5月病の皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
お久しぶりです。生きております(定例挨拶)。
そんなこんなでもう5周年。5周年企画をやると言っていたのはいつの日か…。
いえ、ちゃんとやりますがそれは次の記事辺りで、ということで。
実は積みゲー、積み本を結構いいペースで消化できていたりして。最近は「合わないなー」と思ったものは投げたりしてるので、そこら辺の思い切りの良さは溜まってしまう人間にはどこかしら必要なのかな、と。
体験版やらずにライターとかブランドで買ってしまう人間なので、たまーに地雷踏むんだよなぁ…。いや、反省する気はないのだけど。
というわけで今回は『アルテミスブルー』『きまぐれテンプテーション』『沙耶の唄』について。
いつもの通り、以下ネタバレ注意で。
アルテミスブルー
どんなに遠くても、どんなに困難でも、
人間って生き物はいつかそこに辿り着いてしまう
あの『アルテミスブルー』だって、そろそろ『梯子』の一つも掛かっていい頃だと思わないか?
美少女ゲームなのに女性主人公、美少女ゲームなのにアメリカ映画風味。
怪作にして傑作、あっぷりけ妹が放つ異色こと本作「アルテミスブルー」。
実はプレイ前にほとんど情報を持っておらず、DMMのあかべぇまとめ買いで買ったんですけど、いやこれは本当にすごい作品でしたね。
僕は結構、主人公に感情移入してプレイすることが多いんですけど、そうなると女性主人公って相性悪くてあんまり楽しめないんですよね。アトリエシリーズとか、同人RPG系とか…。
ただ、本作はハルがキチンと女性らしい主人公さを発揮していましたし、物語として非常にうまくまとめ上げていたと思います。二人の男性との間で揺れ動いてたり、アリーを娘として可愛がるところとか、エロゲヒロインとしては絶対できないようなことをやりながらも人間的な魅力は決して損なわれない。
そういった”お約束”を壊しながらも、プレイヤーにうまく納得させるのは、作品の空気作りが上手だからでしょうね。こういう作品がもっと増えてくれればなぁ、とか。
あと、所々で見る「ラストがちょっと」という感想について。
まぁぶっちゃけ、この感想には同意というか、話の軸が最初~中盤とラストでズレてしまったように感じてしまったのはちょっと問題だなぁ、と。
桂馬の過去編以外は基本的にハルが「子供」から「大人」になる成長の物語ですし、わりとそこまでの伏線はきれいにまかれてます(今日子とかアリーとかマリアとか)。
ただ、一方でラストはハルと建夫と桂馬の3軸に分かれてしまうというか…。つまり風呂敷の広げ方と畳み方が一致してないんですよね。別にこの3軸に分けるのはいいんですけど、ならそこまでの過程もキチンとプレイヤーに実感させなきゃ意味がない。
正直、ハルを軸に桂馬がサブくらいの認識だったので、ラストはそういう感じなのか…と放心していました。例えばハルにとっての「大人」って亜希子がその目標だとは思うんですけど、じゃあはたしてハルはそうなったんですか?それとも別の「大人」像を見つけたんですか?とか。
うーん、途中まで面白かったからこそなおさらラストがもったいない、という感じですね。
それと、一応本作の元ネタらしい「ライトスタッフ」*1もちゃんと見ました。あれは名作ですし、本作の所々のシーンも納得はしました。ガムとかね。てか見ないとわからないだろアレ。
お気に入りキャラはハル、亜希子、アリー。
亜希子…最初は負けヒロインとか思っててごめんな…。
そしてこの記事を書きながら本作にTIPS機能があることを思い出しました。あったなーコレ…(プレイ中忘れてた)。
きまぐれテンプテーション
神様は
どこにいる
かずきふみに一本道サスペンスを書かせたら約束された勝利の剣ということは確定的に明らか。
なんというか、シルプラは本当に”わかってる”メーカーなんですよね。ミドルプライス作品を作る時もキチンと妥協せず、むしろ「ミドルプライス」だからこそ面白い作品を作る。正直発表された時点で勝ちは決まっていたんです。顧客の求めていたものはこういうものなんだよ。
買うのは決まってたので、特に前情報を仕入れてなかったのですが、コレ「ななリン」と同じ世界観なんですねぇ。このシリーズは地味に続いてほしいなぁ。
んで、以下マジの余談なんで「作者が意図してないことを語るんじゃない」派の人は注意。僕は今から妄想の話をするぞ!
物語の中盤辺りまで「神様」という存在を主人公達は疑っていて、このマンションでもずっと探し続けていた。
結局その「神様」は「神様」ではなく、ただの幽霊だったわけだけど、神と幽霊の関連を考えるとちょっと面白い話なのかなぁ、とも思う。
神は当然<カミ>と呼ぶけど、実は霊も倭訓では<カミ>と呼ぶことがある。例えば神道で言う「祖霊」なんかは西洋的宗教観では<カミ>に違いない。つまり、霊という字はキチンと聖性を持つものなのだな。
だけど、それは昔の話。霊がカミとしての意味を持つのは、神道的価値観が浸透していた時代のことで、西洋的な「神」が輸入されてしまった今では、その<カミ>としての意味を「神」に取られてしまった。つまり、「霊」という言葉には何の意味も与えられず、ゆえに「幽霊」や「祖霊」といった複合系でしかカタチを残せなくなったのだそうな。
…だから、霊を通じて「神」になるのは、実は筋が通っている話ではあるのだ。けれど、人が死を通して霊<カミ>になるのはただ一つ条件が必要だった。それは祀られること。徳川家康然り、平将門然り、菅原道真然り。それが善であれ悪であれ、人は死んで祀られることによって霊<カミ>になる。
ゆえに、彼女が神になれなかったのは当然のこと。生者に認められない死者など、意味のない物質でしかないのだから。
という妄想話でした。多分作者の人そんなこと考えてないと思うよ(考えてたらそこら辺の説明をちゃんとするはず)。
そもそも西洋モチーフですしね。ななリン世界観は仏教ワールドだとしても、神道的価値観が入り込む余地はないのです。
ただまぁ、こういう妄想をつらつらと考えるのは楽しいですね。例えば天使たちの痣とか、ロゥジィの髪飾りとかが結構特徴的だったので「黄道十二宮なのか…?」とか邪推したり(ちなみに区分けは天使の痣:キャンサー/ロゥジィの髪飾り:トーラス)。登場人物が6人しかいない時点でそうじゃないって気づけ。
お気に入りキャラはアンネ。
てゆーかE-moteがちゃんと動いてるの久しぶりに見たかもしれない。
…え?霊と神の話が違う?
そーゆー指摘は僕じゃなくて御大の「妖怪の宴 妖怪の匣」に言ってください(最悪)。
沙耶の唄
沙耶と一緒にいられるのなら、僕はもう何もいらない。何もかもこのままで、いい。
愛するものと世界を秤にかけた時、世界すべてが壊れてしまっただけのお話。
みんな口をそろえて「純愛ゲー」といいますが、まさしく純愛ゲー。
本作についてあんまり語る言葉を持ってないんだけど、本作の愛とは「本当に欲しいものを埋めてくれるアナタ」だったのかなぁ、と。
誰もが悪いわけではなく、誰もが信じたもののために行動し続けた。
まぁ雑にまとめてしまえば、巡り合わせが悪かった(あるいは奇跡的に良かった)んだな。まさしくヒューマンドラマ。
短い中でも、話の緩急と郁紀がだんだんと狂っていく描写を丁寧に描くのは流石虚淵の一言。
退廃と腐敗と善意と純愛と───狂気。
それはまさしくクトゥルフ的な悲劇だろう。
つーか同じメーカーで同じクトゥルフモチーフで、デモンベインとここまで差が出るのはライターのせいなのか…?
お気に入りキャラは沙耶と瑤。
ENDは実は病院ENDが結構お気に入りだったり。