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ここにいるすべての人のために

ノベルゲー・思想・小説なんでもござれ。思ったことをつらつら書いていきます。

キリスト教について僕がつらつらと話すだけの回

 

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(画像は本文と全然関係ないです)

授業で、キリスト教の礼拝を聞いてその説教内容とそれに対しての感想を書けという課題がありまして。

せっかくだし力入れて書こうぜ、と書いたのが今回載せる文章なわけであります。

一応一つの内容書くのに1時間半くらいですね。

特に脈絡もないし、多分前後関係がないとよくわからないです。それはレポートとして大丈夫なのか。

 

まぁ、メモ用に残しておくという感じですね。多分全5回か。そんくらいです。

ちなみに僕は全然キリスト教を信じてないせいで、若干のコミュニケーション齟齬が起きてます。向こうは父なる神みたいな話を出すんですけど、こっちはそういうものを前提としてないんですよね。

なんでまぁ、多分僕が言いたいこと言ってるだけっていう。まぁ、いつものやつです。

 

 砂の上の足跡(救いの話)

<説教内容>

すべて父なる神によって救われているという話。

<感想>

私はキリストの教えも何も知らないが、しかし今回の説教の「すべての人は救われている」という言葉は、なるほどと胸にすとんと落ちてきた。有名な詩の一つに「砂の上の足跡」というものがある。これは、常に隣を歩いてきた神様が、人生の辛いときにその人の足になって歩いてくれている、という内容だ。私は、説教を聞いている時、ふとこの詩のことを思い出していた。私は信心深い方ではない。神様はいないとまで思っているし、そのくせ困ったときだけ神頼みする始末だ。しかし、そんな私だが、すべての人は救われているというのはなるほど、不思議と分かる話である。人生の中には、想像のつかないような苦難が待ち受けていることだろう。しかし、そんな中でも、人は生きる事を選んだのなら生きなければならない。そして、神は私達が幸福に生きることをのぞむ。なぜなら、私達は常に幸福を望んで生きているからだ。神が私達を創ったのならば、神はそのように望んだに違いない。だからこそ、どんな苦難の中でも、私たちは神の望むもの、つまり私達の幸福を望んで生きる。それこそ、神が足になることの正体だと、私は思っている。そして、どんな苦難の中でも、神は私達の事を見守り、その幸福を望んでくれている。例えそれが、現実世界の何も変えることがなくても、それは確かに救いだと私は思うのだ。なぜなら、救いとは精神的な作用であり、現実世界になんら変化がなくとも、その人が救われたと感じたならそれは救いとなるからだ。私達が幸福を望む限り、それはつまり私達が生きる限り、神様は私たちのことを見守り続けている。誰かが、自分の幸福を祈り続けている事、それは神による救いの手ではないだろうか。そういうことを、今回の説法を聞いて考えた。

 

<メモ>

砂の上の足跡を元に、救われるとは何かを考えました。ここらへんはすば日々の系譜ですね。

 

 

原罪

<説教内容>

宮部みゆきさんの「悪い本」を例に、我々の「闇」についてのお話。

それを十字架の罪と符合させて語ってくださいました。

この時の説教者は加藤常昭さんというその道では有名な人らしいです。まぁ僕みたいに教養がない人間は、お名前すら初めて知ったって感じなんですけど。

<感想>

私は以前から、イエス・キリストが十字架を背負って処刑されたことが、原罪を背負ったことを意味するというのがよくわからなかった。さらに言えば、原罪と言うものそのものも、アダムとイブという我々の祖先が犯したという曖昧なものが、なぜ我々に適応されなければならないのか、とまで思っていた。仮に、そのようなものがあったとしても、それは言ってしまえばキリスト教の人間が創りだしたものを、キリスト教の人間が背負うという、失礼を承知で言えばマッチポンプのようなものを感じていた。しかし今回、加藤氏の説教を聞いて、なるほど、と合点がいった。宮部みゆき氏の「悪い本」を例にして言いたかったこととは、つまり我々の中の「闇」なのである。我々の「闇」とは、我々が悪いことと思う行動すべてである。それは、誰かの悪口を言ったり、誰かを傷つけたりということを「悪いと思うこと」である。言ってしまえばそういうものを「悪いこと」と思えない人間ならば、「闇」など存在しない、というより「闇」やそれに対なるものすら存在しないだろう。「闇」が存在する人は、それゆえに、「闇」に飲まれることを恐れる。それが、この本が示す恐怖の正体である。しかし、この「闇」を消すことは、本に書いてある通りできない。「闇」を生み出すのは自我(エゴ)であり、自己の欲望に他ならないからだ。そして、それに対なる、光とでも呼べるものは、他者への愛から生まれる。人は人として生きている限りこの二つの中でせめぎあう。自分の思い通りにしたら人が傷つくが、しかし人が傷つかないようにするには自分の欲望を殺さなくてはならない。その矛盾こそが、罪悪感というものを生む。罪とは、法やルールを守れば起こらないものではなく、自らの心によって引き起こされるものなのだ。これが、私なりの「原罪」の理解の仕方である。我々の心のなかにある、エゴと他者への愛のせめぎあいこそが、「原罪」なのではないかと思うのだ。そして、イエス・キリストは他者のためにその身を捧げた。そう仕向けたのは神などではなく、周りの人間、我々と何ら変わりない普通の人々である。それを悔いる限り、イエス・キリストという人間を、我々のエゴに従い殺したことを「悪いこと」と思う限り、我々は原罪に苦しみながらしかしそれを罪と感じる限り、善い方向へと行けるのではないか。原罪を感じなくなった瞬間、それはつまり「闇」が存在せず「悪いこと」を「悪いこと」と感じられなくなった瞬間に、人はなにか大事なものを失ってしまうのだろう。だからこそ、十字架にかけられたイエス・キリストキリスト教ではステンドグラスなどの形で表すのではないか。その罪を我々が忘れないように。我々が善い方向にいけるように。そのように私は感じた。

 

<メモ>

わりと強引にキリスト教関係に話を持って行きました。

臥猫堂(のり)氏の文章パクリシリーズその1

そのうちこの「悪い本」については文章を書きたいと思ってるんですけど、多分コレに大体言いたいこと言ったんで書かないかもしれないです。適当。

 

僕達はいつまでサンタクロースを信じられるか

<説教内容>

サンタクロースは子供の頃一度信じて、そして大人になった時もう一度信じる。それは、大人になった時、子供にサンタクロースのハナシを信じさせる時なのである、という話。

天使を信じるのはサンタクロースを信じることと同一である。

最後に「本当に大事なものはなんだろうか」と問いかけ説教を終える。

<感想>

 我々は常に、論理的に考えられ自由意志の下に行動している、と思いがちだがそんなことはない。なんとなくそう思ってること、なんとなくそう思い込まされているものなんていくらでもあるのだ。例えば近親相姦なんかがいい例だと思う。近親相姦は論理的に遺伝的に問題が起こるから、と多くの文化圏でタブー視されている。しかし、では遺伝的に問題が起きるなら障害者は子孫を残してはいけないのかという事になってしまう。そもそも、遺伝的に問題が起こるというのも学者によってバラつきがあるのだから、近親相姦がタブーという明確な理由は無いわけだ。しかし、それでも多くの文化圏ではタブー視されている。それはやはり「受け入れられない」と思われているからであろう。我々大人は、いつの間にか、そういった「当たり前」というものが文化によって形成されているのである。さて、子供はしかしこういう文化から形成されたものから比較的自由である。子どもたちは良くも悪くも、「無垢」とか「純真」というものを保持しているとも言える。だから許されるはずのない「将来お父さんのお嫁さんになる」なんて可愛らしいことも本心から言えるわけだ。だけど、子供はいつまでもサンタクロースを信じることが出来るわけじゃない。いつかそれがあり得ないことなのだと分かる時が来る。それが、子供達が「無垢」とか「純真」を失うときなのだ。勿論、「無垢」や「純真」が善い事だけを運ぶわけではない。子供は無垢だからこそとても残酷だと思えることも平気でできるし、純真だからこそ自分で考えることもなく動いてしまうこともあるだろう。自分の考えが全てだと思っているし、彼らの世界はゆえにとても狭い。しかし、そんな「無垢」や「純真」を大人達は、子供達を通して信じている。いや、信じるというより、子供達のそれを守りたいと思っている。現実はそんなものを許してくれないとわかっていても、しかし自分がかつて味わった感動や喜びを守りたいと思っているのだ。説教内の「天使」と「サンタ」とはつまり「無垢」と「純真」を指すのだろう。そんなものは現実が淘汰していくと知りながらも、大人達はその楽園を支え続けるのだ。もう一度その失ったものを取り戻せると信じて。それこそが、もう一度サンタクロースを信じることではないか、ということを思った。最後に「本当に大事なものはなんだろうか」という問いに対して。いつだって我々は子供の頃を郷愁とともに思い出す。子供の時には何もかも新鮮で、些細なものでも宝物の様に思えた。それを今は、成長のために切り捨てていってしまっている。それに興味を持って意味があるのか?それが好きで何か得があるのか?それは他の人から見たら変なことなのではないか?そんな、どこへ向かってかも分からない成長のために、いつかの宝物を捨ててしまうのは正しいのだろうか。これこそが本当に大事なものはなにかという問いの意味であると私は思う。そしてこの答えは、千差万別なのだろう。

 

<メモ>

天使の話ガン無視。

無垢とか純真につなげて、なにか忘れているものはないかい?みたいな話をしました。

臥猫堂(のり)氏の文章パクリシリーズその2ですね。パクリすぎだろ。

 

参考サイト

臥猫堂