古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

あきゆめくくる 批評 (4432文字) ―ラブコメディと共に―

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僕は轟山が言っている言葉の意味がわからなくて怖かった。

だけど――。

だけど、きっと、轟山が本当のことを言ってくれたのは、間違いなくて……。

「もっと説明してくれたらわかるかもしれない。だから、もっと喋ろうよ」

 

ブランド:すみっこそふと

シナリオ:渡辺僚一

公式サイト:あきゆめくくる

 

閉鎖空間ループ系ハーレムSF季節シリーズ第三弾、あきゆめくくる。というか、シナリオ氏は何かこういう題材じゃないといけないみたいな呪いでもうけてるんでしょーか。たしかどっかで、すみっこそふとでの仕事は自由にやらせてもらってるという旨の発言を見かけた気がするんですけど、これは果たして自由なんでしょうか。たしかに自由というのはむしろ規則があって初めて成り立つものではありますけど…何の話だコレ。

 

そんなこんなであきゆめくくるの感想です。

うーん、ちょっと土織キスちゃんが可愛すぎてヤバイですね。いえ、まったくこれっぽっちもロリコンではないんですけど。

個人的に、猫撫ディストーションの琴子みたいな、いわゆる「ロリ哲学」ジャンルが結構好みで(いわゆるのか?)。哲学的だったりSFチックな作品の解説役にロリを当てるというのはあれですね、コーヒーに砂糖を入れる感覚ですね。

 

というわけで以下感想。ネタバレ注意で。

 

 

 わたくしといふ現象

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存在するとは知覚されることである。

――ジョージ・バークリー

 

「私」という存在は、言わば原子の集合体だ。作中の世界観をトレースするなら、最小単位であるひもの集合体となるだろうか。

どちらにせよ、私の体はDNAによって、私の脳はコネクトームによって記憶されている。そこに超常的な何かを見出すことはできず、私というのはつまり「有機交流電燈のひとつの青い照明」であると言えるだろう。

そんな「有機交流電燈」は、量子論の観点から見るととてもあやふやなものなのだそうな。二重スリット実験の結果では、物質は粒子と波動の二重性を持つことを示した。つまり、「私」を構成するすべての物質は粒子であり同時に波でもあるのだ。だから、「私」が今すぐ消えてしまうことだって、月の裏側に移動してしまうことだってあり得るらしい。

 

だが、そんな量子を粒子の姿に繋ぎ止めているのが「意識」であり「観測」だ。

二重スリット実験の観測問題。スリットを観測することで電子は粒子としての振る舞いをする。「観測」こそが存在を確定させるのだ。「私」が存在しているのは、誰かが「私」を「観測」するからなのだ。

 

意識は存在を決定する。『ウィグナーの友人』のような、終わりなき観測の連鎖。その連鎖の始まりを、ジョージ・バークリーは『神』と定義した。*1意識を脳の中ではないどこかに置いた彼らは果たして、文字通り世界を作り変える事のできる神様だったのだ。

 

きひひひっ、ちーくん。やっぱり好きなんだ。

私のことを理解できるのはちーくんだけなんだ。

ちーくんのことを理解できるのは私だけなんだ!

―――轟山サトリ

 

傷だらけの体で

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恋愛は拷問または外科手術に酷似している

―――シャルル・ボードレール

 

主人公であるちはやは、結局最後までボロボロになって生きていた。最初の頃は自分の本当の在り方に目を背けていたけど、彼の在り方は徹頭徹尾誰かのためにボロボロになることだったのだ。右腕が捻れたあの時から何も変わらず、彼は最後まで誰かの為に傷つき続けた。

でもそれは、彼の「誰かといたい」という願いの裏返しなのだ。自分が傷つけば誰かは自分がいることを許してくれる。彼はそういう自分の歪みをキチンと自覚していて、それでいてその歪みを良しとしてオイルコンデンサに手を伸ばした。

 

恋愛とは痛みだ。自分一人でも持て余すものを、恋愛なんて物に手を出したら恋する人の分まで抱え込まなくてはいけなくなる。ヒロインの問題を一緒に抱えて悩んだちはやだったり、ちはやに恋して多くの宇宙を渡り歩いたサトリだったり。

恋をしなければ何も起こらなかった。それでも、彼らは恋をしたのだ。それは決して受動的なものではなく、むしろ積極的なものとして。

それこそがラブコメディである。積極的な恋をすることを彼らは始めたのだ。

ブコメって積極的な意思がないとできないと思うんだ。

楽しい日常にしようっていう努力が必要なんだ。

普通の恋愛じゃ、傷の舐め合いになってすぐ潰れる。

―――ちはや(歩ルート)

誰かのためにボロボロになって、傷ついて、それでも絶対幸せになる。

そういう強い意思こそが恋愛の先にあるラブコメなのだ。

不幸は簡単だけど、幸せになるには覚悟が必要だよ。

だって、僕らは日常に幸せを感じることにだって、努力しなきゃいけないんだ。

―――ちはや(柚月ルート)

物語の終結は、あるいはラブコメの始まりは、落葉という形を伴って現れる。

いつまでも秋の、終わりがない夢の世界は、なるほど心地いいのかもしれない。

「秋が来て、ずっと秋だったらいいのに」と思うかもしれない。秋の終わりに待っているのは現実という冬の厳しさだ。

だけど、それでも、誰かと共に生きると決めたちはやなら、大事な人のためにボロボロになれる彼ならどこまでも歩いていける。ボロボロになっても、ラブコメという幸せになる意思がある限り、いずれまた秋は巡ってくる。

暗くなっちゃ駄目だ。気持ちが潰れたら本当に終わる。

楽しくやらないとダメなんだ。

 僕らにはラブコメが必要なんだ。

 

僕とラブコメをしよう。

―――ちはや(キスルート)

 

エピローグの最後。秋/ループが終わったその後の物語。

卒業ということはつまり、彼らは現実という冬の厳しさと戦っていくのだろう。

変わらないものがあって、変わってしまうことがあって。

だけど誰かのためにボロボロになれるのなら、誰かとラブコメが出来るのなら、心から良かったと言える瞬間が来る。

あきゆめくくるは、そういう幸せになる覚悟の物語なのではなかろうか。

 

 

――これで。

いろんなことがようやく終わって。

いろんなことが始まるんだと思う。

きっと、僕はこれから何度もボロボロになるんだ。

でもこういう瞬間があるなら、それはいいことなんだろう。

きっと、そうに違いない。

 

秋の、こういう、瞬間に――。

僕らはきっとたどり着ける。

 

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僕らが夢想したIfの世界、あるいは祈りについて

「彼らは残虐非道の鬼になったり、極悪人や豪傑の判を押されたそのときに、遡って過去ができたのだ」

量子力学みたいじゃないか」

「そうさ。鬼は常に<異常な出産>によって産まれなければいけない、そういった強い民俗社会の共通認識が過去にはあったわけだ。(中略)因果関係の逆転だ。鬼だと観測された時点で遡って、異常出産という過去が形成されるわけだ。」

―――姑獲鳥の夏(著:京極夏彦

人は「今」しか認識することしかできない。未来はだれも見たことがないし、過去に意識を移すなんて聞いたこともない。もしかしたら意識だけを過去や未来に飛ばせる時が来るかもしれないけど、意識それ自体はどこまでいっても、その意識にとっての「今」しか認識することができないのである。

 

認識が存在を決定するという話は先にした通りだが、人が「今」しか認識できないのなら「過去」というものがいかに不安定なものかが分かるだろう。世界は5分前に創られたという仮説を覆すことはできないのだ。それは「今」しか認識できない人間にとって永遠に付きまとう疑惑である。

「過去」が持つ不安定さは、言わば物質が持つ不安定さと同じだ。それは人の意識がなければ確固たるカタチを保てない。だから、「過去」とはかつて在ったモノなどではなく、「今」作られたモノなのだ。

 

過去が「今」作られるのなら、どんな過去が在るのかはそれを観測する人間の匙加減だろう。ならば、「今」の私たちがそういう過去を思えば、それは過去として存在する可能性があるとは考えられないだろうか?

人の歪んだ価値観が過去を作るのなら、人の純粋な祈りが過去を作ってもおかしくはないのではないか?

 

「にひひっ。ちーくん、あのね、えっと……結論から言うと、私はいつだって祈っているんだ。

私が幸せになれますように、って」

「僕も祈ってる」

「えっ?やっ、やっぱりちーくんも?」

「みんなが幸せになりますようにって祈ってるよ」

―――サトリ、ちはや

 

観測者の祈りは過去を変える。

つまり、プレイヤーの「サトリに幸せになって欲しい」という思いこそが、作中のサトリには認識できなかった「ちはやとサトリが理解し合える世界」の過去を作ったのだ。

だから、あのシーンは唐突に始まって唐突に終わる。あきゆめくくるの中には決して必要ではなく、しかしあきゆめくくるを一つの物語として見た時どうしても必要になるシーンこそが、あのシーンなのだ。

 

 

 

どうやら愛の目的は生殖ではないのである

―――池澤龍彦

 

 

 では果たして、愛の目的とはなんだったのか?著作内で池澤龍彦は「存在の飢え」ではないかと書いている。なるほど、確かにあきゆめくくるの世界内でもその答えは通用しそうである。不完全だからこそ埋め合う、誰かといるからボロボロになっても前にすすめる。もはや狂気的ですらあるそれは、ともすれば非合理的な愛なのかもしれない。

だけど僕はこうも思う。

愛とは祈りではなかろうか。愛とは願いではなかろうか。愛の目的とは自分を含めた誰かの幸せではなかろうか。

サトリの過去を作り出したプレイヤーの愛は、悟性的認識などではなく、むしろ非合理なもの、狂気のようなものではなかろうか。

 

雑感

観測者問題のあたりで薄々気付いてたんですけど、これってあきゆめくくるを見てる観測者(プレイヤー)を指してる比喩メタだったんですよねぇ。

プレイヤーの立場に一番近いのは、主人公のちはやというより観測者のサトリで、そのサトリが主人公に拒否され続けてるってので、物語論の面でなんかもう一テーマ書けそうな気もするんですけど、さすがにそこまでやると主旨から外れるのでお蔵入りに。

 

愛の目的は祈りという見解を僕は示したわけですが、これは「観測」とも言いかえられて。そこらへんはサトリの心情を汲んでいただけると分かりやすいと思います。ルルランのループは彼女が作り出していたわけですが、ちはやがラブコメをすると覚悟を決めたら落葉するというのはテーマ的な意味合いプラス、サトリの愛なわけなんですよ。何だコイツ尊すぎか。

そう考えていくとちょっとさとりん可愛すぎなんですけど、僕の一番はキスちゃんなんだ…ゴメンな…やっぱりロリ哲学には勝てなかったよ…。

 

というかキスちゃんが僕の性癖どストライクすぎて辛い。はよ!ファンディスクはよ!

 

 

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(で、結局あきゆめくくるってどういう物語だったのさ?)

(キスちゃんと全力でラブコメる物語に決まってんだろ)

 

 (終)

*1:正確に言えば、ジョージ・バークリーはウィグナーの友人を指して「神」を定義したわけではないのだけど、まぁ意味してるものは同じではないかと思う。