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ここにいるすべての人のために

ノベルゲー・思想・小説なんでもござれ。思ったことをつらつら書いていきます。

サクラノ詩 批評 ―再び櫻は空を舞う― (38863文字)

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ブランド:枕

シナリオ:すかぢ 浅生詠

公式サイト:サクラノ詩

 

 

伝えたいこと、たったひとつ

瞬間を閉じ込めた永遠。

 

 

エロゲーの長い歴史の中で「いつ発売されるかわからないエロゲ」の代表格であったはずの「サクラノ詩」。10年の時を経て、ついに発売されました。

大体こういう「延期されたけどなんとか出したゲーム」って評判が良くない傾向がありますし、すかぢ氏の前作「素晴らしき日々」があまりにも素晴らしい出来栄えだったため、この「サクラノ詩」を僕は心の奥底ではあまり期待できずにいました。

OPも体験版も公式サイトもなるべく見ないように心がけ、満を持してプレイ。

 

……本当に素晴らしい物語でした。期待していなかった自分を殴ってやりたいほどに。

もちろん、「素晴らしき日々」とはまたベクトルが違った形の物語ですが、「サクラノ詩」もまた長い長いエロゲの歴史に名を刻むにふさわしい出来栄えだったと思います。

そりゃ萌えゲーアワード大賞取りますよ。こんなレベルの作品は5年に一度あるかないでしょう。あるんですけど。

 

と、まぁそんなすかぢ信者(あるいはサクラノ詩信者?)の僕がお送りする「サクラノ詩 批評」です。芸術とは何か、批評とは何か、美とは何か、世界とは、私とは、身体とは、心とは、そして幸福とは何か。僕が「サクラノ詩」から感じ取ったテーマを自分なりにまとめてみました。もしこれがをきっかけに貴方が「サクラノ詩」をより好きになってくれれば幸いです。

発売から半年以上たって何言ってんだって感じですけど。

 

 

というわけで、以下ネタバレ注意。

 

 

1. 比較芸術の徒

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こんな狂った嵐の夜ならーーそうだなーーそろそろ花をつけてもいい時期だなと思ってな

―――草薙直哉 (Ⅲ章・ZYPRESSEN)

 

 

本作の主人公である草薙直哉は芸術家だ。プレイ当初からある時期までは筆を折っているが、彼の確かな観察眼や知識、そして発想は芸術家のそれである。

芸術家である以上、彼にも得意とする芸術のスタイルと呼ぶべきものがあるだろう。作品内で様々な呼ばれ方をしているが、僕からすれば彼は「比較」に重きをおいた芸術家だと思う。

普通、芸術とは一つの作品内で完成されている場合が多い。美術館などをめぐってみればわかるが、同一の作者であっても作品と作品はある程度離れており、一つの作品のみに対し鑑賞することが求められる。

 

しかし、草薙直哉の作風はそうではない。

 幼き頃の直哉が見せた「糸杉と櫻」の共作。父である草薙健一郎へと向けた「桜七相図」。真夜中のプール場で吹との絵画対決の際に見せた「点描画」。ムーア展に出した蝶と水面の比較で描かれる「蝶を夢む」。そして、ブルバキによって穢されたはずの「新生・櫻達の足跡」。

彼が手がけてきた殆どの作品は、対比となる、比べられるべき存在があるからこそより輝く。

それは、単なる作風という言葉では収まりきらない。輝きとは、今まで見る者の世界の中になかった「様相」をもって現れるからこそ、より作品が輝くのだ。

 

しかし、その「比較」も、また一つの寂しさを伴って我々の前に現れることになる。

それが「在りし日」である。

 

 

2. 在りし日の歌

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ああ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐおりおりは
わが心 なにゆえに なにゆえにかくは羞じらう……

―――含羞 (中原中也

 

 

Ⅰ,ⅡとⅥ章の対比。圭を失った日々の意味。

学生のような輝きは帰ってこない。当時は素晴らしいとは思わなかったが、くたびれた大人に成ると素晴らしさがわかってくる。

…最高の美酒はその時に飲めない。幸福な時は幸福だとは気付かない。

素晴らしい時はいつか終わってしまう。それは学生時に見た幸せな花火の一時のように。あんなに幸せで楽しかったものもいつかは終わってしまう。

失われるからこそ美しい、それは”桜”に象徴的なように…。だけどそれは失われてしまうのだ。失われるから美しいと分かっていても、その郷愁は消せるものではない。永遠では失われるからこそ美しいものは存在できず、永遠を否定すれば失われることは避けて通れない。我々はそれこそ永遠に”それ”を手にすることはできない。

 

母を失い、父を失い、圭を失い、輝いていた学生生活を失い…

それでも本当に草薙直哉は幸福を感じることが出来ていたのだろうか。本作の論点はここにある。

 

 

3. 芸術評論 批評について

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批評とはそれ自体一個の芸術なんだよ。そしてね、まさしく芸術創作には批評能力が含まれていて、それどころか批評能力なしには芸術創作など皆目存在しないといえるように、そのように批評も実は語の最高の意味において創造的なのだ。批評は事実、創造的であると共にまた独立しているのだ。

―――芸術論  (オスカー・ワイルド

 

 

本作において一貫して語られてきた芸術であるが、そもそも芸術とはなんなのだろうか。

草薙父はこう語る。

芸術とは人生の批評である

―――草薙健一郎 (Ⅲ章・ZYPRESSEN)

批評とは持論を言えば「価値を見出すこと」である。批評作品なら「何かに対し価値を見出す作品」であり、批評行為なら「何かに対し価値を見出す行為」である。

そもそも「批評」ってなんだろうか?「感想」とは違うのか?「紹介」とは?
人によって色々な考え方があると思うが、僕は批評を、「作品から価値を見出すもの」と定義している。
画家が富士山から何かを感じ取り、自らの価値観を取り入れ「作品」とするように、批評家も作品から何かを感じ取り、自らの価値観を取り入れた上で「作品」としなければならない筈だ。第三者がその絵を見て、富士山の新たな魅力に気が付くように、ここを訪れてくださった方が僕の批評を読み、元となった作品を好きになってくれたなら、この上ない喜びだろう。

―――「『批評』と云う名の呪術」 (臥猫堂)

例えば僕のブログなんかも一応「批評」ブログだ。(少なくとも僕はそのつもりでやっている)物語という「(最初から)価値の無いもの」に対し、構造・テーマ・作風・キャラ造形などのを僕なりに解釈し「価値のあるもの」として一つ一つ「批評作品」を作っているつもりだ。

もちろん、人間が作っている以上他の人と被ることもあるし、僕は特に他の人の意見を積極的に自分の作品の中に入れていっているのである意味では開き直ったパクリのようになっているかもしれない。

だがしかし、僕が批評作品を作る以上、プレイした方々が作品の新しい魅力に気づいてもらえるように努力しているつもりだ。

それが批評するということであり、批評作品を作る上での義務のようにも思える。

 

さて、批評することが「価値を見出すこと」なら、芸術とは何なのだろうか?

人生の批評、つまりそれは「人生の価値を見出すこと」に他ならない。例えばそれはZypressenで里奈が糸杉の絵を見て自らの生を規定したように。あの時里奈はいずれ終わる自らの人生を、糸杉の絵を通して死という価値を見出してしまったのだ。

それは芸術が「霧」を創りだしたのと非常に似ている。あれは「霧」という価値を世界から見出した紛うことなき芸術作品なのである。

 

そして草薙直哉は、このような芸術を数多く示した。

比較芸術の徒である彼は誰かの作品と共鳴することで、その多くの芸術作品を生み出してきた。

誰かの作品という一つの価値観に対し、自らの作品を加える事で新しい価値観を生み出す。共作者にとっては自らの作品に対して新しい「価値を見出すもの」であり、それは「芸術という批評作品」を表している。

 

つまり、ワイルドも言っているが芸術とは立派な批評作品なのである。

すべての芸術作品は批評作品であり、批評作品の一つとして芸術作品が存在する。

 

作品が何のために生まれたのか、何のために作られたのか……

我々が何のために作品を作るのか……それさえ見失わければ問題無い……。
そこに刻まれる名が、自分の名前では無いとしてもだ……

―――明石亘 (Ⅱ章・Abend)

 

故にこの問い掛けに直哉は6章まで答えを出せずにいる。彼自身、そしてプレイヤーにも「芸術」とは何かが直哉父が示すまで分からないからだ。

 

 

4. 身体と心/世界と私

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ほら、二つを正確に測ってごらん…

ちがうとすれば、それは…

言葉と音のちがいほど…

(エミリ・ディキンスン)

 

 

 芸術作品が世界から自分なりの「価値を見出すこと」であるなら、世界と(価値を見出す)私の関係とは、芸術と自然の関係とイコールであると言えるだろう。

当然のことながら、世界というものを見回してみた時に、私はただ「見ている」だけではない。例えば僕が二次元の女の子を見ると可愛いなぁとか思うが、オタク嫌いな人がそんな絵を見ても気持ち悪いなぁと思うだろう。別の人が同じ発言をしても、その発言は重みが違うなんて事だってあるだろう。言葉だけだったら同じなのに、絵だけだったら(目に入ってくる情報だけだったら)同じなのに、どうして別のことを感じたり別の印象を受けたりするのだろうか?それは我々がただ世界を「見ているだけ」ではないからだ。我々は常に世界に対して「価値を見出し」続けている。その歩みが人によって違うから、我々は時に対立し、時に分かり合うことが出来る。

ゆえに、私たちは世界を有りの儘「見る」ことなどできない。世界は原子の集合だが、我々はそう見ることなどできない。

きっとそれは私の心象

―――サクラノ詩OP

 誰もが世界というものを「価値を見出す」という色眼鏡なしに見れないのなら、有りの儘世界というものは本当に存在するのだろうか?*1というか、存在するかどうか分からない、誰も見ることのできないものを持ちだしても意味があるのだろうか?

 

だからこそ、世界というものの定義は、私が見ることの出来る世界というふうに作り変えられる。確かに、私にとって未知のものは世界にあるだろう。しかし、それは私が見ることが出来るもの、つまり理解できるものなのだ。理解できないものはそこに存在し得ない、いや「理解できないもの」について我々は考えることすらできない。*2

 

 世界というものが私を必要不可欠なように、私もまた世界がなくては存在できない。私は今までの歩みから(いわば生を受けてからの経験から)世界に様々な価値を見出し、世界は多くの様相を私に見せてくれる。

これを、芸術と自然に言い換えるのならこうなるだろう。

 

芸術は自然を模倣する

あるいは……

自然は芸術を模倣する……

―――草薙直哉 (Ⅴ章・The Happy Prince and Other Tales)

 

しかし、私が価値を見出すものを世界としてしまったのなら、他の人と私の世界は決して交わらないであろう。当然のことながら、私と他人は違うからだ。私は他の人と同じ経験をしていないし、同じことが理解可能であるとも言えない。そもそも、私の論理は他の人と同じ論理とは限らないのだ。私の世界は他人の世界とは永遠に交わらない。それは虚無、皆に共通する一つの虚無だ。

 

 

5. 他我理論

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「私の痛みは彼のとおなじ痛みだ」と言うことに意味があるかぎりにおいて、私たちは二人ともおなじ痛みをもっている可能性がある。

―――哲学探究-253-  ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 

 

<私>の世界は閉じていて、それはただ一つの世界でありながら、他人とは断絶の距離を持っている。決して完全に理解できない他人という存在。確かに他人は存在するだろう。だけど、私の言わんとすることは本当に理解してもらえるのだろうか?例えばこのサクラノ詩批評を通してサクラノ詩の新たな魅力に気づいて貰えば幸いだが、もしかしたらこの批評を読むことによって「やっぱりサクラノ詩クソゲーじゃねぇか!」と思う人もいるかもしれない。サクラノ詩に関することならばまだいいが、突拍子もない政治の話や宗教の話をしていると思い込む人もいるかもしれない。別にこれは作品に限った話ではない。日常生活でも言葉が誤解を生み、本当に自分が伝えたかった事が相手に伝わらなかったという経験は誰にでもあるだろう。

自分が指し示していると思っているものと他人がそう思っているものが違うというのは、確かめようもないからこそ起こりえる可能性として残り続ける。誰しも箱の中身が同じ「カブトムシ」を想像しているとは限らない。私が知れるのは箱の外にある「カブトムシ」という張り紙だけなのである。

私の世界は他人の世界と交わらず、不理解の断絶によって阻まれている。私の世界がだれとも交わらないように、誰も彼もの世界が交わらない。永遠に交わらないからこそ、その虚無は一つの共通項として描かれる。

 

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

 みんなのおのおののなかのすべてですから)

―――春と修羅 (宮沢賢治

 

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その虚無は奈落であった。今まで漠然と信じていたモノが崩れ去ることは絶望だ。作中では草薙健一郎の作風が日本的な「空虚」を上手く題材に使ったからこそ売れたと書いている。この「空虚」が敗戦によるイデオロギーの崩壊かどうかはわからない。しかし、それが誰とも交われない世界の在り方を示唆しているのは間違いないだろう。

奈落の象徴、今まで信じていた「当り前」が崩れる事の象徴こそが、唐突な圭の死だった。

これからを誓い合った直哉と圭。二人で世界的な画家になると言い合った未来は、理不尽な事故によって奪い去られてしまう。圭は直哉が描いた作品を見ること無く死に、直哉は絶望の底に叩き落とされることになる。信じていたものが、当たり前だと思っていたものが、唐突に奪われ壊れてしまう。

ならば、踏み出した先が奈落ならば、もう我々は歩くことは出来ないのだろうか。

そんなことはない。

「無限の蝶が埋め尽くす空の下は、奈落。だけど、違う、それは私達が立つ、この大地

 だから、踏みしめた、大地は、夢の音を奏でる」
「夢の音……。それは美しい音色か?」
「うん、そして、それはとても残酷な音色。そうでなければ、それは美しくなどない……」

―――御桜稟、草薙直哉 (Ⅴ章・The Happy Prince and Other Tales)

残酷で、美しい音色。それがこの奈落を踏みしめた時に奏でる音だった。

確かに、踏み出そうとしなければ、そこに奈落があることなんて気付かないし、気付いたとしても気にもとめないだろう。自分一人で完結する世界なら、それが空虚だとも虚無だとも思わない。人が孤独を感じるのは、きっと人の温かみを知ってしまっているからだ。最初から暖かさを知らなかったら、きっと孤独も辛さも感じることはないだろう。

愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。

「もー、なおくんはそんなまた悲しいことを言う」

「悲しいこと?」

「そうだよ。それは悲しいことだよ」

「そうなんだ。でも俺が考えた言葉じゃないけど」

「なおくん……、でもなおくんもそう思ってるんでしょ。

 そう思ってるから―――」

「俺が…………かも知れない」

「だめだよっ。そんなことしたらみんないなくなっちゃうよ!」

「いなくなる……か……」

「そうだよ」

「だったら、大切な人を作らなければいい

 大切な人がいなければ、死ぬ必要が無い……のかも」

「ば、ばかっ!ばかばかばか!なおくんのばかっ!!

 それじゃ……、それじゃみんながおんなじ時間に、おんなじ場所で生きてる意味がないよっ!

 もう知らないっ!なおくんのばかばかばか!」

―――御桜稟、草薙直哉 (Ⅱ章・Abend)

我々は哺乳類だから、誰かの温かさを知りながら生まれてくる。それは生への祝福だ。大切な人を亡くす事は本当に悲しくて、当たり前だと思っていたものはいつか崩れ去っていくけど、それが生まれながらに温かさを知ってしまった呪いによるものだとしても、我々はもう誰かの温かさを知ってしまったのだから。みんながおんなじ時間に、おんなじ場所に生きていて、誰かを求める心があるのだから。

だから、たとえその先が奈落だとしても、歩み出すことは決して間違いではない。

それが自分の世界と交わらなかったとしても、誰かを求める心、誰かに何かを伝えたいと思う心は、我々を我々たらしめている大事なものだのだ。

足が立つこの大地 櫻舞う

歌声はあなたに響くだろうか

世界の限界をこえる詩を

この筆にのせて とどけよ 私を越えて

―――櫻ノ詩 (サクラノ詩OP)

 

 

ただ言えることは、人が何かを信じるということは、最終的に”演繹”でも’帰納”でも’確証”でも”反証’でもないのだろう

人は生まれた瞬間から”疑うことを知っているわけではない。疑いを知らないものが”信じる”事を知るはずもない……。

人は”信じる”を知ることによって”疑う’事をはじめて知ることが出来る

信じるというのは、いつだって何の確証もないもんなんだろうな

―――草薙直哉 (Ⅱ章・Abend)

言葉が、芸術が、想いが誰かに伝えられると「信じる」ことは、確証がなくたって成り立つことなのだ。我々は最初に「誰かに何かを伝えられる」と思っている、信じている。ただ、それを知ってしまったからこそ「疑い」が生まれてしまうのだ。

別に疑いを持つことは悪いことではない。疑いと信じることは一つの対比だ。疑いが濃ければ濃いほど、信じることも同じように濃くなっていくだろう。

「いいえ、分かりません。揺れている物はいつか止まるものだし、今でもその疑問はあまり変わりません」

「力が加え続けられるならば揺れ続ける」

「でも、空に地面はありませんよ」

「地面は関係ない。空に何もなくていいんだよ。

 ただ何も考えずに動かせばいい。深くは考えない事だ」

 「深くは考えない事……」

(中略)

稟はブランコは空中で蹴っても、動かないとか信じていた……。

たしかに、空を蹴ることで加速するなんて少し考えたらおかしな話だ。

でも、普通ならば考えない。

普通のガキは何も考えずにブランコに乗る。

ブランコがどの様な力学を持ってしか力を得るかなど関係ない、

ただ、感じたままに身体を動かす。

「空を蹴れば、空に向かって加速していく」

そんな摩訶不思議な現象を、いとも簡単に誰しも受け入れていく。

「もう一度やってみろ」

「はい」

空では人は無力だ。

だからこそ身体は知っている。

そこで何をすべきか。

(中略)

「なおくん!」

「なんだ?」

「ありがとう!

 ブランコ教えてくれて!絵を教えてくれて!

 ありがとう!」

「ばか、声でけぇよ…」

月明かりの下。

動き出した振り子時計のように、稟はブランコにのる。

うれしそうに、夜空を加速してゆく。

今にも空に飛び出しそうな勢いだ。

―――御桜稟、草薙直哉 (Ⅰ章・Frühlingsbeginn)

それはきっと子供でも分かっていることなのだ。理論はわからない、原理も不明、よくよく考えれば不思議で不思議でしょうがない。

だけど、そこで人は無力だから、虚無のはずの世界の中で人は為すべき事を知っている。身体が誰かのあたたかみを求めるように、空を蹴りだすことは無駄ではないのだ。

だからこそ、それをそれを教えた直哉は稟に感謝される。稟は記憶を失っていたとしても心の中でこの虚無があったはずなのだ。だからこそずっとブランコがこげずにいた。誰もが当り前のように通り過ぎていた摩訶不思議をずっと受け入れられずにいたのだ。

Ⅴ章の最後に去りゆく稟は、小声で直哉のように生きたいとこぼす。過去の稟との違いがここにある。それを生み出したのは、信じるという誰もが通り過ぎた摩訶不思議なことを示した直哉のおかげなのだ。

 

 

6. 芸術評論 美について

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絵は見るものじゃない。一緒に生きるものさ。

(ピエール・オーギュスト・ルノワール)

 

 

芸術とは新たな人生の価値を見出すことであった。あるいは、新しい世界の価値と言い換えても良いかもしれない。今まであったはずなのに、誰もそれに気づかなかった新しい見方。これを発見するのが芸術の本質だ。

「作品は、何のために生まれたのか、それさえ見誤らなければ大丈夫だってな

 今、俺も同じ思いだ。あの作品が何故生まれたのか、見誤らなければ問題ない」

「では、あの作品は何故生まれたのですか?」
「そりゃ、一緒にやった、咲崎くんも良く分かっているだろ」
「私が?」
「楽しかったからだよ
 そして、それを届けたいという人がいた」
<中略>
「あの作品は“楽しい”事が一番大事だ
 もちろん、それは、今、世界で活躍している。稟に届いて欲しい想いではあるかもしれない
 楽しむ余裕なんて、今のあいつには無いだろうから……
 けど、同じぐらい、おまえ達に伝えたかった
 さらに言えば、元々の『桜達の足跡』から“楽しさ”を君が感じ取った様に……」

―――草薙直哉、咲崎桜子 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

芸術の本質である新たな発見は、ただそれを示すだけではない。それを誰かに伝えようとする想いが隠れている。発見するだけなら、自分の中で完結していればいい。誰もが当り前のように知っていることなら、作品にする必要もないだろう。誰もが気づかない通り過ぎていった事を伝えたいがために、作品は生まれてくる、あるいは作品は生み出されるのだ。

 

 

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一つの芸術作品は、新たな発見と想いだけを見るものに伝えるだけではない。

そこに「美」が生まれる。

我々は作品に美を見ることがある。それは一つの絵画だったり、旋律だったり、誰かの行動だったり、誰かが残した言葉かもしれないけど。

芸術作品それ自体は、「美を示している」のか、「人がそれを見た時に美を見せる」のか。

これこそが、直哉と稟がⅤ章の最後で語り合った「強い神様」と「弱い神様」の正体である。

 

「強い神」とは絶対的な美の存在である。「この絵の存在意義は美そのものである」と言われる様に、絵そのものが美を示しそこに他人は必要ない。つまり、先に述べた批評の否定であり、僕が定義した「芸術」の否定である。芸術は他者を必要とし、それは人間性からくるものと健一郎は定義した。とすればなるほど、稟の「強い神」は芸術ではない別の何かなのだろう。もちろん、未だ稟は「美」そのものを示す絵画をまだ作れてはいない。だからこそ彼女は作品を描き続ける。まるでそれは「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という絵画を残したポール・ゴーギャンが、何かを探し求め辺境の南の島で死んだように。「何処か」にある美を示すために、彼女は絵を描き続けるのだ。

 

 対して、「弱い神」とは移ろいゆく美の存在である。作品は死骸であり、標本である。だがしかし、それは見られる度に蘇る。批評される事により作品は息吹を吹き込まれ、標本の蝶は再び飛び立つ力を得る。それを直哉はⅥ章で「更新される」と語った。芸術作品は誰かに何かを伝えるために存在するのだから、他人に見られ批評されることがなければならないというのは道理だろう。僕が自分にしか理解できない翻訳不可能な言語を使ったところでそれがナンセンスであるように、芸術作品もまた批評されなければ作品としての意味を持たない。逆に言えば、批評されれば芸術作品として存在することも可能なのだ。4分33秒の無音が一つの音楽作品として批評される(価値を見出される)のなら、無音が音楽作品(芸術作品)としても成り立つだろう。それは人々による批評に左右される価値の在り方、移ろいゆく美の在り方である。*3

 

「弱き神」と「強き神」。この二つのどちらが正しいのか作中では明確に示されていない。*4しかし、直哉が主人公であり、稟もまたその「弱き神」を捨てきれないことからも作品全体が「弱き神」を信望していると推察できる。

そして、直哉はこの美を通して、「弱き神」を芸術作品以外のものにも見ることが出来ると語る。

美は、見るものによって再び発見される
美は、見るものによって生まれ変わる
その時、神がいるんだよ
そうだな。それは稟が言う通り。弱い神様だ
だが、人が美と向き合った時
あるいは感動した時
あるいは決意した時
そしてあるいは愛した時
その弱き神は人のそばにある

―――草薙直哉 (Ⅴ章・The Happy Prince and Other Tales)

「弱き神」は移ろいゆくものだからこそ、人の傍に寄り添い続けるのだと言う。

そして美を通して、弱き神は幸福へとつながっていく。

 

7.  幸福は美酒のように。あるいは―――――

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僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。

―――銀河鉄道の夜 (宮沢賢治

 

 

多くの人は幸福を、手の届かない青い鳥のように感じているかもしれない。どこかの電波的な彼女よろしく「幸福と不幸の総量は決まっている」とか言い出す人もいるかもしれない*5し、人は永遠に幸福になれないなんて悲観的になっている人もいるかもしれない。

そもそも、幸福とはなんだろうか?我々はいかなる時に幸福を享受するのだろうか?

例えば、何か美味しいものを食べた時。

例えば、誰か美しい人を抱いた時。

例えば、自分の欲望が満たされた時。

あるいはこれを、幸福を感じると言うかもしれない。だがしかし、それは本当の幸福なのか?

美味しいものを食べたなら、より美味しい食べ物を。

美しい人を抱いたなら、より美しい人を。

もっともっと、もっともっといい”何か”を。

…欲望を満たされて得る幸福感には終わりがない。人の欲望には際限がなく、人は慣れてしまう生き物だから。それは非常事態の中で日常を生み出す強い力かもしれないけど、同時にどれだけ満たされた状況にも慣れてしまう力になる。

欲望の先にある幸福に人は住み続けることはできない。一瞬一瞬が幸福でも、すぐにその楽園から追放されてしまう。人は永遠に幸福に至れず、何かを失った時に始めて「あの時は幸せだった」とつぶやくしかないのだ。

 

本作の主人公である直哉はこの幸福を問われることになる。父、母、圭、仲の良かった友人達、輝いていた学生生活…。そのすべてを失い弓張学園の一美術教師として働く彼に哀愁を感じずにはいられない。当時はわからなかった在りし日の価値が大人になって分かる。だから僕がⅥ章にはいってすぐ感じたのは「郷愁」だった。(この郷愁を感じたプレイヤーは少ないと思うのだが、しかし全然そういう意見を見なかった…。なぜだ…。)

「何かがあれば」の幸福観からすれば、何もかもを失った直哉は不幸だろう。

しかし、本当にそうだろうか?幸福とは「何かがあれば」というものなのだろうか?

サクラノ詩は幸福について、もう一つの様相を示す。それが「弱い神」である。

 

「弱い神」は人に寄り添う存在だ。人がその存在を信じる限り、人が其処に美や愛や決意を引き受ける限りその「弱い神」は我々に寄り添い続ける。「弱き神」を必要とする限り、それは其処に居続けてくれるのである。(お察しの方もいらっしゃるかもしれないが、藍のキャラクターテーマには恐らく「弱き神」がある。細かいことはキャラクター評論で)

「弱い神」とは何かがあれば立ち現れるものではない。ただ我々がそこに見ようとするとき立ち現れる。作品を批評する時に美が立ち現れる様に、世界に価値を見出すときにこそ「弱き神」の存在を感じることが出来る。世界に価値を見出す、それはつまり「幸福へと繋がるもの」に他ならない。*6

「弱き神」という幸福は、『何かがあれば』という幸福ではない。幸福は「何処かにあるもの」ではないのだ。言わば、この立ち位置が「強い神」である。「幸福だって、酒と同じで、度合いがすぎれば、吐き気がする。そんなクソったれなもんが、幸福なんてもんなのに……なのに、人は幸福を望む。人には許容量以上の幸福なんて、吐き気でしか無いのに、それでもその幸福を手に入れようとする。呑み込もうとする。でも、度が過ぎた幸福に人は耐えられない」というセリフに顕著なように、酒に酔う事=欲望を満たす幸福である。だがしかし、圭を失った悲しみ(絶望)を強すぎる幸福では打ち消すことはできない。だからこそⅤ章で直哉は父親から受け継いだ美酒を汚してしまう。「強い神」という「どこかにある幸福」では、絶望に染まった世界を肯定することはできないのだ。それを勘違いしていた直哉は、酒に酔うという「強き神」ではなく、藍という「弱き神」に支えられることでようやく大地に立つことが出来る(言わば、絶望した中から生きる意義を見いだせる)のだ。

 

 「弱き神」とは移ろいゆく幸福だ。残酷な世界の事実に出会った時、理不尽な目にあった時、辛い時、苦しい時、泣きそうな時……そんな時に移ろいゆく幸福は覆い隠されてしまう。

だけど、我々がそれを見出そうとする限り、幸福はいつだって此処に在る。

幸福はいつだって我々に寄り添い続ける。春の桜が舞う時、夏の雲が見える時、秋の紅葉が視界を占める時、冬の吐息が白く染まる時、夕日で空が赤く染まる時、誰かと笑いながら話している時、月が夜空に浮かぶ時、心地良い風が吹いた時……

きっとそれは何でも無い時間なのだろう。いつだってありふれた、どこにでもあるような風景。だけどそこに僕は幸福を感じる。それがきっと「弱き神」の幸福なのだと思う。

 

幸福は美酒のように。

確かに、欲望が満たされることによる幸福感はとても心地良い。

だけど、それだけじゃないはずだ。今、僕が感じているとても弱くて、けどこれ以上とない幸福はまた別のものだろう。何かがあるわけではないけど、それでも静かな幸福は、確かに此処にあるはずだ。

あるいは、幸福は凪のように。

 

 

8. 在りし日のために

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ありがとう在りし日

―――在りし日のために

 

 

 人が生きていく限り、思い出があり、過去がある。

これを読むあなたがどんな過去を持つかわからないが、しかしその中で何か一つでも輝いていたものがあるだろう。友達と笑いあった休み時間とか、暇さえあればボールを持って遊びまわった時とか、お小遣いを精一杯ためて買ったゲームとか、親に頼んで連れて行ってもらった映画館とか…。

そういう美しい時間、確かに幸せだったけどその時は幸せだと気づかなかった瞬間。あるいは、幸せだと気付いていたけど終わってしまった瞬間。そういうのはきっと誰にでもあるはずだ。

そういう「ノスタルジック(郷愁)」を捨てきれなかった象徴が中原中也だろう。中原中也は最愛の息子を失い、その後ゆっくりゆっくりと狂ってしまう。息子がいた時の輝きが忘れられない、息子がいた時に比べ今の世界のなんと味気ないことか。

母である水菜を亡くした後の幼い直哉はこれに共感してしまった。「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。」未来にもうこれ以上輝く瞬間などないのだから、生きていても辛いだけなのだから。

過去が輝くからこそ、今を見ることができない。今に意義を見出すことができない。

だが、本当に「過去」は、「輝かしい在りし日」は失われたのだろうか?

あの美しい日々は手の届かない何処かへいってしまったのだろうか?

 

 

さて、話は変わるが、芸術とはどこからどこまで指すのだろうか。絵の具で描かれたもの?楽譜で表せるもの?あるいは画像に切り取られたもの?

芸術とは自然から価値を見出したものである。いわば「何も価値の無いもの」から「価値を見出す」こと。これが芸術行動の大本である。故に芸術行動とは批評行動のうちの一つであったわけだ。芸術とはつまり批評を作品にした批評作品の一つなのだ。

 

では批評とはどこからどこまでを指すのか?何かから「価値を見出す」とはどこからどこまでを指すのだろうか?

賛否両論あると思うが、これに僕は「何かを思うことはすべて批評行動」という定義を与えたい。

例えば、サクラノ詩をプレイして、何十時間も考えた批評は一つの批評作品として認められるだろう。しかし、サクラノ詩をプレイして(ツイッターとかエロスケとかに)「サクラノ詩良いゲームだったー。(あるいはちょっと合わないゲームだった)」と書き込むことも十分に批評作品なのだ。批評は「価値を見出すこと」である。サクラノ詩が「良ゲー」「神ゲー」「クソゲー」であると「価値を見出す」。これだけでも十分な批評行為であり、そう書き込むことは批評作品を作ることなのだ。

しかし、感想を書き込まないで自分一人で思ったらどうだろうか?例えば、サクラノ詩をプレイして言葉に出来ないような思いを抱えた時、それを誰にも言わずどこにも書き込まなかった場合。勿論この場合は批評作品ではないだろう。作品とは何か指し示されねばならないからだ。だが、この場合「言葉に出来ない思いを得たという価値を見出す」という批評をしている。

これは勿論サクラノ詩という作品に限った話ではない。我々が何かを見る時、何かを理解する時、そこには我々の心象が入り込む。いや、心象を入り込ませなければ我々は何も見れない。心象が入り込むとは「何かを思うこと」を含み、何かを見ることとは「なにもないものに価値を与えること」に他ならない。

つまり、我々の行動の全ては「批評」だと言い換えることが出来る。

 

 

さて、話を過去に戻そう。

我々が過去を思い出す時、その過去はただの情報に過ぎない。人の脳の中に情報として閉じ込められ、電気信号によってそれを再生しているにすぎないのだ。*7郷愁を感じるのは私の心である。過去はただの情報に過ぎない。

つまり、過去の情報という「何も価値の無いもの」に対して、私の心は郷愁という「価値を与える」。これは立派な批評行為である。過去を思い出す事は、そこに何か思いを抱くことは一つの批評行為であったのだ。

郷愁を感じることが批評なら、過去の情報は作品だ。

作品はただ我々に寄り添い続け、我々が見るときに生まれ変わる、更新される。

だが、芸術というのは何度でも生き返る
標本にすぎなかった、美しい蝶を前にした時に、君が、もし、生きているかの様に錯覚し、それが飛び立つ姿を夢想したとするならば、それは屍体では無くなる
標本は人の中で再び“飛ぶ”権利を与えられている。だからあれは人を魅了する。芸術もまた同じだ

瞬間を閉じ込めた永遠。まぁ永遠というには作品には寿命はあるが……
それでも、その作品が存在するかぎり、その瞬間は永遠の中に閉じ込められている
時にはたった一つ、時にはもっと多くの伝えるべき想い……。まぁ、それは、その作品によりけりだ
多ければ良いわけでも、たった一つだからこそ素晴らしいわけでもない
だが、伝えたいこと、たったひとつ、瞬間を閉じ込めた永遠。なんて作品もあるもんさ……

―――草薙直哉 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

過去は、在りし日は何処にも行かず失われてなどいなかった。瞬間を閉じ込めた永遠…。そんな作品としての在り方の中に過去は居続ける。我々が作品を見る時(過去を思い出す時)その作品は何度でも生き返り、再び”飛ぶ”のだ。

 

失われたものがなにもないからこそ、直哉は桜の美しさを認めることが出来る。春が嫌いだった直哉は、父親の葬式の日に圭から語られた言葉に答えられずにいた。けれど、過去が常に共にあるのなら、今年の桜は去年のよりも一昨年のよりも綺麗に咲くだろう。歩んできたからこそ、積み上げてきたからこそ、今ここにある「美」は何よりも美しく映るのだ。

ああ、今年の桜は最高に綺麗だな…

―――夏目圭 (Ⅰ章・Frühlingsbeginn)

 ああ……そうだな……

それにしてもあれだな……圭

桜が綺麗だ……

―――草薙直哉 (Ⅴ章・The Happy Prince and Other Tales)

 

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過去を思い出す事は、音楽を再生することに似ている。それは心地よくて、時たまそれに浸ってしまうけど、それだけをしていても新しい発見はない。もしなにか過去や音楽に新しい発見をしたとしたら、それはあなたが新しい見方を見つけた(あるいは教えられた)のだ。作品の前にとどまっていては歩み出すことはできない。

音楽が終わる。
懐かしい音楽は終わってしまう。
再び再生すれば、また懐かしい音は戻ってくるだろう。
だが、時は戻らない。
「圭……」
俺はあいつの愛車にまたがり、あいつが好んだ音楽を聴いている。
それは感傷なのだろうか?
それ以外の何かだろうか?
「前に進む力が、大きく後退させる事だってある……
 進化が迷走を生む事だってある……
 だけど……
 迷走だって、前に進むための糧になる事だってある
 そうだったよな……圭」

―――草薙直哉 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

時は戻らない。我々の世界は流動的だ。歩むからこそ得られるものがきっとあるだろう。時に過去という作品に浸ってしまうけど、それでもいつか、それが前に進むための力になるだろう。悲しみはあってもいい、苦しみはあってもいい、それがいつか、飛び立つ力になるのだから。

いつだっていつだって、ツバメは飛び立つのだ。いずれこの地(作品、過去)に戻ってきて、そしてまた飛び立つ。ツバメの在り方とは、我々の在り方そのものだったのだ。

そうとも、ツバメさんよ。遠くに行くがいいさ。

そうしなければ、お前を恐ろしい寒さが襲うだろうから……

―――草薙直哉 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

 

9. 反エロゲー的リアリズム

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ときどき私、すごく不思議に思うのよ。
愛ってものが、とても大切なものとして扱われることについて
君を守るために世界を敵に回すとか、そんな物語はいくらでも溢れててさ、それって、愛のために世界を敵に回すってことよね?
ひとつの理想として、比類なき美しいものとして、愛は語られ、愛とそれ以外の全てが、天秤にかけられる
愛と、その他の全ては等価値なのかしら。天秤は釣り合っている?

―――鳥谷真琴 (Ⅲ章・PicaPica)

 

 

 とりあえずタイトルの説明から。

リアリズムというのが何なのかというと、現実主義とか写実主義みたいな、よくわからない感じに訳されているので、とりあえず僕なりの解釈を。多くの物事で共通項というのがあるだろう。マンガや音楽や、勿論エロゲーでもそうだが「○○はこうでなくてはならない」みたいな見方はある。つまり、「○○らしさ」とでも言おうか。そういうなんとなくの共通項、それがここでいう「リアリズム」としておく。*8

なので、反エロゲー的リアリズムというのは「エロゲーらしさに対する反抗」とでも読み替えてもらえば良い。エロゲーらしさってなんだよと言われると僕も明確には答えづらいのだが、主人公がおせっかいで困ってる人を見捨ててはおけなくて、そんな主人公がヒロインとかいろんな人を助けていく…とか、ヒロインの問題を主人公と協力して解いていくみたいな。そういう「お決まり」のヤツだ。もちろん人によって違うかもしれないが(例えば「快楽堕ち」とか「くっころ」とかがリアリズムだ!という人もいるだろう)「これなんてエロゲ?」という言葉がある通りみんなある程度のエロゲに対する共通項があると思う。

 

実のところ、この作品には90点代をつけたかったのだが、10点としたのは、この作品が過度に評価されることは、エロゲの定義を揺るがしかねないと考えたためである。
この手のゲームに哲学を絡ませた作品に需要があることは理解できる。そのような作品がある程度の評価を受けることも当然である。しかし、エロゲとはもともと18禁シーンを含んだ恋愛シミュレーションゲームであるから、あくまで恋愛要素が中心に据えられるべきだと思う。

(中略)

元来エロゲとは、主人公とヒロインが恋愛する様を眺めて、或いは主人公と自分を重ね合わせることで恋愛を擬似的に体験するゲームではなかったか?擬似的とはいえ恋愛をするのだから、恋人は魅力あふれる女性であるのが理想である。二次元とは理想を追求するものであるのだから、エロゲにおいてはヒロインはプレイヤーにとって理想の女性であるのが望ましい。エロゲにおけるシナリオは、元来ヒロインの性格や魅力を描写するための道具であって、あくまでヒロインが主でシナリオが従であったはずだ。しかし、昨今のシナリオ偏重主義では、メインヒロインですらもシナリオの駒でしかない場合が少なくない。
すかぢ氏の前作すばひびはこの典型的な例であり、今作も前作ほどではないが同様な傾向がある。

繰り返すが、私は決して本作品を完全に否定している訳ではない。ただ、願わくはこの手の作品がエロゲとしてではなくノベルゲームとして評価され、正統的な、すなわち恋愛シミュレーションゲームに18禁要素を加えたエロゲがエロゲとして評価されることを願っているだけである

―――サクラノ詩ErogameScape感想 (humimasa氏)

この感想は、エロスケよりサクラノ詩に10点という点数を下し、結構な得票数(エロスケの投票数ではサクラノ詩感想中4位)を稼いでいるものである。結構な文字数であるため読み飛ばしたかもしれないが、そういう方のために一言でまとめると「サクラノ詩(を含んだ最近の作品)はエロゲーらしくない」というものである。

一応この批評作品に対する感想を言うと、エロゲーらしさってなんだよという感じである。「元来エロゲは~」という文があるが、そもそもエロゲの始まりは多人数の女の子と仲良くする(隠喩)所謂ナンパゲーであったはずだ。ランス然り、同級生(無印)然り、そこに純愛など無く、多くの女の子と仲良くする(しつこいようだが隠喩)ことが目的であった。それが、同級生2で純愛に重きをおいた作品にした所売れたからそのような作品が主流になっただけであるはずだ。というか元来エロゲが純愛を扱っていたら抜きゲーってなんなんだよ、アレか、アレはアレで純愛とか言い出すのか。

と、揚げ足を取りに取っていく批評だが、結構言いたいことは分かる批評作品である。なぜなら、僕もプレイ後に思った感想は「エロゲらしくない」だからである。

 

そもそも、「エロゲらしくない」と思ってしまった原因は作品構造そのものにあると思う。

この物語である草薙直哉はとてもカッコいいキャラクターだ。いつもはクールを気取ってるくせに、熱い時には熱いし、誰かが困っていたら手を差し伸べてそしてなんとかしてしまう。好きな女には一途で、そのくせまぁまぁ性欲があるときた。女の子にキャーキャー言われるけど、ミーハーな女子には目をくれず、彼の周りの女の子は好意を寄せてるけどそれも気にしない風である。なんだコイツ、エロゲーの主人公かよ。(そうです)

草薙直哉が典型的なエロゲ主人公というのは、色々な理由付けはされているもののⅢ章が終わるまで(藍以外の個別が終わるまで)続く。*9Ⅳ章からは草薙直哉の主人公像にヒビが入り、それは圭の死によって決定的なものになる。*10

Ⅲ章までの空気を引きずっている人間にとっては、サクラノ詩を「典型的なよくあるエロゲー」として捉えたままのため、そこからの齟齬が最後までつきまとう。Ⅵ章で草薙直哉が童貞であることをバラされたり、藍と家族の関係になる(恋人の関係にはならない)ことは、違和感を通り越して決定的な瓦解となるだろう。

 

さて、ではなぜこのような作品構造なのかと言うと、それは「サクラノ詩」という作品に「力強さ」を与えないためである、と僕は考える。ヒロインの誰かと結ばれる事は、直哉にとっては物語的な終止符を打つことに等しい。これは作品の構造からも明らかだ。誰かと結ばれないからこそ直哉は圭と絵を描きあう事ができる。プレイヤーはだれとも結ばれないからこそ直哉の歩みの先を見ることができる。*11つまり、恋愛の成就は、愛を生み出すことは物語にとって結末なのだ。…愛は比類なきもの、愛は人を幸福にする。故に直哉は幸福で「あらねばならない」。恋愛を通して愛を得た直哉は、ただ幸福である。そこに疑念を挟む余地など無い。

恋愛による愛の幸福とは、ひとつの完成形だ。それが間違っているとは言わないし、言う気もない。恋愛による愛とは、正しく幸福の一側面なのだ。

しかし、それは同時に一側面でしかない。恋愛による愛が得られないことは、幸福でないこととイコールではないのだ。

先に語った通り、幸福とは我々に寄り添うものである。言い換えれば、それは寄り添うという「愛」を発見するとも言い換えられる。愛を得たものは、愛を見出したものはすべからく幸福である。それは作中の多くで見受けられる。

 

物語は苛烈で盛り上がるからこそ力を持ち、カタルシスを生み出す。それはそれでもちろん悪いことではない。だからこそ我々は本当に物語に感情移入でき、涙や汗を流し、感動を持つことが出来る。

しかし、サクラノ詩の「伝えたいこと」はそうではない。サクラノ詩という作品が示したのは「弱き神」のような「此処にある幸福」だ。それは力強さを持ってはいけない。プレイした人がそれに気づき、自らの生活の中でそれを「見出さ」なくてはならない。例え我々が新しい何かを得ることがなくても「此処にある幸福」を感じなければならないのだ。

 

だからこそ、この物語は誰かと結ばれることで終わるのではなく、藍と共に歩むこと(つまり、此処にある幸福、弱き神だ)で締めくくられる。恋愛という何処かにあるもの、新しく得られたものだけに幸福を見出すのではなく、いつだって此処にいてくれたものにも幸福を見出す事。ゆえにこそ、サクラノ詩は「反エロゲー的リアリズム」なのだ。*12

だから、「エロゲーらしくない」というのは非常に正しい指摘だが、「エロゲーじゃなかったら高評価」というのは的外れと言わざる負えない。サクラノ詩の対象プレイヤー像は(「在りし日」というテーマを考えても)ある程度年と経験を得たエロゲーマーなのである。*13

 

 

10. そして櫻は空を舞う

 

 

 

美しい音色で世界が鳴った

 

 

 

Ⅵ章。タバコの煙が、大人になった直哉の口から漏れ出す。

かつての友達はこの街におらず、昔の自分を知っているのは僅かな人々だけ。輝かしい日々は失われ、達観した目線でありふれた日々を過ごす。

 

そんな日常を動かすのが、生徒の一人である咲崎だ。咲崎は廃部になってしまった美術部を再生させたいと直哉に告げる。紆余曲折あったものの、直哉を顧問とした新生弓張学園美術部が誕生する。

 

ありふれた日々の中に起きた一つの変化。

だがそんな中、現代芸術家集団’ブルバギ”による芸術活動が行われる。その対象は、かつて直哉が仲間たちと作り上げた「櫻達の足跡」。ブルバギは「櫻達の足跡」を壊すことで、新しい”価値”を示した。子供のような破壊行動が、いや、子供のような破壊行動だからこそ”芸術”としてみなされてしまう。今まで直哉達を巡っていた美しい「芸術」が、作り上げた「櫻達の足跡」が穢されてしまう。

 

穢された「櫻達の足跡」に対して、直哉達、新生弓張学園美術部は芸術を作り出す。

それは、作品の「更新」。セロハンによる光の投射を利用し、穢された「櫻達の足跡」を、より鮮明に、より美しく生まれ変える。

光による一瞬の煌き。計算されつくされた角度から光が入り込まないかぎり生まれない作品。

「櫻達の足跡」が穢されたからこそ、より「新生・櫻達の足跡」は美しく輝く。

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「櫻達の足跡」が生まれ変わった事は、作品が見られることによって更新されるメタファーだ。光による一瞬の煌きは、作品が見られた瞬間「のみ」において意味を持つことを示している。作品は批評されなければ標本と一緒だ。貴方が作品を見る時、作品に意義を見出す時、その作品は生き返るのだ。

さて、「新生・櫻達の足跡」は「作品」についてだけを示しているわけではない。元々、「櫻達の足跡」とは草薙健一郎が、子供達が次々に去っていく事を感じていた神父に対して送った作品である。それを完成させたのは弓張学園美術部だが、「櫻達の足跡」とは「作っている人達が楽しく」、「子供達の足跡が桜の花びらになっている」作品であった。子供達の足跡は、去りゆく子供達を示しているが、それは決して悲しいだけではない。桜が散る様を物悲しく、それでも美しいと思うように、子供達の足跡もまた悲しいが、それでも美しいと思うものなのだ。

「櫻達の足跡」のコンセプトは「在りし日」に似ている。かつての美しかったもの、輝いていたもの、だからこそ今がとても悲しいもの。「作品」と「在りし日」の繋がりは此処にある。直哉が「櫻達の足跡」を「更新」したことは、散っていった「在りし日」を「生き返した」ことと同義だ。

だからこそ、直哉に欠けていたものなどない。直哉は全てを持って今を生きている。

先生は数多くのものを失っているのに……それでも欠けた部分なんて無かった

―――咲崎桜子 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

それが分かったからこそ、打ち上げの後に咲崎はそうつぶやく。もちろん、咲崎だって欠けているものなど何一つ無いはずなのだ。だが彼女は自分自身にそういう「意義」を見出だせない。だからこそ、彼女にとっては何かが欠けているように感じてしまうのだろう。

 

 「新生・櫻達の足跡」を発表した直哉達。それは、今までの輝きからすれば些細なものかもしれないが、それでも僕らプレイヤーにとって、それは十分に「最高だ」と言わしめるものだった。穢されってしまった「櫻達の足跡」の復活、トーマスへの一撃、直哉を慕ってくれる生徒たちの存在、それらは僕たちプレイヤーに直哉のこれからの輝かしい日々を約束するものかのように思えた。

しかし後日、直哉は酒に溺れ吐き続ける。最高の瞬間のはずなのに、輝かしい日々のはずなのに、それでも直哉は吐き続ける。

 

芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。

そしてよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。

ここに芸術と倫理の関係がある。

―――草薙直哉 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

 6.421  倫理と美は一つである

―――論理哲学論考 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

そして美とは、まさに幸福にするもののことだ。

―――『草稿』1916年10月21日 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 後ろ二つは分かりやすいようにウィトゲンシュタインの著書から引用したものだが、これで「芸術」について語ってきた理由がわかるだろう。「芸術」について語り終え、「芸術」について理解した直哉が次に語るべきは「幸福」、つまり「神様」の話なのだ。

 

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吐き続ける直哉の背中をさするのは、遠くの学園で教鞭を振るっているはずの藍だった。そんな藍に直哉は語り出す。最高と最悪の話。苦痛と快楽の話を。

「ああ、逆説的だ。全然あべこべだ。

 最高は最悪で、最悪は最高。

 すべての最高には、最悪がべっとりとはりついている

 もちろん逆も然り

 最高は最悪で、最悪は最高なんだ……」

「最高は最悪で、最悪は最高か……なんだか良く分かるよ」

―――草薙直哉、夏目藍 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

直哉曰く、それは生きている証だ。恵まれた世界の中なら、それが当たり前と思ってしまうだろう。それが失われた時、当たり前だと思っていたものがそうでなくなった時の衝撃は計り知れない。それは輝かしい学生生活をどこか当り前のように思っていた彼のように…。

ああ、他人からみたらクソみたいな人生で

クソみたいにどうでもいい時

だぶん、俺たちは一番生きているんだよ

楽しんでいるんだよ

俺は、そう思うんだ

だからさ、それが無くなったら終わりだ

苦しみは大事だ

悔しさは大事だ

世の中のクソみたいなものは大事だ

それが感じていられるのなら

それは最高の生き方だ

何も感じることが出来ないなら

生きているのか死んでいるのか分からない

苦しみを感じられれば

それだけでも生きていける

生きていこうとするから、苦しい

身体が生きたいから、苦しい

そういえば、親父は死ぬ前にそんな事を言っていた

苦しい事は正しい

抗っているのだから

消滅から抗っているから

だから苦しい

身体の痛みを受け入れろよ

それが生きるって事だ

今だと、親父の言葉がよく分かる

輝く時だけが生きている時じゃない

うまくいっている時だけが、生きている時じゃない

―――草薙直哉 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

 希望があるから絶望があるように、絶望があるから希望がある。苦痛と快楽、最高と最悪、希望と絶望……その全ては二項対立にある。どちらかを失ってもいけない。その天秤は正しく保たれなければならない。*14どちらか片方を取ることなど不可能なのだ。もし絶望するのが嫌で、苦痛を感じるのが嫌で、最悪が嫌で、その全てを投げ捨ててしまったら、そこにあるのは一つの虚無でしか無い。何も感じない世界、何も感動しない世界、何も得られえない世界。それは果たして生きていると言えるのだろうか?

……だからこそ、直哉は言う。苦痛は生きてる証だと。悔しさは生きてる証だと。世の中のクソみたいなものは生きている証なのだと。快楽が生きてる証のように。嬉しさが生きてる証のように。世の中の最高なものが生きている証なように。どちらも欠けてはいけない。生きていくとは、そういったものをすべて受け入れるということなのだ。

 

そうだな。それは稟が言う通り。

弱い神さまだ

だが、人が美と向き合った時

あるいは感動した時

あるいは決意した時

そしてあるいは愛した時

その弱き神は人のそばにある

人と共にある神は弱い神だが、それでも、人が信じた時にそばにいる

―――草薙直哉 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

 今ここに在る世界で生きることを肯定した直哉は、次に神様の話をする。先に話した通り、神様とは宗教上の神様の話ではない。神様とは幸福の隠喩なのだ。

 

稟が信望する「強き神」とは、何処かに在る美、つまりここではない何処かに在る幸福である。それは、尽きること無い人の欲望のように、「何処か」を目指し孤独の中死んで行ったポール・ゴーギャンのように。

果たしてそれは失われることのない幸福だろうか?最高の裏側には最悪がべっとりとくっついている。すべては二項対立の中にある。人が最高の裏側にある最悪に気づくのにそう時間はかからないだろう。それに気付くまでの泡沫が如き瞬間だけにしか人が幸福に至れないのなら、それは本当に悲しむべきことだろう。

 

直哉の信望する「弱き神」は、移ろいゆく儚い幸福だ。それは人が絶望した時、あるいは悲しんだ時、あるいはこの世の残酷さに負けてしまった時に掻き消えてしまうものだ。だが、圭を失った悲しみから藍が直哉を立ち直らせたように、誰かが「弱き神」を見えなくなっても、いつか歩き出そうとした時に再びその姿を見ることが出来るだろう。作品が見られることによって生き返るように、幸福という「弱き神」もまた見られることによって存在できるのだ。

どんな人だろうと、どんな状況にあろうと、人は幸福になれる。

だからこそ、ありふれた日常は幸福という色彩によって輝き出す。

さぁ、受け取るが良い

この絵にやどった神は、永遠の相だ。

この感動は一瞬だが、永遠だ

そして、そこに幸福がある……

かよわき神と共にしか、幸福なんて感じられないさ

だって、強すぎる幸福は、強すぎる酒と変わらず

人を悪酔いさせるのだから……

―――草薙直哉 (Ⅵ章・櫻の森の下を歩む)

 

 

 

物語の最後。直哉と藍は、未だ咲かない桜の木の下を歩み出す。

しかし、彼らに桜の祝福は必要ない。

なぜなら、桜が咲くという儚い幸福は、もう彼らの隣りにあるのだから。

――――『サクラノ詩』は、「幸福への物語」でも「幸福の先の物語」でもない。

儚い幸福。だが、だからこそ、いつでも誰でも見いだせる幸福。

幸福はいつだって此処にあるからこそ、直哉と藍は歩き出す。

彼らが歩む未来は、そんな幸福の先へ続いていく。

 

彼らは歩み出す。

幸福の先、反哲学的な、ごく自然な日常へと。

サクラノ詩』。それは、「幸福への物語」でも「幸福の先の物語」でもない。

サクラノ詩』とは、まさしく「幸福の先への物語」であった。

 

かつての輝かしい思い出、楽しかった出来事。

あるいはいつかの幸福、どこかで感じた美しさ。

”桜”のように散っていったそれらは、我々が想い起こす度に”咲”き誇る。

かつての美は今の美に、いつかの幸福はこの幸福に。

いつまでもそれは、何処にも行かず、我々の隣に寄り添い続けるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

これから、二人で歩もう。

ゆっくり、二人で……。

どこまでも、どこまでも続く道。

俺達はそんな道をゆっくり歩む。

そんな俺を見て、

藍がにっこりと笑った。

 

その時、かすかに櫻の詩が聞こえた。

 

 

 

 

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Extra

 

・各章評論

 

Ⅰ章 Frühlingsbeginn Ⅱ章 Abend

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疑問を立てたり伏線を立てたりと、色々と準備をしている章ですね。

ここの部分をまるごと体験版に入れてグランドエンドのような構成にしたのは、おそらく「在りし日」を際立たせたり、「エロゲー的リアリズム」を意識させるためなんだと思います。

まぁ、僕は体験版やってないんですけど。

 

 

Ⅲ章 Olympia

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稟ルート。

おそらく、このルートでは世界というものの不確かさを描いたのだと思います。稟にとって父親は母親と自分を引き離した敵であり、小さい関節人形は自分の母親になる。

同時に、Olympiaという関節人形を知らない直哉にとって、Olympiaはあるひとつの絵画でしか無い。Olympiaという単語が指し示すものが幾つかの様相を持つように、自分が見ている世界というのもまた(そういうのがあればですが)真実とはかけ離れたものなのかもしれない。

「他我理論」でも似たようなことを言いましたが、世界というのは不確かなものなんです。稟が関節人形を母親と思い込んでいたように、我々の世界もまた何かを正しく見てないことがある。

だけど、そんな不確かな世界の中で、屋上から落ちそうになる稟へ直哉はこう言います。

だったら、お前が俺の手を掴め!

俺が掴めない!俺が握れない!お前の手が!俺の手を掴め!!

―――草薙直哉 (Ⅲ章・Olympia)

それは稟への罪悪感に働きかける卑怯な言葉だったかもしれませんが、稟は「直哉はこうであるはず」と思い込んでしまっています。そういう世界を引き受けた、と言い換えてもいいかもしれません。そんな稟へと直哉は「自ら手を掴む」という世界を引き受けさせることをします。つまり、不確かな世界に意義を与える、と言って良いでしょう。

 

そうやって世界を引き受けた稟だからこそ、前は怯えていた香奈へ戦うことが出来るわけですね。……まぁちょっと怖いですけど。

 

ルートとしては一番評価が難しいというか…。真琴ルートはエロゲーとして素晴らしいルート。里奈&優美ルートは詩的で美しいルート。雫ルートは過去を明らかにする物語として熱いルート。そういう住み分けができているので、稟ルートはやっぱり評価しづらいですね…。正直プレイ中はちょっと暇でした…。

 

 

Ⅲ章 PicaPica

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真琴ルート。

全体の大まかな流れとしては、真琴とその母である紗希との確執を直哉が取りなしていくというものでしょう。もちろん、ルート中では直接的な争いを描いているのではなく、寧や霧乃を中心とした中村家(と鳥谷家)の騒動に重きをおいているのですが、それは真琴と紗希のわだかまりを解くきっかけなんですね。

ある意味、よくあるエロゲ展開(惚れた女の子の悩みを解決する)であり、ルート単体で言えば一番分かりやすく面白かったです。しかし、このエロゲらしいルートで「愛は比類なきもの」なんて言う当たり底意地が悪いというか、手放しにエロゲらしいとはいえないような構成となっています。

 

真琴を指すのは「ウサギ」であり、紗希を指すのは「カササギ」です。

それは、彼女らの芸名からも一目瞭然です。じゃあ、その二つをつなぐものは何なのでしょうか?それは勿論「月」であり、これは草薙直哉の事を示しているわけです。ウサギは「月兎」として、カササギは「鵲の鏡」として。「月兎」は月の表側に、「鵲の鏡」は月の裏側にある。この二つは永遠に交わらない…月がなければ。というのが本ルートの基礎骨格です。

さて、月が示しているのは直哉だけではありません。月と六ペンスに代表されるように月とは夢や芸術的情熱をも指します。真琴も紗希も芸術に心奪われ、そのために多くのものを懸けてきました。真琴も紗希も終ぞそれに届くことはありませんでしたが、ふたりとも確かに月に手を伸ばしたのでしょう。

Cry for the moon……

私はもう、月が欲しいと泣く子供じゃない

―――鳥谷真琴 (Ⅲ章・PicaPica)

 

しかし、偽物でも月を手にしたキャラクターが一人います。それが寧です。彼女はストーリーの最後で母親である霧乃にお願いをし、紙でできた月をまるで本物のように手に入れました。もちろん寧は芸術的情熱など持ってはいないでしょう。では、寧にとっての月とは何なのでしょうか?それは月と六ペンスが指し示すもう一つの意味である夢です。寧にとっては母親と一緒にいることこそが夢でした。だからこそ、寧は夢を叶えられ、その月を手にすることができたのでしょう。

 

さぁ、でも本当はうさぎは、大好きな人の腕の中で眠りたかったのかもしれませんよ

―――草薙直哉 (Ⅲ章・PicaPica)

真琴がほんとうに欲しかったのはなんだったのでしょうか。夢なのか、月なのか、それとも愛だったのか。

そして真琴は愛を手に入れ、愛以外のすべてを失った

―――草薙直哉 (Ⅲ章・PicaPica)

愛は比類なきもの、愛のためには全てが犠牲にされる。愛も芸術への情熱も総ては等価です。差し出すのは心を占める一番大切な席。それは一つしか無いからこそどれか一つしか手に入らない。真琴は圭の、直哉の心を響かせることは出来ませんでした。月を手に入れることは叶わず、ゆえに大好きな人の腕の中で眠ることにしたのです。

月が欲しかった彼女は、本当に月が何か分かっていたのでしょうか。月はもうここにあったのに、それでも月を欲しがっていたのでしょうか。それとも彼女は月を永遠に手に入れることなどできなかったのでしょうか。

彼女にとっての月は愛なのか、芸術的情熱なのか。それは彼女にもわからないのでしょうね。

 

余談ではありますが、一切過去が関わってこないルートはこれだけです。そういう意味で言うと、サクラノ詩のもう一つの到達点である「恋愛的幸福」に即した綺麗なルートと言えるでしょう。直ぐ側に在るはずの幸福に気付く、というのも「好きな人の腕の中で眠る」という形で解釈ができますし、恋愛的な価値観で見たサクラノ詩と言って差し支え無いと思えます。

すかぢ氏ではなく浅生氏が唯一担当したルートであるため、あまり重きを置かれた見方をされてないようですが、僕はこのPicaPicaこそが、サクラノ詩の裏側のようなルートだと思うのですが、如何か。

 

 

Ⅲ章 ZYPREESEN(Merchen)

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里奈&優美ルート。

生と死。千年桜。そして三角関係の恋愛…。

作品全体のテーマがこのルートに内包されていると言っても過言ではありません。

だからこそ、このルートに関して話すとサクラノ詩全体の話にどうしてもなってしまうので端的な部分だけ。

 

母親を亡くした直哉は『櫻日狂想』という作品を作り出しました。それは作中で何度も指摘されているように、中原中也の『春日狂想』に強く影響を受けたものであり、「亡くしてしまった者への哀悼」であると多くの人が口をそろえて言います。

実際、直哉の『櫻日狂想』はそういう哀悼なのでしょうが、気をつけなければいけないのは、『櫻日狂想』は母親へではなく、母親を亡くした自分への作品であるという点です。

桜は死人に手向けるには、きらびやかすぎる。

生きている人間にこそふさわしい……

―――草薙直哉 (Ⅲ章・ZYPREESEN)

 里奈との共作でも分かる通り、直哉の(あるいは作品全体での)桜のイメージは「明るい『生』」です。それを母親の死から見出すには中原中也の『春日狂想』が必要だった。あるいは、『春日狂想』からその価値を見出した、といったほうが正しいでしょうか。どちらにせよ、「奉仕の気持ち」というものに直哉はとらわれてしまった。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

―――春日狂想 (中原中也

とらわれてしまった、というと言い方が悪いですが、そうすると直哉は失ってしまった『愛』を取り戻せると思ったのです。だからこそ、誰かと愛しあった直哉は実直に愛へと奉仕する。奉仕の先にあった(恋愛的な)愛を得た直哉は、(怖いほどに)綺麗に愛に生きるんですね。

一方、恋愛的に負けてしまった優美ですが、優美もまた過去に自分を助けてくれた男の子とキチンとふれあうことが出来ます。もちろん彼女はレズビアンなわけですから、恋愛対象には見れないんですが、それでも友達というか悪友というか、そんなヤツがいるということが分かるわけです。「反エロゲー的リアリズム」でのテーマですが、川内野優美というキャラも、その一端を担っていると言って良いでしょう。彼女は里奈と結ばれない限り(おそらく)恋愛的な充足を得られないでしょう。恋愛による幸福が全てなら、川内野優美は永遠に幸福に至れないのでしょうか?もちろんそんなことないんですが、そのような問いもⅥ章への伏線となっていて、やはりこのルートって全体のキーとなっているよなぁ、と。

 

さて、桜が「明るい生」なら千年桜はその対比とも言える存在です。

人の夢を喰う千年桜。

人の想いを吸って、花を咲かせる。

それは見事な見事な、花を咲かせる。

美しき物は、美しき物で出来てはいない。

―――草薙直哉 (Ⅲ章・ZYPREESEN)

 千年桜は奇蹟と永遠を持つ存在です。それは誰もが心の奥底で望む欲望です。「2,在りし日の歌」や「7.幸福は美酒のように。あるいはーーー」で語った通り、永遠や奇蹟では人は(本作が示す)幸福には至れない。だからこそ、健一郎と直哉はこれを否定するんですね。そんなもの、ろくなもんじゃねぇぞ、って感じで。

 

個人的には個別で一番気に入っているルートです。幻想的というか、詩的というか、なんというか一から十まで綺麗なルートですよねぇ。

 

 

Ⅲ章 A Nice Derangement of Epitaphs

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雫ルート………雫ルート?

過去編、あるいは健一郎ルートと言ってもいいほど雫が蚊帳の外です。まぁ、雫は萌え担当みたいな。

芸術、美、作品の答えが示されていくルートですね。基本的にここから解答編というか、作中で謎だったものが明らかになっていきます。明石との共犯行為とかもそうなんですが、物語的にも構造的にも明らかになっていくものが増えていく、というのは綺麗です。

 

「櫻七相図」について。あの作品は、「横たわる櫻」を前提にして描かれていますから、テーマも自ずとその関連といえるでしょう。直哉が水菜の死に「櫻日狂想」を捧げたように、健一郎もまた「横たわる櫻」を捧げました。その「横たわる櫻」の関連作品として「櫻七相図」を直哉があれほどに醜悪な作品を描いたのは、「横たわる櫻」の美しさをより鮮明に輝かせるためでしょう。

これはあくまでも贋作だ。元の『横たわる櫻』という偉大な作品があったからこそ成立するインパクトだ

―――草薙直哉 (Ⅲ章・A Nice Derangement of Epitaphs)

「比較芸術の徒」でも似たようなことを言いましたが、対比によって新しい価値観を持って物事はより輝きます。健一郎が水菜の死からあれほど美しい『横たわる櫻』を見出した価値を、直哉は「櫻七相図」を描きその価値をより輝かしました。だからこそあの「櫻七相図」は、直哉が健一郎へと捧げた作品だったのです。

もちろん、「櫻七相図」自体も意味を持ちます。それは苦しみです。

人生は輝かしいだけじゃない、苦しみもまたその裏側にべっとりとくっついている。それを健一郎は分かっていました。だからこそ、健一郎はこの絵達を見た時こう言ったのでしょう。

俺にふさわしい絵だ。こういう絵こそ、俺の死に捧げられる作品だ……

―――草薙健一郎 (Ⅲ章・A Nice Derangement of Epitaphs)

 

と、櫻七相図だけでここまで語ってきましたが、あまり他に言うことはないような。大体本文の方で言ってるので…。

 

 

Ⅳ章 What is mind? No matter. What is matter? Never mind.

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世界と私についての話はを、私の身体と心にも言えるでしょう。だからこそ、自分の身体と心を肯定できた水菜は「幸せ」だということができたわけです。その価値を見出したのは芸術家である草薙健一郎です。芸術家の言葉(作品)が一人の女の子に幸福を気付かせる…。ここらへんは全体のルートの総括でしょう。草薙健一郎が辿り着いた幸福に、息子である直哉が歩み始める、という構図は不理解の断絶の中に走る亀裂のようにも思えます。

 

世界と私の関係をもう少し細かく言うと、アフォーダンスとかそういう話が出てきます。(おそらく、オフィシャルアートワークスに記載されているインタビューでアフォーダンスの話をしたのはここを指しているのでしょう)

世界という「価値の無いもの」に対し、私は価値を見出していく。それは数多の星々から星座というものを見出したように。注釈3でも同じようなことを言ったんですが、星座という価値を見出すためには(当り前ですが)数多の星々が必要です。そこで、数多の星々が星座というものを暗に指し示していて、我々はそれをなぞっただけではないのか?という可能性が出てきます。それこそがアフォーダンスであり、身体性、あるいは世界の優位性とも言えるものです。

もちろん、アフォーダンスなんてもってこなくても、色々とこの優位性を示すことは出来ます。例えば、有名な心理学の調査で、人間に役割を与えるとそれを自然にこなすようになるってのがあるじゃないですか。スタンフォード監獄実験って言うんですけど、あれって人間が環境からその精神を変えてしまうっていい例だと思います。他にも、ベンジャミン・リベットによる脳の実験とか。心で動かそうと思っているよりも早く、体が動いてしまっているという話もあります。まぁこちらは少し古いのでなんともいえませんが。

 

結局、この話って終わらないような気もするんですよね。星座や霧というものを見出すのは、芸術に代表されるような私優位のものでしょう。反対に、数多の星々やアフォーダンスといった始原的な存在はどうしたって世界優位のものになってしまいます。

ですが、きっとこの二つってどっちも正解なんですよ。いや、どっちもがあって正解といったほうがいいでしょうか。芸術は自然を模倣する、あるいは、自然は芸術を模倣する。この言葉の意味ってどっちかだけじゃダメなんだよってことだと思います。

始原的な存在は世界優位でしょう。ですが、そこからは私が優位だったり世界が優位だったりところころ変わる。世界が流動的で、私が多くの経験を積んでいくからこそ、世界は新しい様相を見せるのでしょうね。

と、「4. 世界と私/身体と心」の詳しい解説でした。*15

 

 

Ⅴ章 The Happy Prince and Other Tales

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虚無の話、あるいは歩みの話。

Ⅴ章は結構、批評文内で語ってしまったので章の役割を少し。

おそらく、おおまかな作品テーマとしてはⅤ章で全て出しきってしまっているのだと思います。Ⅵ章で描かれているのは「その先」であり、あるいは「在りし日」を強調するものです。だからこそ、「10.そして櫻は空を舞う」ではⅥ章でなぞることで作品テーマをなぞることが出来たわけです。Ⅵ章とは作品テーマを再びなぞるものであり、それはすでにⅤ章で示されているものなわけですね。

…と、なぜかⅥ章のテーマの話になってしまいましたが、Ⅴ章では章の最後に「今年の桜が最高に綺麗だ」と認めています。このことからも、作品テーマが完結していることが読み取れると思う(のですがどうでしょうか)。Ⅱ章(かⅠ章?)で藍を学校までお姫様抱っこで送るシーン内の会話で「春が嫌いだ」と語った直哉が「桜が綺麗だ」というのは印象深いですね。

 

吹との絵画対決では、おそらく作品内で最後の盛り上がりとしたかったのでしょうね。在りし日のために-inst verー最高でした。直哉が使ったのが点描画ってのもいいですね。Ⅵ章で香奈に「天才の試行錯誤が0.9999999…なんだよ」と語ったのを彷彿とさせました。(確かⅤ章前で一回こんなセリフが出てたはずなんですけど思い出せないです…すいません…)点描画、無限とも思える点の繰り返し。その一つ一つの点では何も生み出せないけど、その積み重ねが一つの芸術を示す…。うわぁ、最高だなぁこの暗喩…。

 

 

Ⅵ章 櫻の森の下を歩む

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振り返りというか、作品テーマを崩さず何処まで作品を綺麗に終わらせられるかみたいな事が伝わってきました。

終わった直後は結構評価に迷った終わり方でしたけど、ある程度時間が経つと正直これ以外に考えられれないですね。まぁそれも作品テーマをある程度自分で消化できたからなんで、そこらへん難しかった人にとっては釈然としない終わり方だったと思います。

カタルシスをもたせられないので、作品を蘇らせるのもマスキングテープという質素なものですし、直哉くんはゲロ吐いて弱いとこ見せまくりですからね。でもまぁ、そこが良いというか、なんかお前エロゲの主人公らしくなくなったよなぁとか酒を飲みながら一緒に語りたい奴になりましたよね(笑)。

 

キャラクター評論に上げるほどではないキャラクターとかの話とかもしておきましょうか。

寧、結構お気に入りのキャラです。PicaPicaから結構好きだったんですけど(ロリコンではないです)ワンシーンだけで僕の心が持って行かれました。弓張学園に通えてるって事は、PicaPicaで持ち上がった問題はなんとかなったんでしょうねぇ。よかったよかった。

フリッドマン、良いキャラしてます。正直初見時には「なんかコイツ教会で神父やってそうだな」とか思いましたけど似て非なるキャラですね。いや全然似てねぇ。

フリッドマンってのは多分、「芸術」というのを批評する一キャラクターなのでしょう。香奈が自分の目を確かな批評眼として信じるように、フリッドマンも金を確かな批評眼(言ってしまえば物差しです)と見てるのでしょうね。鳥谷とかもその気があって、鳥谷が香奈と言ってることがちょいちょい被ってるのはキャラ設定以外にもそういうところがあるかもしれません。

あと校長。あんた全然変わらんな…。正直Ⅳ章の校長のほうが好みなんですけど、まぁあれはあれで健一郎に惚れた女の一面とか考えるとなんか萌えるなぁ。

 

 

・キャラクター評論

 

草薙直哉

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主人公。比較芸術の徒にして、桜の芸術家。

Ⅲ章終了まではエロゲーの主人公らしい振る舞いが続きますが、Ⅳ章で父親に視点が移るというエロゲーではあまり考えられない事が起きると、作品全体の雰囲気が変わり、それによって直哉君のキャラクター像も少しづつ変わっていきます。

Ⅴ章とかってエロゲーのBAD的な位置づけの「友情END」に近いんですよね。別にソレが悪いってわけじゃないんだぜってのを語ったのが「9.反エロゲー的リアリズム」なのでまぁ詳しくはそっちを。

 

櫻の芸術家って多分「当り前のような奇蹟」と「最高の美しさ」を併せ持った評価なのだと思います。

直哉はずっと作品に対し、誰かが新しい価値観に気付くような思いを込めてきました。でもそれって、なんとなくでぱっと出来るものじゃないんですよ。点描画に代表されるように、血の滲むような努力の果てにようやく一つの作品ができあがる。それをさらっとやってのけたようにするから、多くの人はそれが奇蹟だと気付かない。桜は、1年間色々なものに耐えてようやくその花を咲かせるんです。それは当り前のような奇蹟。誰もが気づかないでいる、どこにでもある奇蹟なんですよ。

作品の美しさって桜のように儚いのだと思います。作品を美しいと思っても、いつかは飽きてしまうじゃないですか。櫻達の足跡が時が経つに連れて当たり前の風景になってしまったように、どれだけ作品に美しさを感じてもそれはいつか消えてしまう。それはどうしようもないからこそ、直哉は「今年の桜は最高だ」と言ってもらえるような作品を作り出す。こう考えると彼の作品の多くが残らなかったのにも納得がいきます。彼にとっての作品って永遠を象徴していたんですけど、それと同時に一瞬も象徴していたんだと思います。永遠の作品の中に、一瞬の美しさ。彼の芸術家としての在り方ってそのまんま作品の骨幹に関わるものなんですね。

 

個人的「一緒に酒を飲み交わしたい主人公」No1受賞おめでとうございます。ちなみに2位はランス君です。全然タイプちげぇ。

 

 

御桜稟

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「桜」といっても「千年桜」よりの「桜」でしょうか。

永遠、絶対の美、閉じた才能。

本作のテーマに対してまっすぐ立ち向かう彼女の存在は一つの芸術作品のように美しいです。まぁ、信じているというよりも忘れることが出来ないという”呪い’のようなものなんですけどね。

 

個人的には最後までよくわからないキャラでした。多分彼女の過去自体が作品の伏線なので、軽々しく扱えないというわけで、そこらへんが彼女のキャラの謎さに拍車をかけているのだと思います。稟ルートはともかく、Ⅱ章で鳥谷にセクハラ仕掛ける場面とか「え!?稟ちゃんそんなキャラなの!?」とか驚いた記憶ありますし。なんというか、プレイヤーとして稟のキャラ変遷を上手く追えなかった印象です。

 

 

鳥谷真琴

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飛び立つ「鳥」。あるいは「橋渡し」。

カササギは月の裏側という意味以外にも「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」という詩にあるように、織姫と彦星の橋渡しとしての役割を持ちます。

その「橋渡し」としての側面が現れたのが「つきのうさぎ」という生活に寄り添う作品なのでしょう。気づけば当り前のようにそこにある心地よいひととき、意識されない’ありふれた’もの。弱き神になんとなく似ているこれを、直哉が気に入るのは必然とも言えます。誰かの世界と自分の世界をありふれた作品で繋げる。世界と世界の橋渡し。ありふれたからこそ気付かないわけですね。だからこそ芸術作品足り得ないわけですが、これはこれで素晴らしい作品だと思います。僕も欲しいですし。

「橋渡し」としての役割はⅥ章でも見えて、直哉と稟の橋渡しをするのも彼女です。結果的に失敗に繋がりますけど、多分次があったのならそれは鳥谷のおかげなのでしょうねぇ。

 

 

氷川里奈

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テーマとしては「死」とか、そんなんだと思うんですけど、やはりそこまで明確なものでも無い気がします。言うなれば「か弱いもの」とかでしょうか。

 

里奈はなんだかんだでⅡ章冒頭のいい感じに厨二はいってる時が好きでした。あのテンションをもっと持続させてても良かったと思うんですけど、優美といるとどうしてもツッコミに回らざる負えないですからね。あんまり里奈一人だけのシーンってなかったよなぁ、と。

芸術的な才能として、恐らく直哉の次に同じようなモノをもっているのでしょうね。元々才能があった彼女ですけど、直哉との出会いによって対比の美しさに気付くわけです。ムーア展とかもし出したらいい線までいくんじゃないでしょうか。まぁ本編では里奈が芸術家としての一面を見せることは少ないのでアレですけど。

 

 

川内野優美

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最初、OPの影響もあるんですけど、優美って直哉の対比となるキャラだと思ったんですよ。最終章のヒロインは優美なんじゃないかって思ったくらい僕は優美を重視してました。まぁ実際、優美と直哉って意見が被ることが多くて、感性としては似たものを持っているんじゃないでしょうか。

まぁ、ZYPRESSENでも言いましたが、優美は先天的に恋愛的な幸福を得るのが難しい子なので、作品のテーマの一端を担っているのでしょうね。

 

鈴菜「あれで優美お姉様は、草薙様の事を大層気にってましたのですよ。たぶん異性の中では例外的に好きだったと思います」

僕、直哉「んなぁ、アホな」

ここにきて僕と直哉が初めてシンクロした部分でした。いやいや、気付かねぇよ!!

 

 

・夏目雫

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キャラクターテーマとしては「無意識」、あるいは「心」とかでしょうか。

夢呑みって多分、他人の意識(心)をそのまま受け入れることなんだと思います。だから、心を持たない人ではないものは耐えられるけど、人としての心を持ってしまったらたやすく行えることではない。それがどのような形であれ、他人の心をそのまま受け入れるって気持ち悪いものなんでしょうね。

 

うーん、雫個人に関してはあんまりいうこともないですね。精々くぱぁくらいか!?

 

 

・夏目藍

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弱き神。あるいは「愛」。

夏目藍の藍って「愛」から来ていると思うんですよ。いや、半分くらい本気で。

PicaPicaの「鳥」谷だったり、本作のモチーフである桜を冠した「御桜」と「桜子」、氷「川」と「川」内野と、名前と在り方が相関関係にあります。もちろんある程度は偶然でしょうが、ここまで来ると意識したものとして見ていいのではないでしょうか。

 

藍って最初から最後までずっと見守っていてくれているキャラクターで、みんなでわいわいする、というところにはずっと参加していなかったように思えます。水着をみんなで買いに行くシーンとか、「櫻達の足跡」を完成させるところとか、プールで花火を見た時とか。一歩引いている、というより意図的に距離を離されていたようにも思えますね。

そんな藍が直哉が折れそうなときに支えてくれた。藍はきっと、気づかないけど支えていてくれた存在とかそういうものなんでしょう。だからこそ弱き神足りえるのですが。

 

というかアレだ。バブみは幸福に繋がるものだったのだというわけだ。

 

 

夏目圭

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ツバメさん。あるいは在りし日の証とでも言いましょうか。

OPで圭が死ぬのは示唆されていたらしいですが、僕は全然気づかなかったため「いやいや……嘘でしょ?え?」と、ある意味直哉君と同調してしまいました。ショックより先に信じられないというか、なんかそういう感情が先に来るんですね。

 

圭にとって描くことは、世界の限界を見極めること、というのは真琴の言葉ですが、こういうところからも「言葉」と「芸術」の関係が見えると思います。言ってしまえば「自分が何を描けるのか」「自分が描けないものは何か」の境界こそが世界の限界なわけで、それを直哉と共に描くことでより鮮明に描こうとしたのかもしれません。

というかコイツ妙に立ち絵の枚数多いよな…。ヒロインより多いんじゃないか…?

 

 

明石亘

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勝手な名前を付けさせてもらうなら、「再生批評*16」とかそういうテーマだと思います。

芸術作品が新たな価値観を持つとまた違って見えるように、同一のモノですら見る方向が違えば違ったものが見える…。当り前のことなんですけど、これは芸術の一側面であるはずなんです。昔の直哉が春を嫌いでも、今(Ⅵ章)の直哉は多分春を嫌いではないでしょう。それは直哉自身のものの見方が変わったからなんですよね。

明石って最初キチ◯◯かと思いましたけど、実はその行動の一つ一つに一貫性があったじゃないですか。Ⅱ章の最後ではめちゃくちゃカッコいい兄貴として、過去編としては目標に向かって努力し続ける共犯者として…。

そういう姿を見た後、Ⅰ章を再び見てみると明石は明石なりに必死に色んな事を努力してる。何も知らない人間から見たら頭おかしいんですけど、事情や目的を知って見てみるとめちゃくちゃカッコいいキャラクターになる。

 

明石亘の生き方を一つの作品とするなら、新たなピースが埋め込まれることによって今までとまったく違った風景を見せる。なるほど、草薙直哉と明石亘が似てるってのもこういうところから来ているのかもしれませんね。

まぁ、大人になってAV撮ってるという話を聞いた時は大爆笑しましたが。妹達泣くぞ(笑)。

 

 

トーマス

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トーマスについて結構嫌いな人が多くて、Ⅴ章までは僕も同じ感想だったんですけど、Ⅵ章で評価が一転しました。

多分トーマスって「エロゲー的リアリズム」の象徴みたいなキャラクターなんですよ。「エロこそがパワー!」とか「モテこそがパワー!」みたいな。彼女がいれば良い!!女の子に囲まれれば幸せだ!!だから今のワイは最強だ!!!

皆さんがどんな状況でエロゲーをやってるかはわからないですけど、すくなくとも僕は女性関係に満足しているとは言えない状況です。彼女いませんし、いた事もありませんし。

ですから、そういう僻みみたいなのってわかるんですよ。もし今の自分が急にモテだしたら、モテてないやつをどうしたって下に見てしまいます。学生時代のトーマスってめちゃくちゃ可愛い女の子ばっかの部活はいったのに女の子(圭含む)はみんな直哉に惚れてる(かある程度の好意を持っている)じゃないですか。明石はそういう目で見てなかっただろうですけど、トーマスはすげぇ辛かったと思います。だから、Ⅵ章で香奈の口から「直哉を認めていたんでしょ?」みたいな発言が出たんですよ。トーマスからすれば直哉はなんかモテてて、いけ好かない野郎で、でもなんとなくモテる理由もわかる…。まぁ学年に一人はいたアイツですよ(笑)。

 

そんなやつを見返そうと思って「モテ」を実現したから「エロはパワー!!」とか言っちゃうんでしょうね。

でも、「反エロゲー的リアリズム」たるこの作品ですから、やっぱり直哉に殴られて負けちゃうわけです。「恋愛だけがすべてじゃねぇよ!舐めんな!!」ってクロスカウンターでやられちゃう。恋愛至上主義の「エロゲー的リアリズム」が「反エロゲー的リアリズム」の主人公に殴られるわけです。トーマスが直哉との喧嘩で負けたのは、直哉が恋愛とは関係のないところで絵画のために身体を鍛えていたためというのも良いメタファーだと思います。

ある意味、トーマスってのはプレイヤーの「欲望」的な部分だったのかもしれませんね。そう思うと、なんだか嫌いになれないんですよねぇ、トーマス。

 

……まぁ、Ⅵ章の服装は死ぬほどダサいんですけど(笑)。

 

 

草薙健一郎

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Ⅳ章の主人公。多分テーマとしてはウィトゲンシュタインとかが裏にあるんでしょう。彼の遺言が本当にウィトゲンシュタインを思い起こさせますからね…。

エロゲーにおける父親って結構色んなパターンがあるんですけど、この作品内では「辿り着く到達点」として描かれていたように思われます。もちろん、健一郎自身多くの悩みと挫折を経験してここまで来たのでしょうが、その人生の終わりを見たプレイヤーは直哉にも同じことを期待してしまいます。

結論として直哉はちゃんと同じ所(あるいはその先)に辿り着けたのですが、それを健一郎が知ったらどんなことを言うんでしょうか。案外「当り前だろ、なんたって俺の息子だからな」とかそんなこと言うかもしれませんね。

僕の中ではARMSの父親みたいなイメージ。なんかこの人マジでなんでも出来そうですよねぇ…。

 

 

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ロリ、関節球体人形、友達の母親といいう属性だけで言えば作中一濃いキャラクターではないでしょうか。吹って結局御桜稟の母親だったという話なんですけど、そのまま精神が稟の母親なのではなく、その特性を引き継ぐようなキャラクターなのだと思います。

 ていうか僕は吹だったらギリイケます。

 

 

長山香奈

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かななん(僕の脳内あだ名)結構好きなんですけど、色々と評価が別れるキャラクターではありますね。明石と一緒で「再生批評」たるキャラクターなんですけど、彼女の場合目的が鳥谷真琴が目指したような所にあるので難しいというかなんというか。ああいうサバサバした目的のためには手段を選ばないキャラクターは好きなんですけどね。

彼女は凡人で、それは作中でも表現されてるんですけど、天才と凡人の違いについては触れられなかったような気もします。御桜稟とかは多分「才能が透けて見える天才」で、直哉は「才能を忘れさせる天才」なんですけど、その二人と香奈の違いって一体何だったのでしょうか。東京芸術大学とかの入学試験では、試験監はある程度見ただけで分かるみたいな話を聞いたことあるのですけど、それも経験や直感の話ですし。

 

明石が芸術の「在り方」の話をしたのに対し、香奈は芸術の「風貌」の話をしたという対比があると思います。明石は「芸術とはなんであるか」みたいな哲学的なテーマを持ちだしたんですけど、香奈は「優れた芸術とは何か(私が認められる芸術を探すという意味)」という随分我々に即した話をしてます。

長山香奈が御桜稟の一部の設定を受け継いでいるみたいな話を聞いたので、そういう風に考えると香奈って結構なキーパーソンなのかもしれないですねぇ。

 

 

氷川ルリヲ

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好きです。付き合って下さい。

 

…というので終わりなのはアレなのですが、ルリヲに関してはマジで可愛いという感想以外出てこないですね。藍が物語的な好みだとすれば、ルリヲはキャラクター的な好みなんですよ。なんというかキャラゲーとして好きな感じ。

余談なんですけど、ルリヲって何で一人だけ異世界みたいな名前なんですか…?姉である里奈からも「ルリヲさん」呼ばわりですし、なんかこう、一人だけ浮いてますよね…?いや、そこも可愛いんですけど。

サクラノ刻でヒロインに格上げされるといいなぁ…。……されるよね!?

 

 

咲崎桜子

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「 ”桜”のように散っていったそれらは、我々が想い起こす度に”咲”き誇る。」と僕は最後にポエムりましたが、でも本当に咲崎ってそういうキャラクターなんだと思います。Ⅵ章で「咲崎」という名前を見た瞬間「ああー」って思ってしまいましたしね。

咲崎は名前の通り「御桜稟」を意識したキャラで、言わば第二部のメインヒロインみたいな。サクラノ刻がサクラノ詩後の物語なら、きっと咲崎って重要なポジションにいるんでしょうねぇ。いや、なんとなくの予想なんですけど。

 

 

雑感

テーマが深く、故にテーマをある程度理解してないと物足りないような構造になっていると思います。そこらへんが評価の分かれ目というか、最後物足りないと感じた原因なのでしょうね。

次回作はサクラノ刻ということで。……一体次は何年後なんだ…と思ってしまいますが、時間をかけて良い物を作ってくれるならそれでいいと思う派なのでわりと気長に待ってます。

 

全然関係ない話なんですけど、前作「素晴らしき日々」の批評を作者であるすかぢさんに見ていただいたそうで。なんかもう嬉しさと恥ずかしさが混ざってあの記事を消そうかどうか迷ったんですが(割りとマジで)、まぁあの時の自分はあれで全力でしたし、消すこともねぇかなぁと思って今に至ります。あの時にしか書けないこともきっとあるでしょうしね。

 

本来は4月頃にこの記事を上げて、桜が咲いている風景を見ながらこの批評を、そしてサクラノ詩を思い出していただければなと思っていたんですが……夏ですね。予想外に時間がかかりすぎました。その分文字数も多くなりました。どうしてこうなった。

 

美しいゲームでした。それでいて、美しいだけじゃない。それこそ桜のようなゲームでした。プレイしている時も、批評を書いている時も、本当に楽しかったです。

 

それでは、次回作、サクラノ刻で。

……ルリヲはヒロインになりますよね!?なりますよね!?

 

(終)

 

 

 

 

 

 

*1:ここらへんはまんま素晴らしき日々の議論ですが、結構有用なのでパクらしてもらいました。テヘリ。

*2:水月より「理解するためには、それを受けとめる器がいる。そして理解できないものは、存在していないのと同じ事になる。物事を何らかの存在として認識するためには、理解するというプロセスが必要だということです」みたいな。いや、僕は水月やったこと無いんですけど。

*3:しかし、批評こそが芸術の枠組みを決めるのなら芸術作品など要らないのではないか?という疑問が生まれる。これがワイルドがワーズワースの湖畔での詩を例えに出した批評の優位性である。だがしかし、芸術作品なしに我々は批評を行うことなど可能なのだろうか?批評とは価値を見出すもの、つまり価値を見出す元がなければならない。数多の星から星座を見出すのに星の存在が必要不可欠なように、芸術批評には芸術作品が必要不可欠なのだ。さらに言えば、批評にはその正当性がなければならない。このサクラノ詩批評から政治や宗教の話を見出したとしても、それを多くの人に受け入れてもらえるかどうかは別の話だ。日本語というものを日本人が(自然に)受け入れて使うように、批評はそれを聞いた人々が納得しなければ力を持たない。いわば、ここに芸術/批評と世界/言葉の関係がある。つまり芸術/批評(世界/言葉)における循環の関係だ。…と思う(急に自信なくす人)。

*4:恐らく、「正しい」という話自体が間違っているようにも思える。大事なのは、どのような世界を引き受けるかの話であり、どちらが正しいのかではないはずだ。

*5:どうでもいいですけど、これ言ってるのは電波的な彼女ではないですね。マジでどうでもいい。

*6:素晴らしき日々』を絡めるなら「生きる意志」とも言えますね。

*7:記憶の説明として間違ってたらゴメンナサイ。ようするに記憶は情報にすぎないですよってことが言いたいだけです。

*8:補足というか、言い訳をさせてもらうと、リアリズムとは「現実」を写実、つまりコピーしたものと捉えてもらうとわかりやすいかもしれない。ゲーム的リアリズムなら、現実をコピーしてゲームの形に合わせたものであり、エロゲー的リアリズムなら、現実をコピーしてエロゲーに合わせたものというわけである。コピーした先が一緒なら(つまりエロゲーという同じ媒体なら)ある程度共有されるもの、つまり王道がある。ゆえにリアリズムがひとつの共通項や「らしさ」になるのだ。とか、そういう説明では如何か…。

*9:ZYPREESENでは少しその像に亀裂が入っていたが。あれは準備段階なのだろう

*10:圭の死で直哉が藍に「俺が今までやってきたことは間違っていたのか」なんて問うシーンは、主人公としてはとても弱く、かっこ悪く、だけどだからこそとても人間臭い。Ⅳ章で草薙健一郎に視点を移したのは、草薙直哉をプレイヤーから離すためなのだろう。Ⅴ章でプレイヤーは草薙直哉というキャラクターを主人公としてではなく、一人の人間として見ることを強いられるのである。

*11:この構造は素晴らしき日々でも見られる構造だ。

*12:もちろん、恋愛による幸福を否定はしていない。それがⅢ章全体のテーマであろう。だがサクラノ詩という作品を考えた時、どうしてもその幸福観よりも「反エロゲー的」な幸福観が見えてくるというだけの話だ。

*13:しかし僕はなぜこんなに熱くエロゲについて語っているのだろうか。おそらくこれが現役童貞の原因なのだろう…。

*14:詳しくはフィクションは夢想か。我々が超越しなければならないものとは。 ――元長柾木氏のツイートを考える―― - ここにいるすべての人のためにをどうぞ。

*15:ココらへんの元ネタは恐らくロラン・バルトとかソシュールなんでしょうね。まぁ僕も解説本しか読んでないんで詳しいことはわからないんですけど。内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」とか結構オススメですんで、興味があればどうぞ。

*16:しかしどこかの批評集団がつけそうな名前ですね