ブランド:シルキーズプラス ワサビ
シナリオ:かずきふみ
公式サイト:あけいろ怪奇譚
朱子と、原田先輩が…大事なことを教えてくれた。
二人の想いは、確かに俺の中に息づいている。
『言葉は力を持つ』
突拍子もないと思う方もいるかもしれないが、これは古来より信じられている「呪(まじな)い」の一つだ。言霊、忌み名、真名…。言い方はいくつもあるし、信じられている場所も昔の日本だけでなく、多くの場所で見られる「呪術」である。
言葉、というと少しわかりにくいかもしれないので、ここは名前を例にしてみよう。
例えば本作の主人公、佐伯社だが、彼は霊にとても懐かれやすい体質を持っている。土地神のるりとるか曰く
「名は体を表す」
「社はお社」
「魂の安息の場」
「ゆえに例の寄る辺となる」
――るり、るか
とのことだ。
霊的なものの話をするときに、名前というのは非常に大事になってくる。なぜならそれは名前が「存在を規定するもの」だからだ。
そう。山とか海とか樹とか草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするに、ものを縛ることよ。ものの根本的な在様を縛るというのは名だぞ。たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる。この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何でもないということだ。存在しないとも言える。
名前につけられた願いというものがあるだろう。「この子はこういうふうに育ってほしい」「この子の人生はこうであってほしい」…。親の願いが子の名前となり存在を規定する。名前をつけるということは非常に大事な契約なのだ。*1
さて、今まで偉そうに語ってきたこの「言葉」だが、本当にこの「言葉」自身に力はあるのだろうか?
「言葉」は記号の配列でしかない。誰かが話したとしても、それは空気の振動でしかないし、こうやって書かれている「言葉」も還元してしまえば0か1の情報の塊にすぎないだろう。どれだけ人を感動させた文学だとしても、それはインクの染みと本質には変わらない。
では、なぜ「言葉」は力を持つのだろうか。
それは、そこに「想い」を見出す人がいるからである。
私達が文字の意味を理解すると同時に、その文字に込められた「想い」も理解しようとする。もちろん、意味を誤解してしまうのと同様に「想い」も誤解してしまうけど、それでも人は「言葉」に込められた「想い」も読み取ろうとする、いや、してしまうのだ。
呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。ブラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪うという。呪いは言葉だ。文化だ。
だからこそ、言葉は力を持つ。人がその言葉に込められた想いを読み取ってしまうから。
それは気遣いであったり、善意であったり、優しさであったりするかもしれないけど、同じように憎しみであったり、悪意であったり、殺意もあるだろう。
『言葉は力を持つ』
だからこそ、この言葉は、こう言い換えられるかもしれない。
『想いは力を宿す』
以下、各ルート感想といろいろ。
(ネタバレ注意)
*1:そういう意味では、るりとるかの名前を社がつけたり、ベルベットの名前を葉子がつけたり、葉子が名前を数年で変えたりするのは一つの伏線であったわけだな。名前をつけるのは存在を規定させる主従に近い関係として、名前を変えるのは縛られないようにするためとして。……というか今気づいたけど、葉子って妖狐の書き方を変えただけなのだな…。