古明堂

『こめいどう』と読みます。主にエロゲの批評などをしております。

Re:批評と云う名の呪術/テーマという御伽話

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呪いというのは、この世に本当にあるものなのか?

 

呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。プラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪いという。呪いは言葉だ。文化だ。

 

――関口、京極堂 (京極夏彦著『姑獲鳥の夏』)

 

 

「批評と云う名の呪術」というのは、僕が尊敬し、このブログを始める契機にもなったのりさんによるブログ、「臥猫堂」に掲載されていたコラムの一つであります。

この「臥猫堂」はかつてNiftyのブログで運営されていたのですが、この間このNifty自体が閉鎖し、ブログをみることができなくなってしまいました。(のりさんはブログをHatenaの方に移したのですが、移転作業を途中でやめてしまいました)

なので、ということでもないのですが、僕が感銘を受けたコラムを自分なりに再構築してみようかなというわけです。それに加え、僕なりの「作品論」というものを話せればな、という回です。

 

さらに、今回の記事で、僕が以前友人に言われた「作品に伝えたいテーマがあるなら、それを作品に込めずそのテーマをそのまま言えば良いのではないか?」という問いの回答が出来ればな、と思います。まぁその友人は覚えてないし見てもないでしょうけど、こういうのは自分の気分ですよね。という感じで。

 

サクラノ詩』、『あけいろ怪奇譚』で同じような話してるんですけど、まぁ気にしない方向で。

 

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ユメミルクスリ 批評 (5605文字) ―夢見る世界にサヨナラしようか―

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ブランド:ruf

企画:田中ロミオ

シナリオ:ユメミルクスリ製作委員会 

 

夢見る世界に さよならしようか

目覚まし時計がなるよ もう起きよう

夢見る世界に さよならしようか

白く霞む空 砕けて壊れる

 

 

2005年発売のユメミルクスリ。10年以上経ってしまった今ではrufも潰れましたし、絵師であるはいむらきよたか先生もだいぶ有名になりました(主にとあ魔の影響で)。

でもこう、やっぱりこの作品の奥底にある「現実感のない現実」という矛盾した感覚は今でも通じると思います。というか、こういうのって通じる人には通じますし通じない人には通じないので時代とかあんま関係ないような気も。

 

そんな感じでユメミルクスリ批評。当然のことながらネタバレ注意で。

 

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Fate/Grand Order 感想 ―人はいつまでも歩み続ける― (3575文字)

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ブランド:TYPE-MOON

シナリオ:奈須きのこ(メイン) 

公式サイト:Fate/Grand Order

 

ボクらは意味の為に生きるんじゃない。

生きた事に、意味を見いだす為に生きているんだ。

 

先日、FGOのシナリオをクリアしました。

スマホゲームでシナリオをしっかり作ってるゲームって結構珍しくて、そういう点で言えばFGOは異色のゲームといえるでしょうね。シナリオ自体は結構王道なのですけど。

スマホゲームという形で、敷居が低いこともあってか多くの人が「Fate」の魅力を、ひいては奈須きのこの魅力に感動してくれました。空の境界からの型月ファンとしてはこれ以上の喜びはないですね。来年もまた、新たなFGOに触れていけると思うと感動です。(てゆーか一ファンとしてはきのこの文章が定期的に供給されるってだけで神ゲーなんですが)

 

というわけでFGOの感想、あとFate/stay night(以下Fate)から見たFGOのテーマとかなんとか。基本的にネタバレなので、まだの人は、今すぐ、両方、やりましょう。

 

 

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11月9日:『P5』、『エルメロイⅡ世の事件簿』など

 

日記ってのは毎日やるから日記なんですよ!!

という話はおいておいて、今回は『P5』と『エルメロイⅡ世の事件簿』、それに『大迷宮&大迷惑』について。

ノベルゲーとかもやってないわけじゃないんだけど、最近批評作品を作る熱意みたいなのがなぁ…。とりあえず「ユメミルクスリ」とか「シンソウノイズ」とかで作れればいいなぁみたいな。

というわけでネタバレ注意。

 

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幸福論

文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして今私が、何故私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生であることを、自ら正当化する、と思われるのである。

――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年7月30日』 より

 

幸福とは何か、という話について。

多くの賢人がこの「幸福」について、「真実」や「善」「美」と同じくらい語ってきたと思います。しかし、どうにも僕にはしっくりこなかったといいますか。自分なりの「幸福」が長らくはっきりしなかった様に思われます。

 

俗物とは精神的な欲望を持たない人間である。

俗物にとっての現実の享楽は官能的な享楽だけである。

したがって牡蠣にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽を手にすることだけが人生の目的なのだ。

――ショーペンハウアー 『幸福について―人生論―』 より

 

ショーペンハウアーだけでなく、多くの賢人はこのような見解を示します。*1

でも、本当にそれは正しいのでしょうか?美味しいモノを食べたときに感じる幸福は、美しい人を抱いたときに感じる幸福は、美しい景色を見たときに感じる幸福は果たして別物で、その幾つかは「低俗な幸福」と分類されてしまうものなのでしょうか?

 

 

これは直感と言うか、僕の思想の基底にあるもの、あるいは信仰とよんでも良いようなものなので共感を得られないかもしれませんが、自分は「幸福」をそういうものだと信じてはいません。

 

自分は「幸福」とは「世界(あるいはその一部)を肯定した時に起きる副次的な感覚」だと思うのです。

 

美味しい食べ物を食べた時、美しい人を抱いた時、そういう「快楽による欲望」は、たしかにすぐ立ち消えてしまうものかもしれません。

しかし一瞬でも、その快楽によって「世界*2を肯定」できているのではないのでしょうか。そう考えると「生きてて良かった」と言える意味がわかる気がするのです。

世界を肯定することは、生を肯定することにほかなりません。(ウィトゲンシュタイン風に言えば『世界と生とは一つである』となるかもしれません)

 

 

そうして考えていくと、ウィトゲンシュタインの言葉は割りとスッと入ってくるような気もします。

というのも美が芸術の目的である、とするような考え方には、確かに何かが含まれているからである。

そして美とは、まさに幸福にするもののことである。

――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年10月21日』 より

 美とは言わば「世界を無条件で肯定させる」ものです。美を目の前にした時、我々は語る言葉を持ちません。言葉という枠組みの外側(あるいは言葉を超越した)に「美」は存在するのです。美しさを感じる、という言葉に顕著なようにそれは「感じる」ものなのです。言葉(論理)ではなく、感情(倫理)で理解をする。だからこそ、「美」とは信仰でもあるのではないのでしょうか。

 

 

 

 

 この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福であり得るのか。

――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『草稿 1916年8月13日』 

 まさに、世界を肯定することによって。

総てはモノの見方次第だ、と端的に言ってしまえばそうなのですが、僕はあまりこの見方は好きじゃないです。悲劇は悲劇として、憎しみは憎しみとして、絶望は絶望としてあらねばならないと思います。悲劇を喜劇にすり替えて、憎しみを愛にすり替えて、絶望を希望にすり替えて、そうして肯定した世界に本当に彩りはあるのでしょうか?それはただ醜いものをまっすぐ見ようとしないだけではないでしょうか?

人間の世界にようこそ。もし君が皆が幸せになる世界を作りたいなら、方法は一つだ。

――――醜さを愛せ。

――古美門研介 『リーガルハイ2』 より

 勿論、出来事を必要以上に悲劇に落とし込む必要はありません。ただ僕は、悲しみを、憎しみを、怒りを、絶望を否定する必要はないと思うのです。*3

 

これは僕の「信仰」であり、「思想」です。故に、ここに絶対的な正しさはありません。僕自身がきっとコレが正しいだろうと信じているものに過ぎません。誰かに強要するものではないし、できもしないでしょう。だからこそ、これは一つの「祈り」として、人が人として生まれ持ってきたすべてを零さぬように、世界の残酷さに屈してしまわぬように、何もかも失わず幸いでありますように。

 

人よ、人として、「幸福に生きよ!」

 

 

とかなんとか、そういう事を僕は思うわけです。

(終)

 

 

 

 

 

 

 

*1:巷にあふれている「幸福論」とは乱雑にまとめてしまえば「幸福とは精神の発露であるがゆえに、精神の充足こそが真の幸福なのだ」ってとこでしょうか。

*2:今更ですが、ここで言う『世界』とはWorldという意味ではなく、身の回りにあるコト・モノのすべてを指します。あるいはそういったコト・モノに対する自分の見解も含まれるかもしれません。世界内のコト・モノは不変のものとしてあるわけでなく、見る人の経験・能力によってその形を変容させるものですから。

*3:誤解してほしくないのは、悲劇を悲劇のままにしておくことを良しとしているわけではないということです。何かを否定し、それを肯定できるように変えようとするのは最も尊い行為でしょう。ただ、悲劇を、絶望を見て見ぬふりをするな、と言いたいのです。

8月15日:『教団X』、『サクラノ詩』など

試験的に日記を導入してみたり。

別に日記と言っても毎日更新するわけではなくて、批評作品として作る程ではないけどメモとして残しておきたいなぁ、位のものをおいておく感じで。

 

今回は中村文則著『教団X』と『サクラノ詩』について。

感想レベルの話なんですけど、まぁネタバレ注意で。

 

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サクラノ詩 批評 ―再び櫻は空を舞う― (38863文字)

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ブランド:枕

シナリオ:すかぢ 浅生詠

公式サイト:サクラノ詩

 

 

伝えたいこと、たったひとつ

瞬間を閉じ込めた永遠。

 

 

エロゲーの長い歴史の中で「いつ発売されるかわからないエロゲ」の代表格であったはずの「サクラノ詩」。10年の時を経て、ついに発売されました。

大体こういう「延期されたけどなんとか出したゲーム」って評判が良くない傾向がありますし、すかぢ氏の前作「素晴らしき日々」があまりにも素晴らしい出来栄えだったため、この「サクラノ詩」を僕は心の奥底ではあまり期待できずにいました。

OPも体験版も公式サイトもなるべく見ないように心がけ、満を持してプレイ。

 

……本当に素晴らしい物語でした。期待していなかった自分を殴ってやりたいほどに。

もちろん、「素晴らしき日々」とはまたベクトルが違った形の物語ですが、「サクラノ詩」もまた長い長いエロゲの歴史に名を刻むにふさわしい出来栄えだったと思います。

そりゃ萌えゲーアワード大賞取りますよ。こんなレベルの作品は5年に一度あるかないでしょう。あるんですけど。

 

と、まぁそんなすかぢ信者(あるいはサクラノ詩信者?)の僕がお送りする「サクラノ詩 批評」です。芸術とは何か、批評とは何か、美とは何か、世界とは、私とは、身体とは、心とは、そして幸福とは何か。僕が「サクラノ詩」から感じ取ったテーマを自分なりにまとめてみました。もしこれがをきっかけに貴方が「サクラノ詩」をより好きになってくれれば幸いです。

発売から半年以上たって何言ってんだって感じですけど。

 

 

というわけで、以下ネタバレ注意。

 

 

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