古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

『素晴らしき日々』考察―この物語は、あらゆる人を救うための物語―(28438文字)

 

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・ブランド:ケロQ

・シナリオ:すかぢ

・公式サイト:http://www.keroq.co.jp/suba/index.html

 

素晴らしき日々という、ゲームがある。

2010年に発売された美少女ゲーム、所謂エロゲーと言われるものですが、これは僕の価値観を大きく変えたものでした。

 

また、この考察はウィトゲンシュタイン論理哲学論考をベースとして素晴らしき日々が成り立っている、という前提がある。

つまり、ウィトゲンシュタインの話が唐突に出てくるのだが、そこは承知でお願いしたい。

 

非常に素晴らしいのでクリアしてから見てもらえると幸いです。

というわけで、以下考察。

※12月16日「雑記(ちょっと思ったこと)」に追記しました。

 

ネタバレ注意。

 

終ノ空

作中で何度も語られる「終ノ空」。

では、この「終ノ空」とは一体何を指しているのだろうか。

「そう・・空に・・還す・・その宇宙の名は・・」

「世界の限界・・最果ての空・・終ノ空

「そう・・終ノ空に至るんだ・・」

ー彩名、卓司(2章)

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 「終ノ空」とは、つまりは世界の限界なのである。

では、世界の限界とはなんであるのか

由岐……俺はたまにこんな事を考えるんだ
世界の限界って何処なんだろう……
世界のさ……世界の果てのもっともっと果て……
そんな場所があったとして……
もし仮に俺がその場所に立つ事が出来たとして……
やっぱり俺は普段通りにその果ての風景を見る事が出来るのかな?なんてさ……
これが当たり前って考えるって……なんか変だと思うだろ?
だって其処は世界の果てなんだ
世界の限界なんだぜ
もしそれを俺は見る事が出来るなら……世界の限界って……俺の限界と同義にならないか?
だって、そこから見える世界は……俺が見ている……俺の世界じゃないか
世界の限界は……俺の限界という事になるんだよ
世界は俺が見て触って、そして感じたもの
だとしたら、世界って何なんだろう
世界と俺の違いって何だろう……って
あるのか?
世界と俺に差
だから言う
俺と世界に違いなんてない……
そう俺は確信した

ー皆守(序章)

世界の限界とは、私の限界であると、序文で皆守は述べる

堂々巡りな気がするが、では、私の限界とはなんだろうか。

私の限界とはつまり私が思考できるすべてのこと、に他ならない。

私が思考できること、それは現実に即していようがいまいが関係ない。

「思考できるか」とは「想像できるか」の様に捉えられ、つまり「犬が地上を歩く(現実に即している)」や「犬が空中を歩く(現実に即していていない)」が思考できること、世界の限界より内側のことであり、「犬は犬である(無意味、トートロジー)」や「犬は猫である(矛盾)」は思考できないこと、つまり世界の限界より外側なのである。

よって、世界の限界とは「思考できる」ことと「思考できないこと」の境界線であるのだ。

「語りうる世界は明晰に。 
すべては解けてしまえばつまらない答え。
つまらない日常。
でもそれが全てじゃない。
沈黙せざるを得ない場所。そういう場所がある。
この境界線は、そういう場所
ここでは言葉が世界になり世界が言葉になる」

ー彩名(2章)

しかし、語りえぬもの、それに対しては、我々は沈黙せざる得ないのだ。

七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない 。

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

 

救世主が目指したもの

この作品において、救世主、間宮卓司はカルト的行動に走った。

彼の目的は、人々を「空に還す」ことであった。

では何故、彼はあのような行動をしたのか。

一見不思議に見えるかもしれないが、それは彼が「人々を救おうとした」からに他ならないのだ。

人類の不安を取り除かなければならない・・。

不安を取り除く・・。

ー卓司(2章)

 彼の言う「不安」とは一体なんだろうか。

それは「死への不安」に他ならない。

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「死とはヘルが扱うもの・・ヘルが導くものでしかない

ヘルとは何か?

これこそ、存在の不安である!

生への不安、それこそがヘルの正体である」

「死を殊更避ける必要など無い!

死は受け入れるべきなのである!」

「それは、ヨルムンガンドが宇宙の果てで出会った自らの尾を噛んだ瞬間において・・

それは無限・・

その宇宙の果て・・ヨルムンガンドの顔を尾が出会う場所・・

その最果てこそ・・その最果ての空こそ・・我々が還るべき場所・・

その地点にある者だけが、新たなる世界でのやり直しを許される・・再生を許される・・

最果ての空・・それこそが・・すべてが終える空・・終ノ空!」

ー卓司(2章)

 彼は言う「死は受け入れるべきである」と。

そもそも死の恐怖というのは、自己の消失の恐怖にほかならない。

このように想像したことはないだろうか。

もし私が死んだら「私」はどこに行くのだろうか?

天国?地獄?いや、どこにも行かずにただ消えるのではないか?

死を想像するのは・・痛みを想像することでしか無い・・

それ以外・・いかにも高尚な死の恐怖ほど・・低俗な恐怖・・

自己の消失に対する恐怖などは・・あまりに人間的な低俗な恐怖・・

でもお母さんは言ったはず・・

貨幣を低俗としないのなら、それも低俗とはいえない

自己消失の恐怖は、貨幣が貨幣として成り立っていることと変わらない不可思議と同じ・・

先送りにされた価値としての貨幣・・先送りにされた恐怖としての死

それと同じように・・死の恐怖は、妄言でありながら・・人々が生き続ける限り・・つきまとう・・

 まるで耳元でささやく天使のように・・

ー彩名(2章)

 それは人間的な低俗な恐怖であろう。

だがしかし、我々が人間であるかぎり逃れ得ぬ恐怖でもある。

「死の恐怖」つまりは「自己消失の恐怖」だが、これを人類から取り除くために間宮卓司は行動を起こしたのである。

では何故、死の恐怖を取り除くことが終ノ空へ至る事に繋がるのか。

先に言った通り、終ノ空とは世界の限界、思考の限界である。

では「死」とは果たして世界の内側に存在するのか、外側に存在するのか。

死は誰にも経験できない

死を体感することは出来ない

死を引き寄せて・・それに寄り添って、人はなんとなく、死を想像できるもの・・体感し経験できるもののように感じる

でもそれは・・あくまでも・・想像

死は誰にも許されてはいない

死は誰も手に入れることはできない 

人は・・誰一人として、経験としての死を迎えることは出来ない

死は・・誰にも訪れないもの・・死は得ることなどないもの

死を想像しないものは、永遠の相を生きる

動物がそうであるように・・

だが、人は死を想像する

死の傍らで生きる

だけど・・死は傍らにあったとしても、死は人のものではない

死を人のものとするのは冒涜・・

人に許された世界は生のみ・・生は死の傍らにあり、死そのものであり、そして人が得るべきもの

ー彩名(2章)

 音無彩名は言う「死は人のものではない」と。

つまり死とは、世界の外側にあるのだ。

いくら我々が死を思おうとも、死は世界の中にはない。

故に我々は死の恐怖に怯える。

分からないから、知り得ないから、辿りつけないから。

 

死は世界の外側にある。

だからこそ、間宮卓司は「死を知ろうと」し、終ノ空に至ろうとしたのだ。

そこは世界の限界、ゆえにそこから先へ行けば世界の外側のことが知れる。

世界の外側に至れば、死への不安は無くせるであろう、と。

間宮卓司は、そのやり方こそ狂気に満ちていたが、彼が目指したものはまさしく「人々を救うこと」だったのである。

 

世界と言葉

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言葉。

人の言葉。

言葉の海に紛れる・・。

実現した言葉の総体が世界。

世界は物の総体ではない・・。

実現した言葉・・実現しない言葉・・。

実現した言葉が一つの世界となる。

ー卓司(2章)

 この作品における「世界」とはなんだろうか。

それは、先に述べた思考できる領域、つまりは世界の内側のことである。

我々が世界と感じるもの、それは実現した言葉が一つの世界になっただけにすぎない。

世界とは、言葉で表されるものなのである。(ウィトゲンシュタインにたとえて言うなら「論理空間」というやつだ)

意味を持つ言葉、それこそが世界の正体であるが、逆に言えば意味を持たない言葉(トートロジー、矛盾した言葉など)は世界の外側に存在する。

これにより、我々は世界の限界を知ることが出来るのだ。

思考は「思考できること」には思考できるが、「思考できない」ことには思考できない。(とある事について「思考できない」と判断することは”思考すること”である。「思考できないこと」とはそれが思考できる事かどうかすら考えられないことなのである)

ゆえに、我々は世界の外側はわかりえず、それによって世界の限界を知ることも出来ない。

しかし言語は、世界の外側をトートロジーや矛盾という形で表している。

思考できずとも、言語を用いることで我々は世界の限界について知ることが出来るのだ。

 

そして、世界の限界を言葉の限界として見ること、それこそが正しく世界を見ることにほかならないのだ。

5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する

ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考

間宮卓司が恐れる必要はないと言い放った「死」。

しかし、皆守はこういう。

「死にたくない?どうだろうな・・俺にはその質問の意味がよくわからない・・」

「でも死は恐怖である・・」

「ああ、そうだな・・でもどうかな、”されたくない””なりたくない””したくない”って、死以外だと必ず経験できることに限られる・・」

「”されたくない’・・”なりたくない”・・”したくない”・・」

「ああそうだ。たとえば大半の人間が拷問とかはされたくないよな・・相当なマゾなら違うかもしれんが・・

他にも破産とかしたくない・・ホームレスにもなりたくない・・

でも、そういうことは経験可能だから、”されたくない””なりたくない’”したくない”と言える・・

だが、死は経験しようがない

死はそこかしらに転がっている。近所の墓地にでも行けば死んだ人間だらけだ・・でも経験した人間は皆無だ

死はまず経験不可能な事・・それが大前提

経験不可能な事に対して、まるで経験できる事と同列で語るのは、一種、倒錯の様に思える・・」

「経験不可能は、経験可能なもののごとくには語れない・・」

「ああ、そうだ・・でも人は死を経験できるあらゆる事と同列で語る・・何故だ?」

「何故?」

「さぁな、実際俺にはよくわからない・・ただもしかしたら、倒錯だからこそ死を思うことに意味があるのかもしれない・・」

「倒錯だからこそ死を思うことに意味がある・・」

 

「つまり・・死は嘆く対象じゃない事は、誰でも知っている、当たり前な事だ・・

死を思う事は・・倒錯した衝動だろう・・」

「なら、君は死ぬの怖くない?」

「いや怖いよ・・当たり前だ・・でもそれは誰でも感じる程度の恐怖だ」

ー皆守、彩名(4章)

物語上で、皆守は卓司に勝利した。

それを踏まえると、皆守の死観が正しいと感じられる。

死を怖くないと信じるより、むしろ世界の外側にあるものとして見る。

それこそが正しく死を見るということなのだ。

死は怖い。

誰もが思う当然のこと。

むしろそれを忘れてしまうということは、自分が祝福されているということも忘れてしまうということなのだ。

死は怖いさ・・でも死は誰にも訪れない・・それは事実だが、そうわかっていても怖い・・

死の恐怖は・・自らが祝福されていることと・・呪われていると思うことから始まる・・

もし、祝福も、呪いもなければ人は死を恐怖しないだろう ・・それは動物がそうであるように・・

祝福が人を苦しめ、呪いが人を苦しめる

そして祝福が人を救い、呪いが人を救う

ー皆守(4章)

 祝福されていること、呪われていること、それは人を苦しめているが、たしかにそれは人を救うものでもあるのだ。

死を思うこととは、我々の生が呪われていながらも祝福されていることを思うことにほかならないのだから。

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呪われた生/祝福された生

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「神様なんて世界にいない

それどころか、この世界に生まれるのは呪いに似たものだって・・

だってさ、死んじゃうんだからさ

どんな幸せな時間も終わる

どんな楽しい時間も終わる

どんなに人を愛しても・・どんなに世界を愛しても・・

それは終わる

死という名の終止符を打たれて・・

だから、この世界に生まれ落ちることは呪いに似たものだと思ってた・・

だって、幸福は終わりを告げてしまうのだから・・

それが原因なのかさ・・何度か同じような夢見てたんだよ・・」

ー由岐(6章)

 死は生きとし生けるものすべてに訪れる。

いや、むしろ生きるとはいつか死ぬということと同義であると言ったほうがいいだろう。

なべてこの世は諸行無常

幸福も、愛も、残したものも、そのなにもかもが死によって終止符を打たれる。

ならば生きるとは、呪いではないのか。

なぜ、生を祝福されたものとして見ることが出来るのか。

そして、呪われている我々の生の、その意義とは一体なんなのだろうか。

神様とはなんだろうか。

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「神様なんかいない」

「神様はいない・・世界には・・なるほど」

「ああ、いるわけがない・・」

いたら・・なんで神は俺達家族をこんな風にしたんだ・・。

何故、父さんを殺したんだ・・。

「神様って人はさ・・」

「人じゃないし」

「んじゃ、神様ってさ、いたとしても無能で無力でどうしようもないやつだ」

「なにもしないどうしようもないやつ?

あ、でもさ・・それ私も思ったことあるよ

神様が一週間で世界作った言うじゃん

そんなのデタラメだよ

だってさ、もし神様が世界を作ったようなやつなら、絶対にこう言ってるぜ

こんなものは私が作るものではなかった・・

それか

ちょ、まだ出来てないんだよっ」

「ああ・・そう思う。・・地上にどれだけ悲しい目に合ってる奴がいても無視するような最低野郎だ」

「くくく・・もし神様が人みたいなもんならそんなこと言われても仕方ないよね

たしかに最低なやつだ

万能なくせになにもしないんだからな・・

でもさ、皆守はこんな話聞いたことある?」

「話?」

「うん、砂浜の足跡・・」

「なんだそれ?」

「神は我々とともに歩む・・だから、死後、自分が歩いた道を見ると・・必ず寄り添う足跡がもうひとつ見つかる

人生は、寄り添う力で支えられてる・・

でもさ・・一番つらい時、悲しい時に、足跡は一つになってるんだってさ・・」

「一番つらい時に・・そばにいないのかよ・・でも、それが神様ってやつだよな」

「違うよ・・

その時・・神は、立ち止まって動けない人の足そのものになってくれているんだってさ」

「自分の足そのもの?」

「そう・・立ち止まっていると思えた道も・・必ず先に進んでいる・・

まるで、羽咲ちゃんが登れないと思った、あの坂道みたいに・・

人は先に進む・・その歩みを止めることはない

たった一つの思いを心に刻み込まれて」

ー由岐、皆守(6章)

 神様は我々に何もしてくれない。

どんな悲劇だって、どんな残酷な出来事だって…

それは作中の多くの悲劇から明らかだろう。

我々だって、生きてる上で大なり小なりの悲劇を体験してきたが、一度として神様が助けてくれたことなどなかった。

じゃあ、神様は意地の悪い最悪なやつなのだろうか?

果たして本当にそうなのだろうか?

由岐は言う、神は立ち止まって動けない人の足そのものになってくれている、と。

そして続けてこういうのだ。

「たった一つの思いを刻み込まれる?」

「そう、命令にした刻印・・すべての人・・いや、すべての生命がその刻印に命じられて生きている」

「すべての生命を命じる刻印・・」

「そうね・・その刻印には、ただこう刻まれている」

「幸福に生きよ!」

「猫よ。犬よ。シマウマよ。虎さんよ。セミさんよ。そして人よ

等しく、幸福に生きよ!」

「なんだそれ・・」

「幸福を願わない生き物はいない・・全ての生き物が自らの幸福を願う・・

そう命じられているから・・」

「それって命令なのか?」

「さぁね・・ただ、実際そうでしょ?

人もまた・・いいや、人は動物なんかと比べ物にならないぐらい幸福に生きようとし

そして絶望する」

「なんでそうなるの?」

「幸福は、それを望まなければ絶望なんてない

あれだよ、動物が絶望しないと同じだな」

「でも、動物も幸福に生きようとするだろ?」

「そうだよ」

「なら、なんで動物は絶望しないんだよ」

「そんなの当たり前じゃん。動物は幸福に生きてるからだよ」

「なんだよそれ・・幸福じゃない動物だっているだろ」

「いないよ。動物はいつだって幸福なんだよ

死ぬ瞬間まで、全ての生き物は等しく永遠に幸福だ」

「なんでだよ」

「なんでだろうね」

「わからないのかよ」

「あはあ、そんなことないよ答えは簡単だよ

死を知らない・・

動物は永遠の相を生きている・・

だから、幸福に生きようとする動物は、いつだって幸福なんだよ・・」

「動物って死を知らないのか?」

「当たり前じゃない?」

「なんで?」

「だってさ、本当は誰も死なんて知らないんだからさ」

「誰も?」

「そう、誰も死なんてしらない・・死を体験した人なんかいないんだからさ・・

死は想像・・いつまでたっても行き着くことのできない・・

人は死を知らず・・にも関わらず人は死を知り。そしてそれが故に幸福の中で溺れることを覚えた・・

絶望とは・・幸福の中で溺れることが出来る人だけに与えられた特権だな」

「特権って・・どう考えても悪いもんじゃん」

「そうだね・・でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた・・

空を美しいと感じた・・

良き世界になれと祈るようになった・・

言葉と美しさと祈り・・

三つの力と共に・・素晴らしい日々を手にした

人よ、幸福たれ!

幸福に溺れることなく・・この世界に絶望することなく・・

ただ幸福に生きよ、みたいな」

「ただ幸福に生きよ・・か」

ー由岐、皆守(6章)

 

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「幸福に生きよ!」と由岐は言う。

ここにおいて、生は確かに祝福されているのだ。

すべての生は、神がその生を「幸福であって欲しい」と願ったものである。

これを祝福と言わずになんと言おう。

そしてその中で、人は死を知らないはずなのに、死を知ってしまった。

だが、故に人は言葉を手に入れ、言葉と美しさと祈りとともに、素晴らしい日々を手にしたのだ。

では、言葉とは、美しさとは、祈りとは、そして幸福に生きよとは?

幸福の刻印(あるいは美しさの話)

我々の生は常に祝福されている。

それは呪いと同じで、抗えない宿命のようなものだ。

どんな動物だって、植物だって、自らの幸せを祈る刻印に導かれ生きている。

「お母さんは馬鹿なんだよ・・本当に純粋で、純粋故に、好きでもない男と寝て、子供を設けた・・

世界を救う救世主を作るために・・」

ー羽咲

 それはこの物語の発端である間宮家においても例外でない。

皆守の母親、間宮琴美は夫の病を治すために狂気とも言える行為さえ行った。

それがこの終ノ空へと繋がる事件の発端だとしても、それは確かに琴美が夢見た幸せな家庭への行動なのだ。

それらは、どこまで正しく、どこまで信念を持っていたのだろうか・・。

それぞれが正しいと思い、信念を持った結果がこれだったのかもしれない。

人は、何かの問題に安易な原因を作る。

でも、悲劇の原因はただひとつの事実によってなど決定しない。

正しい選択の積み重ねが時に大きな悲劇だって生む。

そういった意味でも、

”地獄への道は善意で敷き詰められている”のだろう。

人はよかれと思い・・地獄への道を歩いて行く・・。

ー皆守

 人は自らの幸福を願い、あるいは大事な誰かとの幸福を願い善意を持って行動していく。

それが時に、想像さえ出来ない悲惨な地獄へと繋がろうとも。

この世に生きとし生けるもののすべてが、その幸せを願って生きているのだ。

それはきっと、とても美しいものではないかと、私はそう思う。

世界を「美しいもの」としてみること、それが素晴らしき日々へと繋がる梯子の一つなのだ。

「世界は残酷だけど・・世界は汚いけど・・でも美しいんだって・・」

ー希実香

祈り

「まぁ、皆守にはまだわからないだろうね

でも、私はこの星空を見て、その答えがわかった

何故、生まれた赤ん坊の泣き声を止めてはいけないか・・

何故、人は自分以外の死を悼むのか・・

そして、その悼みは・・決して過ちではなく・・

正しき祈りなんだってさ・・

世界を愛すること・・

世界のすべてが愛で満ちていること・・

それは祈り・・

自分が見上げた夜空が祝福されていること・・

それは祈り・・

世界は祝福で満ちている・・

だから人は永遠の相に生きることができる・・

できるんだ・・」

ー由岐、皆守

祈りとは、言葉や美しさと違い、その本質が他者への祝福である。

祈りとは、ここにおいて唯一「他者」を感じさせるものなのである。

それは、神が我々に刻んだ「幸福に生きよ!」という刻印から始まり 、そして生を受けたその瞬間に受けるものでもある。

あるいは、それはその祈りの対象が死んでしまったとしても、その人を祈る(悼む)ことは決して間違いなんかじゃない。

祈りとは、世界のためにあるのだ。

今見るものが、祈りの中にあること、祝福とともにあること。

それは世界の意義に繋がるものだろう。

祈りとは世界の意義についての思想である。

ウィトゲンシュタイン 草稿1916年6月11日

 世界を正しく見るために

そして最後に言葉によるものである。

先に「言葉と世界」において、世界と言語の限界が一致したことを示した。

世界とは、実現した言葉の一つにすぎない。

わかりやすく言えば、ありえる可能性の一つにすぎないといったところか。

ならば世界の中に、我々が驚くようなことは一つもない。

なぜなら、それはすべて我々が思考しうる可能性の一つにすぎないからである。(イメージとしては「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」というジュール・ヴェルヌの名言に近い。もちろん意味しているものは別なのだが)

「誰も形にしたことがなくとも・・誰でも理解出来・・誰でも知っている・・

世界に一度もなかった風景だとしても・・それは驚くような景色ではない・・

ありふれた世界」

「どこが・・どこがありふれた世界なのよ・・ここの・・」

「だから・・そのありふれた世界の先を見に行くんでしょ?」

「・・」

「間宮くんがそう呼んだ風景・・

終ノ空・・」

ー彩名、由岐(1章)

 ならばそれはどこまでいっても「ありふれた世界」なのだ。

たとえそれが凄惨極まる出来事だとしても、麻薬と狂信に彩られた終わりの空だとしても、ドラックにより強制的に売春させられこの世界を救うと言ってビルから落ちて砕け散った少女の見る空も…

そのどれもがありふれた世界だ。

「世界の果てで見る夕日も・・いつもの帰り道に見た夕日も・・どっちも同じように綺麗・・綺麗なんだなぁ・・」

ー希実香(2章)

 なにもかもが変わらない、ありふれた世界の延長なら。

いつもの帰り道に見た夕日を、美しいと感じることができたら。

それは「ありふれた世界」すべてが美しいということになるのだ。

 

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ここにおいて、我々は「素晴らしき日々」を見ることが出来る。

旋律、そして旋律を奏でること

さて、世界の中に起こりうることを我々はありふれたものとして見ることができた。(言葉の問題)

そして、あらゆる生物は幸福に生きよという刻印に従って生きている。(美しさの問題)

それを祝福として、祝福された生としてみることが出来る時(祈りの問題。言ってしまえば祈りとは祝福を見る方法でもあるのだ。)我々は「言葉」「祈り」「美しさ」と共に「素晴らしき日々」を見れる。

「言葉と美しさと祈り・・

三つの力と共に・・素晴らしい日々を手にした

人よ、幸福たれ!

幸福に溺れることなく・・この世界に絶望することなく・・

ただ幸福に生きよ、みたいな」

ー由岐(6章)

 そしてこの「素晴らしき日々」を見る方法は旋律と同義である。

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何もない・・。

何もここですることはないよな・・。

忘れ物はないよ・・。

もう一人が言う。

旋律があるだろ。

ここには旋律がある。

だから世界はいらない。

言葉はいらない。

忘れたものなんてない・・。

ー信者たち(3章)

 そしてこの旋律は神様と同義である(神様の存在を見ることによって我々は祝福と美しさを見ることができたのだから当然といえば当然である)

「きゃははははははっ。 旋律ですよー」

そう言って希実香は大きく空に手をかざす。なぜかそのひらには秤がのっており天を指していた。

「はははははは……バカかお前っなんで秤なんて持ってるんだよ」

「きゃはははは、神様の重さを量るんです! だから秤をもってきました!」

そう言って希実香は秤を大空に掲げる。

「さぁ、神様、天秤の片方のお乗りくださいませっっ。もう片方にはすでに旋律が乗っております

旋律ですっっ、私は旋律担当、そして救世主様が奇跡担当ですっ

さぁ、神様、ここです。 この天秤にお乗り下さいませっっ」

「はははは、どんな組み合わせだよ……なんで奇跡と旋律なんだよ」

「そんな事ありませんよー。 神様は旋律ですって!

神様は旋律なんですよー

私、今分かりました! 神様は旋律ですよー」

ー卓司、希実香(3章)

 

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だがしかし、これだけで本当にいいのだろうか。

我々は、素晴らしき日々をただ「見る」だけでいいのだろうか。(旋律をただ聞くだけでいいのかとも言い換えられる)

「そう・・立ち止まっていると思えた道も・・必ず先に進んでいる・・

まるで、羽咲ちゃんが登れないと思った、あの坂道みたいに・・

人は先に進む・・その歩みを止めることはない

たった一つの思いを心に刻み込まれて」

 ー由岐(6章)

そんなことはない、人は先に進むのだ。

我々は、素晴らしき日々を歩まねばならない。

そう、我々は旋律を奏でなくてはならないのだ。

 

歩み

歩むこと、おそらくこれを作中で(時系列でも)初めて行ったのは高島ざくろであろう。

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そうだ。

私は新しい世界のために、空を舞おう。

新しい力のため、

新しい真実のため、

私はこの一歩の踏み出すのだ。

ーざくろ(3章)

 そして高島ざくろはマンションの屋上から身を投げる。

しかしこれはいわば間違った歩みと言える。(当然、彼女は死んでしまうのだから)

しかし反転、3章のHAPPY ENDではこのように描かれている。

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日常の一歩。

ただ、変哲もない一歩を・・踏み出す。

そのことに感謝しつつ・・、

私達は生きていく・・。

二人で笑いながら・・生きていこう。

私は強くそう心に誓った。

多くの生命がそうであったように・・、

私も最初の一歩を踏み出す。

ここかた先にあるのは、 たぶん

素晴らしき日

ーざくろ(3章)

 一体この2つの違いはなんなのだろうか。

それは、「意志」がどのようにあったかに思う。

いわゆる正史、ノーマルエンドでは狂気にとらわれるざくろに対して彩名は次ように忠告する。

そうやって落ちていけば楽?

でも・・ちゃんと目を開いた方がいい・・

目の前・・ちゃんと目を開ければ分かる・・

じゃないと・・

死ぬ・・

もう・・決めたのかしら?

世界とあなたの関わり方・・

ー彩名(3章)

 対してハッピーエンドでは、ざくろは次のように発現する。

自分の意志だよ・・希実香

流されないで考えた結果があれだったんだよ

ーざくろ(3章)

 ハッピーエンドとノーマルエンドを分ける選択肢では、希実香をざくろが追うかどうかに分類されるだろう。

 ここにおいて、意志(勇気)の存在とは世俗的な幸福を示してはいるが、この物語の根幹を指し示している。

つまり、歩むこと、それは「意志」を持つことなのである。

そして、夢を意識できた時にすべき事。

それは’逃げない”事。

明晰夢は、ほぼ悪夢から生まれる。

悪夢とは、人が作り出す不安が具現化したもの。

だから、人はその悪夢に恐怖する。

いや、正しくは、悪夢の中に出てくる、恐怖の対象を恐れる。

夢であるから恐れる必要はない。

にも関わらず、恐怖から自由ではない。

それは夢が夢であると自覚できないから・・、

夢が夢であると自覚する。

それだけでは明晰夢とはならない。

明晰夢は、自らの心の奥底にある恐怖の具現化から逃れない事。

恐怖を克服することが重要なのだ。

恐怖に打ち勝てば・・、

夢で恐怖することさえなければ・・、

ー皆守(明晰夢での特訓)

 皆守もまた、意志(勇気)を持って幸福に辿り着いた人物の一人である。

明晰夢の訓練で、彼は恐怖から逃げない(意志を持って克己する。また勇気を持つこと。)を体得する。

これによって彼は素晴らしき日々を歩むことが出来るのである。

そして羽咲もまた、歩んだ存在であることは語るまでもないだろう。

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「何やってるんだ!羽咲!」

「・・嫌だよ・・」

今まで俯いていた羽咲が顔をあげる。

完全に泣いていると思った彼女は、泣きながら笑っていた。

「な、何言ってる・・」

「嫌だよ・・って言ったんだよ・・私」

「バカか!このままじゃお前まで!」

「そんなの関係ない!」

「関係ないわけ無いだろ!俺はお前を守るために!」

「そんなの知らない!知らないよ!」

「は、羽咲・・」

今まで・・こんな大声を出す羽咲を見たことがない。

こんな感情を露わにして、自分の意志を示したことなどない。

「私、私は、守られるだけの私じゃない・・私は私は・・とも兄さんが好きなの!

とも兄さんが死んだと思って悲しかった・・もうどうでもいいと思った・・

だから・・本当は、卓司兄さんなんて助けたいなんて思わなかった・・とも兄さんを殺した人だから・・

でも・・でも・・卓司兄さんは卓司兄さんは・・その姿はとも兄さんだったから・・

私は助けたいと思ったっ

そうだよ・・なんで?

何で私がとも兄さんを助けちゃいけないの?なんで、私だけが守られてなきゃいけないの?

とも兄さんが生きてるなら、とも兄さんがそこにいるなら私、絶対にこの手を離さない!

絶対に!絶対に!死んだって離さない!」

ー羽咲、皆守

「この空の先・・それを見るの?

・・私・・」

私は歩き出す・・。

校舎に一歩踏み出す・

一人で・・

(中略)

「最後の空には一本の道・・

この方舟から・・続く一本の道・・

それはあなたが登れなかった・・あの坂道よりも長く・・天に伸びている・・」

「あなた、一体!」

「私は音無彩奈・・それ以上でもそれ以下でもない・・」

「・・あの鉄梯子・・ですか?」

・・、

延々と続く梯子・・。

それはまるで静寂の永遠の中を彷徨うような幻覚にとらわれる・・。

ー羽咲、音無彩奈

 ここにおいて羽咲は梯子を登る。

むしろそれは、この素晴らしき日々を見るための通過点のようなものなのだ。(なぜなら、ウィトゲンシュタインは著作:論理哲学論考において「6・54 梯子を登りおえたら、その梯子は投げ捨てねばならない」と述べているからである。これは問題の消滅に気づくということを示唆しているが、ここでは、生の問題についての消滅という形をとっているとわかりやすいだろう。つまり、生の問題の消滅(=素晴らしき日々を生きる)のためには梯子を登らねばならないのである)

 

運命

 さて、意志についての重要性を述べてきたが、それはこの世界の諸事情(起こりうること)に対してどれほどの力を持つのだろうか。

意志とは、どれほど世界を変えられるのだろうか。

結論から言おう、意志は世界の諸事情に対してあまりにも無力である。

「羽咲っっ」

俺は精一杯手を伸ばす。

「・・」

答えはない。

いや、俺だって声を出していたのかどうか分からない。

この場所から地面までなど言葉にならないほどの一瞬であるハズだから・・。

でも俺は叫ぶ。

羽咲!

先ほどまで涼しかった空気が一気に熱くなる。

月の光が弱く感じた。

星はその回転により目を回し沈黙する。

俺は空を走る。

神々の意志に反して・・俺は走る。

そしてその手が羽咲を掴む。

「とも兄さんっ」

自由落下・・重力という運命により、俺たちは地面に吸い込まれる・・。

空を飛ぶことが出来ない人間は、

空の上から地に落ちることしかできない。

-羽咲、皆守

 我々に降りかかるものすべて、いわば運命とも呼べるもの…

そのすべてに我々は無力である、それは例えば重力のように…

(そしてこれはウィトゲンシュタインも語っていることである。曰く「人は自分の意志を働かすことはできないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらねばならない、と想定した場合、何が彼を幸福にするのだろうか。(中略)世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。」(草稿1916年8月13日より)と。)

だがしかし、本当に我々は運命に対して何もできないのだろうか。

ウィトゲンシュタイン的に言うなら「認識の生」というやつである)観念的な世界観を持ち、いわば一つの諦観のようなものでよいのだろうか。

そんなことはない。

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「勝つんだろ

運命に!」

ー由岐

 由岐は夢の終わりで、皆守にこう告げる。

勝てないはずの運命に、抗えないはずの宿命に。

ふわりとした感触

瞬時、空気の冷たさが変わったような気がした。

砂と塵が月に照らされた蒼い空に舞う。

絶対に交わることのない平行から垂直落下の世界へ・・。

羽咲と俺は吸い込まれていく。

(中略)

月が笑う。

神が笑う。

この滑稽な姿を、

この喜劇のような悲劇を、

星々は回る。

まるでダンス。

夜空が・・神が俺たちを嘲弄する、

空の器を床に投げ落とす無邪気な子供のように・・、

世界は空っぽになる。

だが俺は言う。

「くそくらえだ!」

神なんて関係ねぇ。

運命なんて関係ねぇ。

俺は、皆守だ。

間宮皆守。

俺は約束した。

羽咲を守ると、

羽咲を守るヒーローであると、

だから、俺は怯まない。

誰が相手だって怯まない。

天国で神と会えば、そいつを殴る。

地獄で鬼に会ったら、そいつを殴る。

俺は、俺自信の手で、運命を切り開く。

喜劇も悲劇もくそくらえだ!

ー皆守

 むしろ皆守は、その意志の脆弱性を知ってなお、運命に立ち向かったと言えるだろう。

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自由落下・・重力という運命により、俺たちは地面に吸い込まれる・・。

空を飛ぶことが出来ない人間は、

空の上から地に落ちることしかできない。

でも、俺は認めない。

絶望なんてここには無い。

あるべきはすべき事だけ、

この瞬間にすべき事だけ、

今を生き。

そして明日を生きるためにすべき事だけ、

重力が俺たちを殺そうとする。

地面に叩きつけて、すべてを終わらせようとする。

「うぉおおおおおお!!」

空でもがく。

無駄だ、空で人は無力だ。

どんな抵抗もできない。

重力に人はまったく為す術もない。

だけど俺は空でもがく、

無力な者は巨大なものの前でただもがく。

どんな無様でも良い。

生きるためなら、俺はどんな無様な姿でもさらす。

 ー皆守

 皆守は「今を生きる」という。

「今を生きる」こと、「運命」、そして「幸福」

これらはどのように表されるものなのか。

今を生きるということ(ウィトゲンシュタインとの決別)

先に述べた通り、運命とは巨大で我々には抗えないものである。

ウィトゲンシュタインはこの運命に対し、いわば諦観のようなものを示した。

 人は自分の意志を働かすことはできないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらねばならない、と想定した場合、何が彼を幸福にするのだろうか。

 この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福であり得るのか。まさに認識に生きることによって。

 良心とは認識の生が保証する幸福のことである。

 認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。

 世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。

 この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。

ウィトゲンシュタイン(草稿 1916年8月13日)

 つまり、我々の幸福と、我々が直面する自体は別ということでもある。

これ自体は、おかしくもない話である。

しかし、ウィトゲンシュタインが語る幸福への道標は、認識の生が必要となる。

これは、世界の楽しみを断念しうるものである。

愛も、夢も、希望も、笑顔も、恋人も、家族も、そのなにもかもを、断念しうるものなのである。

ここまで言えば分かるだろう、ウィトゲンシュタインの認識の生とはこの世との(あるいはこの世の事象との)決別なのである。

なぜなら、運命に対し我々はあまりにも無力だから。

この世のあらゆる苦難を前にして、我々が世界の事象との断絶なしに幸福には至れないからである。

(あるいはこの話は高島ざくろの凄惨ないじめの場面と重なるものがある。彼女はあの時あの場所において、この世のあらゆる苦難を感じていたことだろう。)

 

しかし、これは本当に正しいのだろうか。

我々は見てきたではないか、皆守が、その運命の中にあった死に勝ったことを。

皆守が運命に勝てた理由、それこそが「意志」なのである。

でも、俺は認めない。

絶望なんてここには無い。

あるべきはすべき事だけ、

この瞬間にすべき事だけ、

今を生き。

そして明日を生きるためにすべき事だけ、

ー皆守

 「意志」の重要性については語ったが、ではその「意志」とはどのような意味なのか。

それは、上の文にあるすべてであり、「今を生きる」という意味にほかならない。

「今を生きる」とは、決して刹那的な生き方ではなく、生の中で生きるという生き方である。

死を思わず・・死を知らず・・、そして生の中にありて・・

生を思わず・・そして生を知る・・

その中に・・あるいは・・その外に・・素晴らしき日々が・・

ー彩名

生の中で生きる、つまりこれは永遠の相の下で生きるという事に他ならない。

 (永遠の相の下に、つまりこれは永遠の中で生きるということである。「死」での皆守も述べたように、死は経験不可能な事態である。つまり、我々の生を経験というくくりで判断するならば、我々の生の中に死は存在しない、ということになる。「神」で引用した由岐の「いないよ。動物はいつだって幸福なんだよ。死ぬ瞬間まで、全ての生き物は等しく永遠に幸福だ」という発言で分かるように、我々の生の中に死は存在しないが故にここに永遠が存在することになる。これこそが永遠の相の下でという意味の一つである。他にも意味するもの、というよりここから見えるものがるものがあり、永遠の相の下でとはそれを意味するものだが、それは後でまた述べる。)

「・・それは?」

「・・素晴らしき日々

素晴らしき日々?」

「そう・・永遠の相の下に・・」

ー彩名、羽咲

 そしてこの永遠の相の下で、意志を持ちながら世界を見るとき、運命に打ち勝つことが出来る。

このような永遠の相の下で見た世界に、絶望などあるわけがない。(なぜなら、絶望とは死を知らない人が、死を知ってしまった結果だからである。死が存在しない永遠の中で人が絶望するわけがない。)

(皆守の章のタイトル「Jabberwocky」とは、ジャバウォックを引用した最初になぞらえれば、ジャバウォック(このような絶望、あるいは運命がジャバウォックであり、それを殺すヴォーパルの剣とは「意志」に他ならないだろう)

故に、人がすべきは、今を、そして明日を生きるためにすべきことだけなのである。

しかし、考えてみれば皆守は一度も卓司に勝つことがなかったのですね。それでも、最後に皆守は”運命”に勝った様ですけど……。

ーすかぢ(素晴らしき日々公式ビジュアルアーカイヴ P96すかぢノートより)

そして今を生きると誓ったものは、素晴らしき日々を手に入れるというのは高島ざくろのハッピーエンドからも明らかであろう。(というかやはり、ざくろのハッピーエンドはネタバレがすぎるのだ)

「さぁ・・あなたは先に進みなさい・・それこそが約束された地、素晴らしき日々のはじまり・・

あなたは素晴らしき日々を手に入れて、そしてそれ以外のものを失った・・

だから、あなたはその質問の答を得ることは出来ない・・それとも

今をすべて捨ててみる?」

「私は決めたんだ・・・。

今なんて捨てません。私はちゃんと今ここで生きることを誓ったんだから!」

「うん・・

あの空はもうここにはない・・

失われた空・・一人の魂が作る世界は、あの空を消した・・

今を捨てないという少女は・・そして素晴らしき日々を手に入れる。」

ー彩名、ざくろ

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今を生きることを誓うざくろの言葉を聞いて、音無彩名は心底嬉しそうに微笑む。

あるいはそれは、神様の祝福のように…。

 永遠の相の下で

さて、永遠の相の下でとは、永遠の中で生きるという意味だと説明した。

しかしこれだけだと、あまりにも不十分である、本来の永遠の相の下で見ることとは、この世のすべてを必然と見ることなのだから。

芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。そしよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。ここに芸術と倫理の関係がある。

日常の考察の仕方は諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相のもとでの考察はそれらを外側から見る。

それゆえこの考察は世界全体を背景として持っている。

あるいはそれは、時間・空間の中で対象を見るのではなく、時間・空間とともに見る、ということだろうか。

各々の対象は論理的世界全体を、いわば論理空間全体を、生み出す。

永遠の相のもとで見られた対象とは、論理空間とともに見られた対象にほかならない。(こんな考えがしきりに浮かんでくるのだ)

ウィトゲンシュタイン(草稿 1916年10月7日)

 ウィトゲンシュタインは論理空間というが、あるいはこれは「言葉」にすぎないのだ。

先に「世界と言葉」で述べたように、世界と言葉は同一である。

永遠の相の下で見るとは、このすべてを必然と見ること、つまり世界を必然と見ることに他ならない。(これは「世界を正しく見る方法」を別方向から見た問題と捉えてもらって構わない。あちらもまた、世界の諸事情は必然であると暗に述べているのである。)

そして永遠の相の下で見られた世界の中に、必然で固められた事象に、価値(世界の意義)などあるはずもない。

「私という魂は世界に属さない・・それは世界の限界である

世界の意義は世界の外側になければならない、世界の中では全てはあるようにあり、すべては起こるように起こる

だから・・世界の中には価値が存在しない」

世界の中には価値は存在しない。

金も、名誉も、女も、夢も、

人権も、民主主義も、ミサイルも、政治も、

宗教も、神も、信念も、思想も、

哲学も、科学も、家族も、愛も、

当然あらゆる物語だって世界の一部でしか無い。

それらすべては世界の限界でも外側でもない。

世界・・

それは言ってしまえば器だ。

世界は器でしかありえない・・。

器は、器によって満たされることなどありえない。

ー皆守

 そして、この永遠の相の下について述べたことで、ようやく(本当にようやく)「神」について自問した「幸福に生きよ!」の意味と、「呪われた生/祝福された生」について自問した「生の意義」について答えられる。

(ここでの「永遠の相の下で」とは必然のものと見ること、つまり運命とほぼ同一の意味であろう。しかし、意志を持って現状を変えた通り、意志こそが唯一必然を変えられるものなのである。意志こそが世界を変えると言ってもいい。)

幸福に生きよ!

このゲームをクリアした人に感想を聞いたならば、この言葉が帰ってくるだろう。

「幸福に生きよ!」

「幸福の刻印」において、「幸福に生きよ」の意味を説明したが、それはひとつの側面でしかない。

「幸福に生きよ!」とは、いわばダブルミーニングとして最後にまたあらわれるのである。

 

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この物語とは、言ってしまえば終始「幸福に至る方法」について描かれていた。

ではどうやってそれに至るのか。

それは由岐の言葉から伺える。

「そうだね・・でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた・・

空を美しいと感じた・・

良き世界になれと祈るようになった・・

言葉と美しさと祈り・・

三つの力と共に・・素晴らしい日々を手にした

人よ、幸福たれ!

幸福に溺れることなく・・この世界に絶望することなく・・

ただ幸福に生きよ、みたいな」

ー由岐

 言葉と美しさと祈りは先に述べたが、もう一度整理しながら、これがどうやって素晴らしき日々(幸福)にいたるのかを見ていこう。

 

まず言葉について。

言葉とは世界である。(「言葉と世界」より)

そして世界を永遠の相の下として見た時、世界のすべてが必然のものとして見える(「永遠の相の下で」より)

そして美しさについて。

我々は「幸福に生きよ!」という刻印によって歩み進んでいる。(「幸福の刻印」より)

それは美しいという話をした。

そして何かを美しいと感じるなら、ありふれたものに囲まれている我々は帰納的にすべてのものを美しいと感じることが出来る(「世界を正しく見る方法」より)

ここにおいて我々は世界を肯定できるのである。

なぜなら、それは美しいのだから。(「そして美とは、まさに幸福にするもののことだ。」とウィトゲンシュタインが語るのもこれに関係する)

そして世界を肯定できた時、自分の生を肯定できる(「世界と生は一つである」というウィトゲンシュタインの言葉により)

最後に祈りについて。

祈りとは、言い換えれば「意志」である。

意志とは、つまりは生きる意志にほかならないのだが、これを大きく使わなければならない時(何かに立ち向かうときといって良い)とは、明日をより良くするためである。

高島ざくろにおいてはいじめからの脱却を、皆守においては羽咲とのこれからの日々を過ごすために。

明日をより良くする、これはつまり祈りであろう。

 

世界のすべてが必然のものと見え、そしてそれを美しいと感じ、そうすることで生きる意志というものを注げるようになり、それを注いでいく。

例えるなら、世界が器であり、美しさとは注ぎ口のようなもので、意志とは満たすべきものなのだ。

これこそが、幸福に生きよという声の正体だ。

俺は世界一気むずかしい、天才の言葉を反芻していた。

それは単純だし、誰もが知っている答えでありながら、到達することは厄介極まりない・・。

何故ならば・・この言葉には、必ず神がいるからだ。

”神を信じるとは、生の意義に関する問いを理解することである”

”神を信じるとは、世界の事実によって問題が片付くわけではないことをみてとることである”

”神を信じるとは、生が意義を持つことを見てとることである”

その神は奇跡も起こさず。

世界を一週間で作ることもない。

基本何もせずに・・、

それでも無責任に・・、

我々に”幸福に生きよ”といつでも耳元で囁くだけだ。

そして、すべての調和を誰のためでも無く作り上げるだけの存在だ。

それが神と呼ばれるものの正体だ・・。

神は、嘘も不正も、まがい物も癒やしさも、汚さも・・それらすべてのものの存在を許している。

どんな不条理が俺たちの人生に降りかかろうと、それでも神は我々に言うであろう。

”幸福に生きよ”

俺は戯れに、帰り際に母親に声をかける。

「幸福に生きよ・・そう神様は言ってるぜ」

「・・」

死んだ目で俺を見る母親。

俺はそんな彼女に、

「すべては救われてるんだからさ・・俺も、羽咲も・・あんたも、もちろん卓司も父さんも・・

絶望に溺れるなよ・・それは幸福に酔いしれるための酒に過ぎないのだから・・

器を満たすのは、酒じゃだめだろ・・

俺たちが満たさなきゃいけないものって、何だ?」

ー皆守、羽咲、母

 そして言うほどこの問題が簡単でないことは皆守も分かっている。

それは、世界とは、あるいは神とは、どのような存在も許すからに他ならない。

そこにはどんな汚泥だって存在する。

それがあるいは、美しさという注ぎ口をつまらせてしまうことだってあるのだ。

だがしかし、例え我々が絶望しようとも、ビルの屋上の縁に立とうとも、神はこう語りかけるだろう。

「幸福に生きよ」

それは呪いであり、しかし同時に、それは祝福でもあるのだ。

生きる意味

間宮卓司や高島ざくろは自らの生きる意味を「世界を救うこと」として空から落ちていった。

木村も、終ノ空の事件についてこう語っている

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「所詮は行き着く先は・・”私の存在意義”につきるという事か・・」

「存在意義?」

「人生ってなんだろう?って事だよ」

「はぁ・・」

「人生の意味・・

まぁ、思春期の延長上の悩み・・誰もがそう思いながら、そう信じながらも・・誰もが応えることが出来ない究極の問い

それに、取り憑かれているだけか・・」

(中略)

「いつでも人は、何かしらの存在意義の不安に苛まれている・・我々が何であるかという疑問・・」

ー木村、皆守

 だれもが思い悩み、そしていつか忘れ、しかし誰も答えられない、そんな問い。

それに対し、皆守はこう応える。

「ジグソーパズル・・のピースに意味はあるんでしょうか?」

「はぁ?なんだそれ?」

「ジグソーパズルのピースは・・その一片ではなんら意味がない・・

ただひとつ、そこに在るだけではまったく無意味な存在だ・・

木村さんの言い方なら・・人間はジグソーパズルの一片に等しい存在だ」

「ジグソーパズルの一片に等しい存在・・」

「そう・・そこにはまる場所がなければ・・自分に合う場所がなければ・・その一片には意味が無い」

「・・」

「たった一つのジグソーパズル・・たった一片の歪な形の欠片・・

どこかにはまらなければ・・ただの無意味で・・醜悪な存在・・」

「・・それが・」

「でも人生って、ジグソーパズルの一片なんでしょうかねぇ・・

我々はパズルの一片なんでしょうか・・」

「・・」

「パズルの一片って・・その外側があるから・・はまる場所があるんですよね」

「外側があるから?」

「そう、外側があるからこそ、ピースはうまくその場所にはまる・・」

「外枠・・」

「そう・・外枠・・

極論・・俺の・・そしてあんたの世界の外側ってどこにあるんですかね?」

「俺の・・世界の外側・・」

「俺の世界がはまるべき場所・・まるでジグソーパズルの一片の様にはまる場所・・そんなもっと大きな世界なんて本当にあるんですかね?

俺はね・・思うんですよ・・

俺たちに外側なんてない・・

俺の世界に外側なんてない・・

この世界、あんたも、そしてこの河も、あの太陽も・・そしてこの・・・・真っ赤な空も

外側でも何でもなく・・

全部が世界でしかない・・ってね

全部、俺の世界でしかないってね」

「それって独我論かい?

世界が自分の脳みそだけ・・自分の存在そのものが世界だって言う・・」

「さぁね・・そういうものかどうかは知らないさ・・

俺は別に世界に俺一人だなんて感じちゃいない

間違いなく、目の前にあんたはいるし、もっと言えば、あんたらにとって存在してなかった水上由岐やら若槻鏡やら司やらだって存在していた

でもさ・・それでも、俺の世界は、俺の世界の限界でしかない

俺は、俺の世界の限界しか知らない・・知ることが出来ない・・

だから・・俺は俺でしかない・・

一つの肉体を何人もで共有してた俺が言うのもなんだけど・・いや、だからこそ、俺は俺でしかありえないと思える・・

俺は、この腕でも、この脚でも、この心臓でも、この肉体でも、脳でもない

当然、俺はこの道でも、この河でも、この空でもない

俺は・・俺だ・・

そして・・俺の世界が世界であり・・それに外側なんてありはしない

だから、意味なんていらない・・

俺の世界に付け加えなければならない言葉なんてない・・

世界はジグソーパズルの一片なんかじゃないんだからな・・

だって・・俺達の世界はこんなに広い・・永遠の広がりを見せている・・時も空間も・・すべてが・・」

「時も・・空間も?」

「ぼくたちの頭ん中ってどのくらい?

ぼくたちの頭はこの空よりも広い・・

ほら、2つを並べてごらん・・ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう・・

そして・・あなたまでをも・・

ぼくたちの頭は海よりも深い・・

ほら、2つの青と青を重ねてごらん・・

ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう・・

スポンジが、バケツの水をすくうように・・

ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ

ほら、2つを正確に測ってごらん・・

ちがうとすれば、それは・・

言葉と音の違いほど・・」

ー皆守、木村

 世界に外側なんてないと、皆守は言う。

自分が知り得ない、世界の外側なんてない、と。

(世界の外側がないとは、語りえぬものがないという意味ではない。それは示されるものという形で存在する。「6・522 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である」(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』より)。存在しない外側のものとは、示されもしない、思考できないという思考すらもできないものなのである。(「終ノ空」より))

時間・空間を永遠のものとみる、つまりは永遠の相の下で世界を見る皆守。

 そしてエミリ・ディキンソンの詩を引用しながら、世界が自分の頭に入っていく事を示す。

人生をジグソーパズルに例えるのは、2章の間宮卓司への意識もあるのだろう(どちらが先かはわからないが)

間宮卓司はリルルのバラバラになった臓物や体をジグソーパズルのピースの様に見て元に戻そうとする。

しかし、それはうまくいかない。

きっとこれは、間宮卓司の終わり方も考えると、人生をジグソーパズルのようにみた(世界の外側に意味を求めた。生の意義を規定した)間宮卓司が上手くいかないことを暗喩しているのだろう。

「人生の意味なんて・・問う必要はない

人生が不可解であると戸惑う必要はない

この世界も、この宇宙も、この空、この河、この道・・そのすべての不可解さに戸惑う必要なんてない・・

人が生きるという事は、それ自体をものみ込んでしまう広さだから・・

それは神と同じ大きさ・・

神と同じ重さ・・

それは美しい旋律と美しい言葉・・」

ー皆守、木村

 そう、人の生きる意味とは、という問いはナンセンスなのだ。

なぜなら、人の生きる意味とは、世界の外側にはないからである。(というかそもそも世界に外側などないのだが)

なら、世界の内側にはどうかと問われればそれもない。

なぜなら、世界の内側とは我々の思考できるものであり、問に答えられないのなら、思考できるものではないからと言える。

故に、これは問う必要などない。

むしろ問いですらないのだ。

6・5 答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。

謎は存在しない。

問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

 つまり、問いとは答えがあってこその問いなのだ。

答えがない問いは問いではない。

故に、人の生きる意味などナンセンス(言葉として不成立)にすぎない。

だからこそ、問う意味などない皆守は言うのだ。

6・521 生の問題の解決を、人は問題の消滅によって気づく。(疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、それでもなお生の意味を語ることができない。その理由はまさにここにあるのではないか。)

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

 ここにおいて、人は生の意味という生の問題の解決を、生の問題の消滅によって気づくとなるのだ。

そして生の問題の消滅と共に、我々は今を生きる事ができる。

それは、神がある言葉を我々に囁くことに気づくのに等しい。

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鍵盤の音が俺の耳に響き……

そして他の誰かの耳に届く。

誰かが作った曲を俺が弾く。

そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。

でも俺はその曲を弾く。

だいたい好きな曲だから……

感動した曲だから……

その旋律は、誰かの耳に届く、

俺以外のの誰か、

皿を洗う羽咲に、

最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、

店に集まるオカマ野郎どもに……

音楽は響く。

店内に響く。

世界に響く。

世界の限界まで響く。

そこで誰かが聴いているだろうか?

聴いていないのだろうか?

それでも俺は……音楽を奏でる。

誰のためでもなく、

それを聴く、あなたのために……。

ー皆守

 生への問いが消滅し、我々は幸福への坂道へと歩き出す。

それは、皆守が奏でる旋律をもとに…

だけど、決してその旋律は同一ではなく、どこか違う旋律を、我々は奏でるのだ。

そう、幸福に至ろうとする事こそが、旋律を奏でる事に他ならないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「だれでも知ってることだよ・・それこそ近所の八百屋の親父でも、スーパーのレジ打ってるおばさんでも、タクシーの運ちゃんでも・・」

「今のとも兄さんの言葉の意味を?」

「ああ・・」

「ど、どういう事?」

「人よ、幸福に生きろ!

そういう事だ……」

「うーわからないよぉ・・」

「深く考えるな・・ただ、最後が命令形だってことが大事なだけだ」

「命令形?」

ああ・・どんな不幸だと思っても、そんなものの大半が泣き言だ・・

 どんな不幸と思われる人生だって幸福に生きろ!

ただ、それだけだ・・

そして・・

お前は、そう生きているさ・・だから大丈夫だ」

ー皆守、羽咲

 すべての人は幸福に生きることが出来る。

どんな苦難の中でも、絶望の中でも、神様が耳元で囁く限り、歩みを続ける限り…

人は必ず、幸福になれる。

だから、これはあらゆる人を救う物語なのだ。

誰だって幸福になれる。

そんな夢みたいな話が、叶えられるのだから…

 

 

 

 

ありがとうございます

私に生を与えてくれたのは……あなたでした

私はずっとあなたの事を愛してました……

まったくご迷惑な話ですが……この世界で再び会えた事に感謝しております……

一人で行かなければいけない道の途中で、こんな素晴らしい時間を頂けた事……

あなたが幻想世界と呼んだ、この世界での生活は、私にとっては至極の記憶です

この夢の世界こそ、私の人生で一番の思い出となりました……

書き割りの様なチープで……出来損ないの夢の世界……

それでも、そこであなたと過ごせた時間は、間違いなく……

素晴らしき日々でした

ーざくろ

 

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雑記(本とか彩名とか…終ノ空Ⅱとか)

というわけで、素晴らしき日々考察は9割終了。

あとは細々としたネタとか、ちょっと考えたこととか。

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この作品では多くの本が語られている。

その本の役割とか考えてみたり。

クザーヌス

→三位一体の説明からの「何かを為すには3つの様相が必要」という話がしたかったのかな、と。

多分「言葉」「美しさ」「祈り」とかに繋げてると思われる。

エミリ・ディキンソン

→世界と私の一体を伝えたかったのだろうと思う。

旋律と言葉にからめてあるし、多分本の中ではこれが一番重要な感じで出てきたかな?

シラノ

→勇気/意志の象徴。

「文学は勝つための学問じゃなくて……負けないための学問だよ……だから、私は戦えるんだよ……」という台詞にあるように、文学全般はやはり「意志」「美しさ」を持っているのだと思う。(あるいは人は文学にそれを感じることが出来るとも言える)

しかしやはり、世界を正しく見ないと、幸福には至れないし、ざくろノーマルエンドみたいな感じで死んでしまうわけだ。

ナイフが人を殺すか、恩恵を与えるかの差のようなものだろうか。

シラノにもらった意志だけを受け継いで、美しさと世界を見ずに、高島ざくろは屋上の縁から歩み進めてしまったのである。

文学もまた人を救うが、時と場合という感じだろうか。

だが、ざくろが勇気を出して希実香を助ける場面は良い口上だった。

あれこそ勇気の発露、大きな意志の力であろうと思う。

銀河鉄道の夜

→幸福の象徴(あるいは幸福を探す象徴)

周知の通り、銀河鉄道の夜とは主人公が様々な幸福の形を目にし、最終的に主人公が本当の幸福を探す旅である。

高島ざくろは、最後に幸福を得て消えていった。友人のカムパネルラポジだろう。

もちろん由岐はジョバンニポジである。

彼女は本当の幸福を探しに、長い長い旅に出るのであった。

本が出てきたのは、文章を出したかったのと、文学が幸福に繋がると言いたかったためではないかな、と。

音無彩名

「我は門…… 門にして鍵 全にして一、一にして全なる者…… 原初の言葉の外的表れ 外なる知性」

溢れ出るクトゥルフ臭(失礼)

音無彩名は何を示していたのかな、という話。

音無彩名=プレイヤー・世界・作者など…色々な説が出ているが、私は音無彩名は「神」そのものであると思っている。

「その神は奇跡も起こさず。世界を一週間で作ることもない。基本何もせずに……、それでも無責任に……、我々に”幸福に生きよ”といつでも耳元で囁くだけだ。そして、すべての調和を誰のためでも無く作り上げるだけの存在だ。それが神と呼ばれるものの正体だ・・。神は、嘘も不正も、まがい物も癒やしさも、汚さも・・それらすべてのものの存在を許している。」

音無彩奈は何にも肩入れしない(例外といえば高島ざくろへの忠告くらいだろうか。アレはアレで実力行使に出ていないので肩入れしてないといえばしてない)

そのくせ知らないはずのことは知ってるわ、見えないはずのものは見えるわでちょっと意味がわからない娘である。

自己紹介とか(上の文)まんま神様のそれだし、まぁあり得るとしたら世界の外側(クトゥルフは宇宙的恐怖=理解できないものへの恐怖だから)だとおもうんだけど、作中で世界の外側はないって言われてるから、やっぱそのまんま受け取って「神」じゃねぇかなぁと。

なんでクトゥルフ?ってのは多分作者が好きとかそんな理由ではなかろうか(テケリ・リとかまんまよね)

終ノ空

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結局これはなんなんだ、というお話。

「痛み」とかの話をしているから、独我論からの他者を探そうとしたのではないかと勝手に考えている。

最後の水上由岐が消えるシーンは、水上由岐=プレイヤーと考えると、プレイヤーが消え去る(ゲームが終わる)というふうに捉えられるのではないかなと。

序章の銀河鉄道よろしく、水上由岐が「素晴らしき日々」において幸福を探しその道を歩き始めたように、我々も目を覚まして(ゲームを終わらせて)幸福を探しに行けよ、みたいな話だろうか。

音無彩奈の「始まりの地点」みたいなのは2周目推奨的なあれかな…?それか我々が幸福への道標を見つけた=幸福へ至るための始まりみたいにも取れる。

音無彩名が岩沢美羽(日常の象徴)と最後に話したのは、我々が日常へ戻ることへの暗示、それか「サクラノ詩」が日常を描いたものなのでそれへの伏線かなぁと。

まぁここらへんは考えてもしょうがない感じはありますね。どうとでも取れるようにしてあるんでしょう(音無彩名の仮定~のくだりがいい例です)

 

ちょっと考えたこと

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運命をどのように扱うについて。

むしろ意志は本当に脆弱で、運命に対してなすすべがない、という話が頭から離れないのでここに書き記しておこうと思う。

ウィトゲンシュタインはそう考えているかもしれないが、この素晴らしき日々においてはそう考えてはない(僕が書いた「決別」のように考えてる)と思う。

この理由は、「運命に勝つ」ともう書いちゃってるからである。

意志が世界の様相を変化させる(事実を変化させることは出来ない)とすると、もう少し別の書き方があったのではないかな、と。

そもそも、運命が絶対のもの、永遠の相の下が必然のもの、と書いているのは「幸福」に至る道のためである。

世界の事実を変えようとする(運命に抗う)意志の力が働く時は、幸福ではないと感じているからではないかな、と。

意志の力は弱いのは変わらないけど、それに運命が負けることがあるよ。っていう感じではないのだろうか(むしろ勝てないことのほうが多い。我々が望むものがすべて起きるようにするのではなく、むしろ本当に願うこと(多くの意志の力)が運命に勝つことがある(絶対に勝つわけではない)という話ではないだろうか)

それこそが、今を生きるという意味でもあるのではないか、と思う。

(追記)

今更だが、一つ補足を。

この運命というものを、どう扱うかにおいて、ウィトゲンシュタインは抗えぬもの、決定された絶対のものとして捉えていたわけだ。

しかしじゃあ素晴らしき日々においてもそう捉えられていたのかというと、そうとも限らない。

運命勝った理由としては、ひとえにキャラクターの勇気(前に進む意志、生きる意志のことだな)があったことは前にも述べたと思う。

ウィトゲンシュタインは「絶対に変えられない運命において」人はどのように幸福に生きるかという話をした(そしてその結論としてが認識の生だ)が、対して素晴らしき日々は「変えられる運命において」の話である。この2つは近しいようで非常に分かたれて存在している。

だがしかし、我々の現実世界において運命とはどのようなものだろうか、ということを考えた時、この運命とはウィトゲンシュタイン的なものではなくむしろ素晴らしき日々的な「変えられる」もの(そもそもそんなものがあるのかすら怪しいが)として存在しているというのが一般的な見方だろう。

要するに、ウィトゲンシュタインは仮想空間での(言ってしまえば氷の上での)話をしていたわけだ。対して、素晴らしき日々では現実世界での(これこそ「ザラザラした大地」であろう)話をしたかったわけではないか。

作中において、皆守が打ち破った重力という絶対の運命。これこそが素晴らしき日々においてウィトゲンシュタイン前期との決別との象徴ではなかろうか。

(余談だが、一つまとめておくと、ウィトゲンシュタインは運命というものを導入することによって世界に必然性みたと私は考えている。その必然性が、世界のものを等しく無価値に見ることが出来る、つまりは「世界を正しく見ることが出来る」ことにつながり、故にどんな悲劇も認めることができたわけだ。(『世界を正しく見るために』参照)ここにおいて、ウィトゲンシュタインは世界を「肯定」することが出来る。ウィトゲンシュタインによれば、世界は主体と同一なので、主体を「肯定」すること、すなわち(少し飛ぶが)「主体の生を肯定する」ことが可能となるわけだな。これこそが「幸福に生きよ」の前段階、すなわち認識の生に至る順序だと考えている。(ようするに、どんな悲劇がその人に起こって、運命があるためそれを回避できないとしても、その人の生を肯定する作業というわけだ)

では素晴らしき日々ではどうだったかというと、運命が取り去られたここにおいて、世界に必然性を見ることが難しくなってきている。ここにおいて問題なのは、世界の中にあるどんな悲劇も簡単に認めることが難しくなってきている、ということのみである。さて、この解決方法はきちんと作中に示されていて、それが「人はよかれと思い…地獄への道を歩いて行く…」という部分である。(『幸福の刻印』参照)つまり、どんな悲劇もその人が、あるいはそれに関わった人達がただ自らの幸福を願ってしたことなのだ。それはきっと何よりも美しいものだろう。ゆえに、どんな悲劇も、幸福に生きよという声が囁く限りそれは美しいものとして映るわけだ。そして世界は美しいもので満ちていく。こうして世界を「肯定」することが出来るわけだ。だがしかし、それが難しいのはエピローグで皆守も語っている。「それは単純だし、誰もが知っている答えでありながら、到達することは厄介極まりない…。何故ならばこの言葉には、必ず神がいるからだ。神は、嘘も不正も、まがい物も癒やしさも、汚さも…それらすべてのものの存在を許している。どんな不条理が俺たちの人生に降りかかろうと、それでも神は我々に言うであろう。”幸福に生きよ”」それは要するに問いかけである。どのような悲劇が、汚物が、悪徳が存在しても(というかするのだが)、我々は美しさを認め続けられるのか、と。ゆえにこれは到達するのが難しいと書いてあるわけだ。しかし、それでも神様は変わらず「幸福に生きよ」と言い続けるのだろう…。

素晴らしき日々は確かに現実の世界にいる我々に向けての旋律だが、しかし我々はその旋律を弾くことが出来るのだろうか、という感じだろうか。難しい話である。)

感想

さて、これで考察は終了。

4年前にプレイして、その後ずっと悩んでいた話だったので、完結させることが出来て達成感ですね。

作業自体は4ヶ月くらいかかっているのですが、あんまり出来ない期間があったり、色々やり直したりで実質2ヶ月位でしょうか。

長さ関係から本文を容赦なく略したりぶちぎったりしてますが、様々なシーンが美しくて、うわすげぇなぁ、という感想でした。

希実香ENDと皆守が羽咲を助けるところの2大落ちポイント(?)は良い文章でしたね。多分一生忘れない。

初見時、皆守が羽咲を助けられたのは、序章でざくろがぬいぐるみを浮かそうとしたからなんじゃないかなぁ、とか妄想してたんですが、そういう記述が一切ないので本当に妄想で終わりました。そういう話があってもいいじゃない!素敵じゃない!という感じで。

以下、参考にしたサイトと本とか。

・fartheskyさん(http://d.hatena.ne.jp/skezy/20120505/1336229857

非常に参考にさせてもらったサイト。ムーア命題とかから幸福に生きよを出してるあたりさすがだなぁ、とか思いました。

・udkの雑記帳さん(http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-697.html

僕は素晴らしき日々以外をやってないので非常に助かりました。

しゅぷれーむとかH2Oあたりはやろうかなと思ってたり。

・なんでも批評空間さん(http://nandemokansou24.blog.fc2.com/blog-entry-5.html

簡潔にウィトゲンシュタイン論理哲学論考と重ねて検証した所。

ウィトゲンシュタインの記事にも助けられました…。

素晴らしき日々~不連続存在~公式ビジュアルアーカイヴ

たまに思い出すために読んだり。結構楽しいのでまだ勝ってない人は是非!(ステマ

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む 野矢茂樹

おそらく、これを参考に素晴らしき日々を作ったのではないかと思うほど重なる部分が多かったです。ウィトゲンシュタイン難しくて無理!という人も13章の「幸福」についてだけ読めばいい!そしてウィトゲンシュタインのカッコ良さに惚れるが良い!

ウィトゲンシュタインはこう考えた 鬼界彰夫

今回はすりあわせように使わせていただきました。

序章とかの、ウィトゲンシュタインが自分のために自分の哲学を作り上げた、と言うのはなぜだか涙が出そうになりました(だろうなぁ…というかんじで)

・他、ウィトゲンシュタインの著作

いちいち上げるのめんどくさいのでひとまとめで。

反哲学的断章まで買ったはいいんですが、結局使わなかったなー、と。

まぁ楽しめるものなので構わないんですが。

 

…結局、救世主さまの説法メモしたけど使わなかったなぁ…

とかまぁ、そんな感じで!

 

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そして僕たちは、向日葵に見送られながらあの坂道を行く…

幸福へと至る道…

太陽は沈み、月が僕らをほのかに照らす…

じきに夏も終わるだろう…

その時、僕は、そして、君は…

たどり着けるのだろうか…

素晴らしき日々へと…

 

(終)