。ようするにそういうものがあるということで。

 

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