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アニメ:ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った? 感想 ―リアルとネットを区別する必要って本当にあるんですか?― (2921文字)

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私も、できることならそうしたいです。

けど、リアルはしんどいです…。

 

制作:Project No.9

原作:聴猫芝居

イラスト:Hisasi

 

萌えゲーの感想しか載せないと思った?

残念!アニメの感想も載せるのでした!

 

というわけでアニメ「ネトゲの嫁は(以下略)」の感想。アニメ分しか知らないので、原作の方と齟齬があってもしょうがない。よくあるよくある。

今回は「ネトゲの嫁は」が示している次世代のネット民のお話。昔書いた「ネットの世界を現実に持ち込むということ」や「フィクションは夢想か」にもつながっているので良かったらどうぞ。

 

 ネットとリアルとゲームとキャラと

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ネット黎明期。ネットは「ここではないどこか」という認識をされていた様に思える。少なくとも僕には村社会における「異界」のような、理解できない恐怖に支配されていた空間、それこそがネットだった。だから、ネットはリアルと区別されるべきものであり、個人情報をネット上にアップするなんてもってのほかだった。

主人公の英騎も過程は違えど同じように、ネットとリアルは区別されるべきものと考えていた。彼はとある女性キャラクターに恋心を抱いていたが、その女性キャラクターはネカマだった(まぁ実際は女性だったのだけど)ことから、ネットはネットの世界として楽しむべきと考えていたのだ。

 

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ネットがリアルと繋がった現代。ソーシャルネットワークやAR(拡張現実)によってネットがリアルの先にある公共性を有したイマでは、ネットから「よく判らないという恐怖」が剥ぎ取られ、「異界」が「現実の延長線上」へとシフトしていった。

だから個人情報を簡単にネットに上げてしまったりなどの、現実にリンクした問題が多くなってくる。ネットは良くも悪くも「日常の一部」になってしまったのである。

 

クラスメイトの奈々子は詳しく描写されていないが、おそらくこの立ち位置だろう。友達がやっているからネトゲを始める。だけどそれはネトゲにハマったからではなく、あくまで「友達と仲良くするツール」としての利用なのである。だからネトゲ部には入らないし(ネトゲ部の人間とは方向性が逆なのだ)、ネトゲのタブーを平然と犯す。彼女にとってネトゲとは「異界」ではなく「現実の延長線上」なのだ。

 

 

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ネットがリアルと混ざりあった未来。ネットが限りなく人に近づき、人がその二つを分かつ事のできなくなる、いつか来るであろう時代。

「異界」から「現実の延長線上」へとシフトしていったネットだが、おそらく次に来るのは「閉鎖的なネット」だろう、と僕はこのアニメを見て思った。

ネットという「ここではないどこか」が「ここから先にあるもの」へと近づいて、最終的には「ここにしかないもの」に変わっていく。つまり、個人のネットによる村社会化だ。例として言えば、IoTや行動ターゲティング広告があげれられる。個人にコミットしすぎるインターネットは個人の世界を広げることをしない。目当ての本を買うためにふらりと立ち寄った本屋で偶然「人生を変える一冊」に出会うことのないように、個人の価値観を固定したまま、ただ『好み』の情報だけを与えられるのだ。

 

ヒロインのアコはリアルとゲームの区別がついていない。いや、それはつける必要がない。なぜなら彼女にとってリアルとネットは、二つとも欠かすことの出来ない一つの世界の要素なのだ。世界を分かつ必要などない。…彼女はどこまでいっても世界を分ける事を知らない。だから彼女は人によってキャラを変えないし、変えることが出来ない。それは眩しいほどに純粋な存在の在り方。だから自分という在り方をそのまま受け入れられなかったリアルに対して忌避感を覚える。彼女が不登校気味だったのは、英騎や茜、杏が自然とやっていた「キャラ」を作れなかったからなのだ。

でも、ゲームが日常の一部であるように、「ルシアン」も「英騎」の一部だろう。彼らが作った(あるいは我々が作っている)「キャラ」というのは、どこまでいっても「私」の一部にすぎない。*1世界を分ける必要がないアコは、同時に自分を分ける必要がない。だから「ルシアン」は「英騎」で、「英騎」は「ルシアン」だ。彼女は「ルシアンという英騎(また英騎というルシアン)」を好きになったのだから、それをわざわざ分ける必要はない。

 

5話。リアルが辛くなったアコは、世界を変えようとゲーム内で転生しようとする。笑い話に見えるかもしれないが、世界がたったひとつしかない彼女にとって、ゲーム内で生まれ変わることは本当に自殺することと同義なのだ。その重さがわかったから、ルシアンは「リアル」と「ネット」が別だと説得するんじゃなく、ただ一緒に遊んで一緒にいてくれた。リアル(ネット)は辛いけど、ここには英騎(ルシアン)がいるから、と。いつか上手く行かなかったら、辛かったら、俺が一緒に遊んでやるからと。

そうした思いが伝わって、アコは前を向いていろいろな人と関わりだす。

まだ、いろんな失敗もして、子供みたいな駄々もこねるけど、それでも彼女は他人と関わって「社会性」を身に着けようとしている。

きっとそれはネットとリアルが混ざりあった未来への希望。ネットとリアルが区別なんて、きっとつかなくても僕らは誰かと語り合って笑い合えるのだ。

 

総評

さらりと見ていたら結構奥深くて、コレもしかしたらネットとリアルの話なんじゃないか…?と思い始めたらクリティカルな話題しか出てこなくてびっくりした。

そういえば、アコが奈々子を生理的に無理と言ってたのはリア充どうかというより、世界に対するスタンスそのものなんじゃないのかなぁとも思ったり。まぁ非リアからしたらリア充なんて基本的に生理的に無理ですよね。闇属性と光属性は混ざり合わないのです…。

いやぁ、アコかわいいなぁ。原作も買ってしまうか…。

 

 昔、ネットの世界を現実に持ち込むということ」というタイトルで一本書いたけど、今更ながらこれは修正しなければなぁ、と思う。

ネットってのはどうしても人間が持つ悪性をすくい上げやすい体質を持つんだけど、それを上手くふるい分けられる人間ってのはやっぱり限られてきてしまった。ネットとリアルの境界線が曖昧な今、本当に大事なのは「世界にはキミとは違う価値観が存在する」という当り前の事を教えてあげることなんだなぁと思う。それを見て見ぬふりして「静かに生きさせてくれ!」ってのは少しばかり無理な時代になってきてしまったのかもしれない。

まぁでも結局、ネットでどうしようもない奴はリアルでもどうしようもないんですけどね(ブーメラン)。

 

終わり

*1:例えば、僕にはどうしようもない暴力性というもの少なからずが在ると思う。好きな人を自由にしたい、人より上に立ちたい、些事にこだわらずお金をパーっと使いたい、などなど。そうした暴力性を抑え込んだ「私」を社交的な「キャラ」として使い分けるとしても、それは「私」の一部である。逆に、誰かに気を使ったり、優しくしたりするなどの善性も少なからずあるだろう。そういった善性を抑え込んだ「キャラ」も「私」の一部だ。「私」というのは、決して「キャラ」から分かたれることはないのだ。