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ここにいるすべての人のために

ノベルゲー・思想・小説なんでもござれ。思ったことをつらつら書いていきます。

ヒトでなし 感想 ―ヒトを救う、ヒトならざるもののハナシ―(5962文字)

「人を救えるのは人ではないものだけだ」

「仏様だって神様だって人じゃねぇだろうが。人でなしだよ。大体な。ヒトの言葉なんかじゃ人は救われた気にならねぇよ」―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

人が人を救えるかい、と老人は何処かで聞いたようなことを言った。

「あんた、そんなこととっくに解ってるんだろうに。違うか、オダさん。そうだろうよ。人が人を救うなんて、とんだ傲りだ。救ってくれるのは人じゃあない。だから神だの仏だのが要るのじゃないか。仏に救われようと思ったら仏の道をてめえで歩くしかねえのさ」―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

家族も。

社会も。

愛情も。

過去も。

俺が捨てたのか。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

俺は、ヒトでなしなんだそうだ。

 

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タイトル:ヒトでなし 金剛界の章

著者:京極夏彦

出版社:新潮社

 

以下感想なのでネタバレ注意

 

 さて、まずは所感から。

所謂『ヒトでなし』である男の物語。

この男は本当に何が起きても動じない。目の前で人が死のうとしようが、人が実際に死のうが、死体を山に埋めようが、顔見知りが人殺しだろうが、極めつけに娘を殺した殺人犯が目の前にいようが。

この男(主人公)に感情移入できたら病院行ったほうがいい、そのくらいの異常者である。(いや、異常”者”ではないのだろうけど)

さて、この物語で”おかしい”のはこの主人公だけではない。

というか、おかしくない奴がいない。イカれたメンバーを紹介するぜ!みたいなノリで頭おかしい奴らが勢揃いする。キチガイ役満である。

自ら命を絶とうとした女と、金に溺れ借金まみれの知人、さらに殺人を犯したチンピラ、自殺志望の少女に、人を殺すことをやめられない坊主、そして幼女を殺してまわる青年…

しかし、こんな登場人物達でさえ、主人公には遠く及ばない。

なぜなら、彼は正しく「ヒトでなし」なのだ。人である彼らは、人でない主人公に届きはしない。

 

さて、ここからは細かく本の中身を見ていこうと思う。

 

まず、この本では、本当に多く仏教の用語が出てくる。

湛宥が仏教の思想を持っているからだけではなく、主人公もまた本人が意識しないところで仏教の真髄を会得しているのである。

仏教の真髄、目指すべきところとは、一言で言えば「執着しない」ことにある。

 「執着がない。未練もない。俺が捨てきれない何かを、あんたは捨てっちまってんだよ。絶対に切り捨てられないことを承知で、それを折り込み済みで、捨てちまってるんだ。」

――湛宥

 ブッタの言葉を記したとされるスッタニパータにはこうある。

「(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれには煩悶が存在しない」

「聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない」

「宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない」

「見たこと・学んだこと・思想したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。/諸々の教義のいずれかを受け入れることもない」

「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ」

――スッタ・ニパータ(ブッタのことば:中村元著)

 はっきり言って僕もあまり内容を理解してないのだが(なので鵜呑みにしないでいただきたい)つまり、憎しむことも怒ることも嫉妬することも、そういった負の感情を持つこともなければ、愛することも感動することも喜びを感じることも、そういった正の感情を持つこともない、ということだろう。(正と負に分けるのはあまりにも稚拙ではあるのだが、便宜上ということで)

それは「人間性」を捨てた生き方だ。

人間らしさを、人間が人間であるためのものを、それを捨てた生き方。

ゆえに彼らは「ヒトでなし」なのだ。つまり、人を人たらしめているものとは「執着」なわけだな。それは尾田が最後の最後で右手に残っていたものを捨ててしまった、人間として大事なものだったわけだ。

そういうものを捨て去ろうと、作中の坊主たちは頑張っている。だけどうまくいかない、そういう話は湛宥もしていた。

「俺には関係のないものだ。無縁のものだ。そうしたものを凡て切り捨てて、捨てて捨てて、何もかも捨てて、漸く修行は成る。俺がこうして露悪的に振る舞うのはな、修行がなってないからだ。あんなクズでも孫だとは思うしな。執着もある。未練もある。あるんだよ、何処かに」

 ――湛宥

 しかし、その人間らしさを捨てたヒトでなしが(結果として)人々を救っていく。

なぜ、尾田は人々を救えたのか、そしてなぜ荻野はそれを理解できなかったのか。

それはおそらく、荻野を悩ましていた問題と、他の人々を悩ませていた問題が異なったためだろう。荻野は結局、金の問題で悩んでいたに過ぎない。金とは社会性の象徴であり、社会性とは人間性の発露されたる場であろう。金の問題で悩んでいた彼はしかし正しく人間的であり、その悩みもまた人間的だったのだ。(オギノの悩みはしかし人間的だが、対して荻野の悩みは人間的ではない。荻野の悩み、というか思考は哲学的なそれだったのだ。ようするに内面、自己内での悩みだな。)

尾田は、ヒトでなしは人間的でない悩みしか解決できない、と僕は考えてる。

人間的でない悩みとは、人の醜さを知って死のうと実行しかけたり(生死の悩み)、自分をある程度養ってくれた人を簡単に殺したり(感情の悩み、あるいは罪罰の悩み)、振り向いて欲しいだけのために死のうとしたり(人と向き合う悩み)、人を殺さずにいられなかったり(衝動の悩み)というものである。もちろん、少なからず誰かは当てはまるものもあるだろう。しかしそれを実行に移すかどうかが問題なのである。

普通じゃない、そう普通ではない。普通とは人間的であり、普通でないとは人間的ではないのである。

普通でない彼らの悩みなど我々には分からない。人間的ではないから。分からない。理解できない。もし理解できる方がいたら、それは人間として何かを欠落しているか、本の中にもあったように「理解できた気になっている」だけなのである。

そして尾田は人々を救う。彼にその気はなくとも、結果として人間的ではない彼らは救われているのだから、尾田は彼らを救ったのだろう。

そして、尾田が彼らを救えたのは、彼らに一つの嘘もつかず、そして彼らの存在を否定しなかったからに他ならない。

 「死にたいんです」

――死にたいなら、死ねばいい。どうでもいいんだよ。あっちに行けよ。さっさと死ね。

――早く死ね。

「殺したんすか。俺が。俺、悪いすか」

――他人事みたいに言うなよ。お前が指したから、それで江木は死んだんだよ。何度も刺しただろ。何度も、何度も。お前、見失ってんじゃないぞ。

「あたし死ぬの」

――なら、死なせてやるよ

「鶴宥はな、まだ若いが」

「あの男は十四の時に妹を殺した。理由はない。十二三の女児ばかり、三人続けて殺した。理由は――ない」

――そうかい。あの坊主と俺は関係がない。俺が口を挟むようなことはなにもないさ。

「ゆ、赦して下さい。ご免なさい。殺さないで下さい。お願いします」

――この男は気が狂れているのでも頭が悪いのでもない。何か基準がズレているだけなのだ。

 

――いいや。俺が赦せない、俺が俺が。私は見過ごせない、私は私は――こいつらは手前勝手な理由で暴力を振るってるだけなんだよ。それなのに、正義だの救済だの同情だの、そうやって理由を外に作るなと言ってるだけさ。それは卑屈な責任逃れじゃないかよ。みっともない

「お前の言うことは筋が通ってる。いちいちご尤もだよ、けどな、お前には情がねえよ。心がねえよ。ご立派な――人でなし様だよな」

 尾田の理論は正しい。それは冷徹なシステムのように、どこまでも「人間味」がなく、ただただ正しい。

尾田は最後の最後まで、彼らの存在を否定しなかった。それは決して死なせないようにした、という意味でない。彼らのその「在り方」を否定しなかったのだ。鶴宥がそうであるように、異端は自らが異端であるということを自覚しているからこそその「在り方」に痛みが伴う。異端とは、社会性からみた自己の在り方である。自らが異端だと悩む鶴宥は、決して社会に攻撃されているわけでない。彼の中にある社会性(人間性)が彼を苦しめているのだ。つまり、異端で在るということの苦しみとは社会への執着から生じるものである。社会からその在り方を否定される彼ら。その彼らの在り方を、嘘をつかず、どこまでも理論的に存在を否定しない。

ヒトデナシは嘘をつかない。それは鬼が嘘をつかないのと同じである。

つく必要が無いのだ。彼らは、社会性を失っているから。人の不自然さに、愚かな関係性に囚われることはない。

 

ヒトデナシが救った「人」は、普通ではない人であり、そしてヒトデナシには普通ではない人しか救えない。

物質的な悩みは物質的なものによってしか解決できない。それは荻野がそうであったように、金銭の悩みは金銭を持ってすれば解決できてしまうのである。

金銭の悩みとは、確かに「金銭がない自己」に対する悩みであったが、しかしそれは在り方の悩みではないのだ。

「在り方」の悩みとは、認められることでしか解決できない。それは人では出来ないのだ。人は感情がはいってしまう、情があってしまう。人とは違う「異端」をどこかで否定してしまうのだ。だからこそ、ヒトデナシは異端を認められる。情がないから。「異端」が存在してはいけない理由なんてものはない。それを言う人間がいたら、それは正しく人間的な情によるものなのだ。

人は変わらねぇよ

特に、理屈の通じないところで道を外れた奴らは、どうすることもできねぇさ。他人の痛みがわからない奴らは、どうやったって解らない。解ったような気になったってやっぱり解らない。それは絶対悪じゃねぇんだ。悪ですらねぇ。解らないんだから仕様がねえのさ。どうして人を殺しちゃいけないのか理解できない人間は、死ぬまで理解できないのだ。さあ、どうするよ。殺すのか?閉じ込めるのか?

ただ、そんな奴らをほっといてそうそう殺されたんじゃ適わねえからなあ、社会の中じゃ野放しにはできねえだろうさ。法律上は犯罪者だから、社会の中では裁かれるべきなんだろうしな。だが、その枠を外したときには―――

赦すしかねえよ

――湛宥

 尾田は赦したのだ。彼らの「在り方」を。

彼にその気はなくとも、結果として。

発信者と受け手で意味しているものが違っても、尾田は結果として確かに、彼らの在り方を赦したのだ。それは、尾田にとって言えば言いたいことを言っただけかもしれないが、受け手にしてみればそれは在り方を認めてくれたことに他ならないのだ。

 

 余談

 余談だが、この尾田の在り方は言ってしまえばウィトゲンシュタインの「認識の生」そのものである。というより、仏教の目指す所自体が認識の生に告示しているので、まぁそれはしょうがないのだが、しかし作中で「世界は、何もかもが俺で、俺というものは世界にない。だから。俺が見ているこの庭は。俺だ」とかそういったことばかり言われると(該当箇所は多いけどめんどくさいので書き起こしません)これもうウィトゲンシュタインを意識してんじゃないの!?というか素晴らしき日々じゃないの!?みたいなことを言いたくなるのである。そういえば、御大の作品の何かが(詳しくは覚えていない)とあるエロゲを髣髴とさせるらしいし、御大がエロゲーマーという謎の理論が僕の中でできつつある。違ったらめちゃくちゃ失礼だ。大丈夫か。

というか、おそらくシリーズ物の一巻でこんなこと書いてしまって大丈夫か、みたいなのはある。後々作品が出されて全然考えが違ったらやだなあ…

 

この作品について最後に一言だけ

この作品が言いたいこと、みたいな感じでまとめると次作が出た時に僕がめちゃくちゃ恥をかくんだけど、一応まとめておこう。

コレは異端者達の物語で、主人公の尾田は主人公に見せかけて(いや主人公なのだけど)いわばひとつの機構にすぎない。これは、異端者達の物語であり、異端者は自分の在り方に社会との整合性が取れないから苦しむわけだな。今回で言うと、リスカや自殺はそれがゆがんで現実に出てしまい、人殺し周りの話なんかは社会とは相容れられない在り方の話だったわけだ。そして異端者たちは”オダ”という救いの手を見つける。それは自らを否定しない社会(他者)と言っていい。やっぱり、この関係はコミュニケーションが取れていないのだ。まぁ作中によれば、コミュニケーションなんて正しく取れはしない、という意見なのだけど。

というか、尾田は間違いなくヒトでなしなのだけど、周りの担ぎあげる異端者たちもヒトでなしなのではないか。いや、ヒトでなしに片足突っ込んでるというか。

結局最後まで人間であったのは荻野だけであったし、彼は正しく人間的に異端者達に「異端」として扱われたのだ。うむ、可哀想である。

要するにこの本は、徹頭徹尾「ヒトでなし」の本であった。というのがまとめにふさわしいのではないか。とか、そういうことを考えてみる、間違えていたら恥ずかしい。

 

 

ホントの余談

人は、まあみんな人でなしなんです。どの辺で線を引くか、どこで社会と折り合いをつけるかというだけの問題で、線引きを間違えたり、折り合いがつけられなかったりすると、生きにくいわけですね。尾田という人はまさにそういうところにいるんだけれども、線を引き直そうとか、何とか折り合いをつけようとか、そういう考えは持たない。ある意味、あるがまま為すがままなんだけど、人は中々そういう境地にはなれないもので。これは理屈じゃないんですね。意識的に論理を超克するのはとても難しいんです。尾田はたまたまそうなっちゃっただけなんですけどね。修行もしてないし、発心(ほっしん)もない。でも、周囲が勝手に教化されちゃう。コミュニケーションなんてものは常に一方通行ですから、そういうことはあるし、そうなりたい斯(かく)ありたいと努力していても、中々行き着けるところでもないです。この宗派は禅宗ではないんだけれども、一種の頓悟(とんご)みたいなものですよね。

京極夏彦(インタビューより)

 御大のこのインタビューを見て、これはもしかしたら御大なりの壮大なアンジャッシュだったんじゃないかと一瞬思ってしまった…。というかそれはそれであながち間違ってないし、むしろ面白いのではないか…?

 

 

 参考サイト

京極夏彦・インタビュー「人は、まあみんな人でなしなんです」『ヒトでなし 金剛界の章』刊行記念 | インタビュー | Book Bang

 

 

(終)