ここにいるすべての人のために

ノベルゲー・思想・小説なんでもござれ。思ったことをつらつら書いていきます。

8月15日:『教団X』、『サクラノ詩』など

試験的に日記を導入してみたり。

別に日記と言っても毎日更新するわけではなくて、批評作品として作る程ではないけどメモとして残しておきたいなぁ、位のものをおいておく感じで。

 

今回は中村文則著『教団X』と『サクラノ詩』について。

感想レベルの話なんですけど、まぁネタバレ注意で。

 

 教団X

530ページの長編ということで警戒していたけど、結構スラスラ読めたのは作者の力量だろう。まぁ僕がこの前に「絡新婦の理」(1300ページ)を読みきったってのもあるんだろうけど…。

 

話の大筋としては、教団Xの教祖である沢渡とアマチュア思想家である松尾の対立だと思う。二人とも結局死ぬんだけど、その死に方も破滅の中で自殺するか愛する者の腕の中で死ぬかという対比が描かれている。

人生の終わりってものを考えていった時、どうしても虚無に行き着いてしまう。例えば、僕が今何かを頑張ったとして高々80年の運命だろう(医療が発展して寿命がもっと長くなるというツッコミはなしで)。僕の子供が生まれたとして、その子供のために頑張っても結局その子供は死ぬし、もっとマクロな視点で見れば遠い未来に人類は絶滅するだろう。僕の努力はどうしたってそういう虚無に行き着いてしまう。

こういう考え方を「意識」というものに移したのが最初に松尾がビデオで語った内容だ。我々は身体の、あるいは脳の原子達を見続ける観客だ。

その事実を(事実かどうかわからんけど)どういうふうに捉えるか。

そういう虚無に負けてしまった(感情を失ってしまった)のが沢渡で、(虚)無から有が泡沫のように生まれたのだと言えたのが松尾なのだろう。

 

こういう絶対的なもの(あるいは運命と呼ばれるもの)に対してどういう態度が取れるか、というのは作中の政治の話につながっていく。

政治、あるいは社会と呼ばれる大きな流れというものに私という個人はとても無力だ。だから「どうせ何かをやったところで無駄だ」なんて諦観を示してしまう。運命に身を任せてしまうように、社会という奔流に飲まれてしまう。

それに対して問題提起をするのが靖国神社参拝の話が出てきてからだ。もちろん、これは一つの対応策であり、絶対ではないのだけど、そういう事を考えていこうぜってことだろう。

そして最後の松尾のビデオで「平和」に対しての行動の起こし方が出てくる。

勿論、誰だって「平和」を望んでいる。好んで誰かを殺したがる人間は(殆ど)いない。憎しみとか利益とか欲望とか、そういうものと殺すことの痛みを秤にかけてそれが傾いてしまうことが殺すことにつながっていくのだと思う。(正常な判断が出来る時において、という前置きは必要ですが)

 

誰だって世界を美しいと思った瞬間はあるはずだ。

気がつくと涙が出ていました。自分のような存在にでも、食べ物は幸福を与えてくれると。世界の中にある何かは、自分に対して優しいと。……味を感じられない人も、他の何かを感じるでしょう?美し風景。風景を見れなかったとしたら、美しい音。音が聞けなかったとしたら、温かな感触。感触も感じられなかったとしても――芳子の脳裏に今の高原の姿が浮かぶ――夢は見られる。生きていたら、その中で、どんな小さなことでも肯定できるものがある。

その美しさの一つが性なのだと思う。だからこそこの作品は最初から性に対し過剰なまでにシーンを挟んでくる。勿論、美しさも何も感じれない沢渡にとって性なんてものはただの作業にすぎないのだけど。

世界を美しいと思えるように、一つ一つ善を重ねていけば、いつか「平和な世界」という誰もが望んだはずの理想郷に辿り着ける。

 

そういう平和を望んでいつつも、大きな流れの前では無力だと諦めてしまったらそれで終わりだ。「利益によって人が死ぬことなど許すことが出来ないと言い続ける」こと、それは人の願いの在り方。もし誰もがそれを思い続け、それに対し歩み続ければいつかそれにたどり着ける「かもしれない」。けど、最初から諦めてしまったらその理想郷には永遠に辿りつけない。

いつかその「平和」という理想郷に辿り着くために、我々は叫ぶべきなのだとこの本は訴える。

一人じゃ無理かもしれないけど、きっと誰かと一緒だったら、みんなと一緒だったら叶えられるかも知れない。

なら一緒に行こう。一緒なら大丈夫。

 「教団X」は、多分そういう希望のお話なのだ。

(批評終わり)

 

と、まぁ作品構造をババっと語ってみたり。

傑作、とまでは行かないものの良作っちゃ良作かなぁ。個人的にあんまり政治関連の話が好きじゃないので、作品構造の発想としてはおもろいけど作品自体は結構微妙な評価かも。とりあえず人には(えっちぃシーンも多いし)オススメとしては挙げないかなぁ。「どうだった?」と聞かれれば「まぁ面白かったよ」って答える感じ。

あと視点がバラバラになったり、セリフ一気に言わせてるせいで疲れるのもある。文体と言われればそれまでなんだけど、自分にピッタリ合う作品ではなかったかな。

 

 

サクラノ詩

生きていこうとするから、苦しい

身体が生きたいから、苦しい

そういえば、親父は死ぬ前にそんな事を言っていた

苦しい事は正しい

抗っているのだから

消滅から抗っているから

だから苦しい

身体の痛みを受け入れろよ

それが生きるって事だ

 今日ふと思ったんだけど、アフォーダンスとかで身体の優位性を語ることってここの意味があるんじゃないかって。

まず人の意志ってのは、決してそれだけが独立しているわけではないんです。身体が不調だと精神も不調になるように、身体と心ってものは互いに影響しあっている。

自然は芸術を模倣する、あるいは、芸術は自然を模倣する。互いに価値を見出しつづけ、それはどちらが無くなっても成り立たない関係といえます。これはそのまま身体と心にも言えて、身体と心は決して分けられないものなわけですね。

 

だから、心が死にたがっていたとしても、身体は決して死にたがらない。身体は生きていける限り、どんな状況でも生きていこうとします。それに時に心がついていけないから、あるいは生きていこうとするから、苦しい。でもそれは生きている証なんです。

 心が優位だと思っているから、心で死にたいと本気で思ってしまった時、人は自殺してしまう。でも、身体だけだったら(動物のようだったら)きっと自殺はしないでしょう。

自殺が許される場合は、全てが許される。

何かが許されない場合には、自殺は許されない。

このことは倫理の本質に光を投じている。

というのも、自殺はいわば 基本的な罪だからである。

――ウィトゲンシュタイン

 すかぢ氏の前作である「素晴らしき日々」では、絶望のため死んで行ったキャラクターがいます。「幸福に生きよ!」に彩られたこの作品では、自殺というものは否定されなければならない。

「幸福に生きよ!」という思想は、すべての人を救うことは出来ないんです。「幸福に生きよ!」という声を聞くことのできる人だけが、自らの生を肯定できる。その声は、世界の美しさを通すことで聞こえるのですが、世界の美しさを見れない人はどうすれば良いのでしょうか?「幸福に生きよ!」という声を聞くことのないまま死ぬしかないのでしょうか?

 

これに対する反論が、今まで述べてきた「生きたいという身体の叫び」なんでしょう。身体は常に生きたがっている。それは全生物の叫びです。「幸福に生きよ!」より強い生命賛美でしょう。

だから、自殺は許されないこととして倫理に数えられる。心と身体は決して分けられず、それは同じ重さを持つものなんです。心が死にたがっていたとしても、身体は生きたがっている。身体の痛みを受け入れるってことは、生きたいって叫びを受け入れる事と一緒なんですね。

 

こう考えると、ビジュアルファンブックにあった「幸福に生きよ!の再検討」の部分がしっくり来ます。サクラノ詩って多分「すかぢ氏の『幸福に生きよ!』」なんでしょうねぇ。

 

(終わり)