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「素晴らしき日々」を再批評してみる。(5136文字)

 

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少しばかり余談というか、雑談的な話。

 

個人的には「素晴らしき日々批評」の焼き直しなのですけど、多分普通に見れば「素晴らしき日々批評」としての形ではないです。

言ってしまえば妄想に近い形の「素晴らしき日々論」みたいな。僕が僕の疑問に応えるためだけの文章です。ようするにオナニー文だ!シコシコバレリーナだ!!

 

というわけでとりあえず、素晴らしき日々のネタバレ注意。

koyayoi.hatenablog.com

前記事はこちらで。

 

そんなかんじで始めていきましょー。

 

 

唐突ですけど、物事の価値ってどういうものだと思いますか?

物の価値でわかりやすい尺度って言えば、多分金銭とか。貨幣的価値というものでしょうね。

事だって、好き嫌いとか、高尚低俗とか。たぶんそういう風に価値がつけられると思います。

でも、そういうのって絶対のものじゃないんですよ。言ってしまえば、物事の価値なんて欺瞞にすぎないんです。

「私という魂は世界に属さない・・それは世界の限界である

世界の意義は世界の外側になければならない、世界の中では全てはあるようにあり、すべては起こるように起こる

だから・・世界の中には価値が存在しない」

世界の中には価値は存在しない。

金も、名誉も、女も、夢も、

人権も、民主主義も、ミサイルも、政治も、

宗教も、神も、信念も、思想も、

哲学も、科学も、家族も、愛も、

当然あらゆる物語だって世界の一部でしか無い。

それらすべては世界の限界でも外側でもない。

――素晴らしき日々

 価値って、多分ラベリングみたいなもので、そのラベルを剥がしてしまえば価値ってものが消えてしまうんだと思います。物事の価値って刻一刻と変わっていって、それって多分心の動きみたいなものなんですけど、そういう安定しない絶対じゃないモノ。それが価値です。

ほら、美しい景色とか見た時に、その時はすごい価値のあるモノと思っても、いつしかそれを忘れていたり、見た時ほどの価値を見いだせなくなることってありませんか?

世界の中にあるもの、それは”私”の中にあって、全部等しく無価値に”モノ”として見ることが出来るんです。世界は原子運動の塊だーとか、画像はドットの集合だーとか。そういうどうしようもない正しさ。それが価値を剥がした先にあるものです。

 

でも、そういうモノの見方って生きる力がある生き方でしょうか?

素晴らしき日々から引用したように「世界の中」には価値はありません。

価値をつけられるのはその外側からだけなんですよ。だからこそ、皆守はこう続けます。

世界・・

それは言ってしまえば器だ。

世界は器でしかありえない・・。

器は、器によって満たされることなどありえない。

 ――素晴らしき日々

 器を満たすもの、世界の中のモノに価値を与えるもの。

一体それってなんなんでしょうか?

 

 

さて、話を中断して「意味」と「意義」についてのお話をしましょう。

フレーゲウィトゲンシュタインで用いられる「意味」と「意義」って、厳密に定義としては違うんですけど、まぁ命題においての用法の違いみたいな感じなんで、とりあえずわかりやすさ重視でフレーゲ的な解釈で進めておきます。(まぁ僕も全然理解してないんですけど)

たとえば、「明けの明星」 と 「宵の明星」 は、同じ モノ (金星) を表示しているが、表示された 「様態」 (実際的な認識) も、ふくまれている。名前 (あるいは、記号) が表示する モノ を 「意味」 と云い、(表示された) モノ の 「様態」 は、名前 (あるいは、記号) の 「意義」 として考えられる。したがって、「明けの明星」 と 「宵の明星」 は、「意味」 は同じであるが、それらの表現の 「意義」 は同一ではない。
 記号の 「意味」 が、感覚的・知覚的な対象であるならば、(対象の) 表象は、認識主体にとって、主観的な 「内的な」 像である。すなわち、或る人が抱く像 (表象) は、ほかの人が抱く像 (表象) と同じではない。固有名詞の意味は、固有名詞を使って表示される対象そのものであるが、どのような像 (表象) を抱くか、という点は、主観的である。「意味」 と 「像」 との中間に、「意義」 が成立する。たとえば、「月 (the moon)」 を考えれば、「月」 それ自体は、「意味」 に対応するが、「兎が餅つきしている」 像を描く人もいれば、「アポロ 号が着陸した」 像を描く人もいる。

――『意味と意義について』

 分かりやすく誤解を恐れずに言うと、「意味」とは”対象を指し示すこと”であり、「意義」とは”対象の捉え方”である、らしい。『論考を読む(野矢茂樹著)』を参考にしてみると、「意義」は「その指示対象を規定する仕方」とのことらしい。

ここで、さっきの「価値」の話を持ってきましょう。

すべての物事は「価値」を取っ払ってしまうと、指示対象の集まりでしかなくなります。キリンがいて、女がいて、資本主義があって、ミサイルがあって、それだけ。それだけの世界。彩りがない世界。それが「意味」の世界です。

 

でも、生きている世界ってそうじゃないですよね。

美しいものがあって、好きな人がいて、苦手なものがあって、何かに笑って、悲しんで…

そんな彩りに満ちた世界。ありふれた日常、素晴らしき日々ってのはそういう世界だと思うんですよ。

「価値」が無い世界。いや、「価値」を見いだせない世界。そんな「意味」しかない世界に足りないもの。

それが「意志」です。「生きる意志」ですよ。

「生きる意志」、それは「世界を引き受けること」に他なりません。対象をどのように捉えるか、つまりここにおいて「意義」が出てくるわけです。

言ってしまえば、「意義」とは「意志」があるからこそ浮かび上がってくるものなんです。

そしてこの「意義」は物事に「価値」を与えます。言ってしまえば、「価値」を見出すことは「意志」の成せる技なのでしょう。

 

でもこういう「意志」はたびたび、世界の凄惨さを前に失ってしまう。

俺は世界一気むずかしい、天才の言葉を反芻していた。

それは単純だし、誰もが知っている答えでありながら、到達することは厄介極まりない・・。

何故ならば・・この言葉には、必ず神がいるからだ。

”神を信じるとは、生の意義に関する問いを理解することである”

”神を信じるとは、世界の事実によって問題が片付くわけではないことをみてとることである”

”神を信じるとは、生が意義を持つことを見てとることである”

その神は奇跡も起こさず。

世界を一週間で作ることもない。

基本何もせずに・・、

それでも無責任に・・、

我々に”幸福に生きよ”といつでも耳元で囁くだけだ。

そして、すべての調和を誰のためでも無く作り上げるだけの存在だ。

それが神と呼ばれるものの正体だ・・。

神は、嘘も不正も、まがい物も癒やしさも、汚さも・・それらすべてのものの存在を許している。

どんな不条理が俺たちの人生に降りかかろうと、それでも神は我々に言うであろう。

”幸福に生きよ”

――素晴らしき日々

世界を引き受けること、それは神を信じることに非常に近しいことではないでしょうか。

生の意義に関する問題というのは、もちろん生きる意味みたいな、そういう抽象的な問題なんですよ。漠然として、問いとしてナンセンス。でも、神を信じることが出来れば(世界を引き受ければ)これがナンセンスだって分かる。それは世界の諸事情だけでは片付かない。だって”私”がいないから。”私’というものが、意志が現れて初めて、「生が意義を持つことを見て」とることが出来る…。

 

でも、世界の凄惨さを前にどうやって生きる意志を取り戻すんでしょう。

そこに出てくるのが「美」です。

「生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世界、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通底点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであろう」

 ――論理哲学論考を読む(野矢茂樹著)

そして美とは、まさに幸福にするもののことだ。

――ウィトゲンシュタイン(草稿)

作中で言えば「幸福に生きよ!」がこれに当たります。

「幸福に生きよ!」に彩られた世界。美しい夕焼け。向日葵の坂。

我々はこれを見て、ああ世界って美しいな、と”感じ”ます。

そう、’感じ”るんですよ。それは決して語りえず示されず、ただ”感じ’ることのみでしか得られない。そのことが一番僕の「素晴らしき日々批評」に足りないものでした。

6.54 限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある

――ウィトゲンシュタイン論理哲学論考

この美しさ。それを感じることこそ、生の意志を呼び起こすものなんです。

 

その旋律は、誰かの耳に届く、

俺以外のの誰か、

皿を洗う羽咲に、

最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、

店に集まるオカマ野郎どもに……

音楽は響く。

店内に響く。

世界に響く。

世界の限界まで響く。

そこで誰かが聴いているだろうか?

聴いていないのだろうか?

それでも俺は……音楽を奏でる。

誰のためでもなく、

それを聴く、あなたのために……。

――素晴らしき日々

 僕が素晴らしき日々を最初にプレイし、これを体験した時、まるで「祈り」のようだと感じました。

いるかどうかわからない。意味の他者とか新たな比喩とか、そういうことで他者を感じることはできたけど、それでもやっぱり分からない。それに、「幸福に生きよ」が生きる力を呼び起こす「美」となると感じているけど、どこかの誰かにとってはそうじゃないかもしれない。世界に「美」なんて感じられず、「幸福に生きよ!」なんて言われても、ただ醜い世界が広がるだけかもしれない。(言ってしまえば、幸福に生きよ!ってのは究極的な利己的な言葉ですからね)。僕は、素晴らしき日々批評の副題を「すべての人を救う物語」ってしたんですけど、すべての人を救うことはできないかもしれないって思うようになったんです。だって「美」ってのは’感じる’ことしかできないから。神様を信じることと同じように。それは方法とか論理とかではなく、一つの直感なんですよ。

忘れてはならないことがある。如何に洗礼された、どんなに哲学的な疑いも、直感を基礎としている。

――ウィトゲンシュタイン

 だから、皆守は(そしてシナリオ氏は)祈るんじゃないでしょうか。届くかわからない、感じられない人もいるかもしれない。それでも俺は、音楽を奏でる。旋律を奏でる。世界は美しいんだって、世界は本当に綺麗なんだって…。

なんとなくそんな、切なさに似た美しさが、ピアノの鍵盤の上を踊るような…

うまく言葉に出来ない何かを、僕は感じました。

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〈雑記〉

そんな感じで、オナニー文終わりです。

この再批評は、どっちかと言うと僕が「幸福に生きよ!」って本当にすべての人が美しいと感じられるの?みたいな。*1そういうものを最初に僕がプレイして感じたものとごっちゃにしてみて、それを再構築させたみたいな。ごめんなさい、僕も何言ってるかわかりません。

多分、素晴らしき日々ってのはそういうことを主題においているのではなく、多くの問いの無意味さを問いて、信じることがその根底にあるよ。みたいな。そういうウィトゲンシュタインが終止符を打った哲学的な問いへのリスペクトを含んだ作品だと思うんです(前批評も一応そういうコンセプトで作ってます)。多くの素晴らしき日々批評もそういうこと言ってるんで、まぁ、一つくらい素晴らしき日々の表で語られてないこと言ってもいいじゃんみたいな。

そういうこと言ってしまうと、素晴らしき日々をダシにして僕が言いたいことを言っただけのような…。ま、まぁ!作品について感じたことなので間違ってないでしょう!そういうものを「美しい」と思う事が、世界に意義を与えるんです!いい感じに話がまとまりました!(批評としては最悪です)

まぁそんな感じで。次はサクラノ詩…について書ければ良いなぁ…。

 

(終)

 

*1:結果としては、この世に真実という都合のいいものは無いんじゃないだろうか、的なところに落ち着きましたね。つまり、不確かな世界で、何を引き受けるのか。つまり「意義」や「価値」を持つことが、生に彩りを与えること。不確かな世界を確かな世界にすることなんだ。みたいな感じで最初の話を回収していければ良かったですね(願望)。まぁ「真実がないということが真実だ!」とか言い出すめんどくさい子もいるんですが、それって「ないことを証明はできない」みたいな悪魔の証明で死ぬんじゃないでしょうか。とか。そういうお話は今度機会があったら(絶対やらない)